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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 周鴻慶事件に関する人民日報記事

[場所] 
[年月日] 1964年1月13日
[出典] 日本外交主要文書・年表(2),490−493頁.中共対日重要言論集10, 133−7頁.
[備考] 
[全文]

 中国貿易促進会の鈴木一雄理事長とその随員望月貢一氏および中共紅十字会訪日代表団の団員賀法嵐氏は周鴻慶氏につきそって12日日本の汽船「玄海丸」で大阪から大連港に着いた。大連港では中共紅十字会の彭炎秘書長,中日友好協会常務理事肖向前,中国国際貿易促進委員会連絡部副部長の孫希凡氏,旅大対外貿易局代表ら多数の人が熱烈に歓迎した。

周鴻慶氏の所属機関である中国機械工程学会の潘任憲秘書長,周鴻慶氏の妻,その2人の子供らも北京から大連港にかけつけて出迎えた。

 周鴻慶氏は昨年9月中国油圧機械代表団の通訳として日本を訪問したもので,代表団が訪日の日程を終わって帰国する前の数日,周鴻慶氏はだれからか分からない電話を何度もうけ,脅迫を受けた。周鴻慶氏はくりかえし刺戟をうけて,精神が不正常な状態になり,10月7日の早朝,酒を飲んだあと,もうろうとして代表団の宿舎を離れ,失踪したものである。その後,日本側の調査で周鴻慶氏はソ連の駐日大使館にいることがわかった。代表団の陶亨咸団長は周鴻慶氏の行く先をはっきり確かめ,周氏につきそって帰国するため,帰国の日取りを数日延ばし,東京に留まり,また日中友好協会,日ソ協会などの団体が7日の夜,代表をソ連大使館に派遣し,周鴻慶氏を陶亨咸団長に引き渡すよう要求した。しかしソ連の駐日大使館はきわめて横暴な態度をとり,はじめはこの事実を否定し,あとになって周鴻慶氏がソ連大使館の中にいるのを認めざるを得なくなったが,周氏を引き渡すことをこばんだ。これは日本各界の人びとと愛国的な在日華僑のいきどおりを引き起こした。

 日本政府は事件が起きてから,周鴻慶氏を日本の関係部門に引き渡すようソ連駐日大使館に要求したが,これもソ連大使館の横暴な拒否にあった。日本政府はソ連大使館と何回も交渉したが,みなソ連の駐日大使館に拒否された。日本政府が周鴻慶氏のパスポートの期限が切れているので,「不法滞在」という理由で逮捕状をだし,逮捕命令をソ連大使館に通知し,ソ連大使館は21時間にわたって不法拘留した周鴻慶氏を10月8日の午前2時なって,ようやく日本の警察署に引き渡した。10月9日,周鴻慶氏は日本法務省入国管理局に移され,拘留され訊問を受けた。

 ソ連大使館が周鴻慶氏を日本当局に引き渡したあと,米帝国主義と蒋介石グループはだたちに一連の陰謀活動を進め,まず日本政府に圧力を加え,日本政府が周鴻慶氏を台湾蒋介石グループに引き渡すようせまったが,日本政府は「必ず本人の意思を尊重しなければならない」ということを理由に同意しなかった。つづいて蒋介石グループのいわゆる駐日「大使館」の一等秘書呉玉良と米国と深い関係のある日本の弁護士が16日の午前,拘留所で無理やり周鴻慶氏と会見,脅迫と誘惑の手段で周鴻慶氏に祖国にそむくようせまった。しかしその日の午後,周鴻慶氏は日本の日中貿易促進会の以来を受けた弁護士小田成光氏と会ったさい,その場で台湾にゆきたくないと述べた。17日,周鴻慶氏は日本の入国管理局で小田成光氏と蒋介石グループの雇った弁護士の3方面との対決の際,何のあいまいさもなく,はっきりと台湾にゆきたくないことを表明し,正式に小田成光氏をその代理人として委任した。

 周鴻慶氏は日本の友人と愛国的な華僑の援助と支持を受けたあと,体も日ましによくなり,愛国主義の自覚は大いに高まり,たゆまずあくまで祖国に帰る闘争をくりひろげた。周鴻慶氏は10月24日,蒋介石一味が周鴻慶氏をひっかけるために送ったワイロの品物全部を拘留所の外に投げ出し,同時に次のような声明を発表した。「わたしは代表団の帰国に先だち,酒に酔い,その他の原因から代表団を離れた」,「だがある人はこの機会に乗じてさまざまな甘言と誘惑の手段をつかい,ときにはおどしの手段まで使って政治的に私を利用しようとはかった」,「しかし私は祖国−偉大な中華人民共和国を愛している」,「私は祖国に帰る」と。周鴻慶氏が1回目の声明を発表してから日本政府は10月26日,周鴻慶氏に対し強制立ちのき状を発したが,米国や蒋介石一味のさまざまな妨害にあり,周鴻慶氏はすぐに「出国許可証」を受けとることができなかった。このような状況の下で周鴻慶氏はあくまで祖国への帰国を要求するため,11月1日から絶食闘争をはじめ,かさねて声明を発表し,「私はできるだけ早く中華人民共和国に帰りたいと思っている」,「日本は私に強制立ちのき状をだしたが,今日にいたるも理由なく私を拘留している」,「したがってこれ以上たえしのぶことはできない。今日午前6時から,私を帰国させるまで絶食することにした」と述べた。

 11月4日,周鴻慶氏は絶食闘争を堅持している間に3回目の声明を発表した。声明は「私はどうしても中華人民共和国に帰る。絶対に台湾にはゆかない。私に台湾にゆけと強制しても死んでもゆかない」,もし「金や美人を使えば私に影響を与えられると考える人がおれば,それは大きい間違いである」と述べた。周氏は声明のなかで,日本と中華人民共和国がいま行なっている貿易は今後しだいに拡大するだろうし,日本政府が一日も早く私を祖国に帰すよう望むと指摘した。

 周鴻慶氏の絶食闘争は11月5日まで続けられ,もう身体を維持してゆけなくなったが,彼はなおも絶食を堅持するとともに,帰国できないならばむしろ死をと表明した。彼の健康状況を考え,日本の友人は周鴻慶氏に絶食をやめるよう勧告し,周鴻慶氏は7日保釈されて,日本の赤十字病院へ移され,治療を受けた。周氏は病気療養中に再び12月7日と24日に第4回と第5回の声明を発表し,日本政府が法律にもとづき彼に「出国許可証」を発給し,1日も早く帰国させるよう要求した。

 周鴻慶氏の事件が起こってから,日本共産党,日中友好協会,日中貿易促進会,国民救援会,日本婦人団体連合会,国際貿易促進協会,日本労働組合総評議会,東京華僑総会など32の政党と団体からなる周鴻慶氏事件対策委員会を組織し,日本赤十字社,各友好商社,高碕達之助,黒田寿男,鈴木一雄,岩間正男,安斎庫治,金子満広,石橋湛山,松村謙三,穂積七郎,原彪,細迫兼光,猪俣浩三,宇都宮徳馬,岡崎嘉平太,平塚常次郎,中島健蔵,須藤五郎,岡田春夫,大谷瑩潤,宮崎世民,西川景文,壬生照順,海野普吉,竹山祐太郎,古井喜実,緒方浩,櫛田フキ,帆足計,藤田茂など多くの著名人と各界代表がそれぞれ活動した。この人たちは集会を開き,署名,募金活動を行ない,請願デモや国会質問を行なって祖国への帰国を要求する周鴻慶氏の闘争を支持し,米国政府台湾蒋介石一味の妨害,恥知らずな破壊の陰謀を暴露,非難し,日本政府がこの事件に対して適切な処置をとるよう要求した。

 周鴻慶氏があくまでも祖国に帰ることを要求する闘争をくりひろげているとき,台湾の蒋介石一味は在日華僑の迫害,台湾における日本商品の排斥,日本業者の台湾における開業申請処理の停止,台北「中央日報」への日本業者の広告掲載停止など,また駐日「大使館」の閉鎖を決定するといったゼスチュアをし,日本と蒋介石一味との「断交」のさいは駐日フィリピン大使館に蒋介石一味の在日事務を代行してもらうなどといって日本にせまり,ありとあらゆる手を使って日本政府に圧力を加え,日本政府が周鴻慶氏を蒋介石一味に引きわたすよう陰謀をめぐらした。台湾蒋介石一味はまた,もし日本が船を派遣し周鴻慶氏を帰国させるならば,蒋介石一味の艦艇は途中で妨害して周鴻慶氏を奪うだろうとか,南朝鮮を通じて活動を進め,南朝鮮が蒋介石一味に協力して日本政府に圧力を加え,周鴻慶氏の帰国を妨害しようとした。

蒋介石一味の威かくは周鴻慶氏の帰国をはばむことができなかった。日本政府は,中華人民共和国にあくまで帰るという周鴻慶氏本人の意思にもとづき,公正かつ合理的な態度をとり,12月27日,日本を訪問中の中共紅十字会代表団に周鴻慶氏を引き渡し,周鴻慶氏は愛国的な華僑蔡世金氏の家にしばらく住み,日本政府は1月1日「出国許可証」をだした。

 9日,日本共産党幹部会員志賀義雄氏,日本社会党国会議員穂積七郎氏と東京華僑総会の代表ら多数が周鴻慶氏を送って船に乗せた。「玄海丸」が大阪を離れるとき,日本政府は百名以上の警官を派遣して波止場を警戒させ,艦艇を派遣して「玄海丸」の出港を護送し周鴻慶氏を祖国の懐に帰らせた。