データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 総理主催晩餐会における田中内閣総理大臣挨拶

[場所] 
[年月日] 1973年10月5日
[出典] 田中内閣総理大臣演説集,311−313頁.
[備考] 
[全文]

 首相閣下、令夫人、御列席の皆様

 本夕、首相閣下ご夫妻をはじめ貴国各界の指導者のご列席を得て、ご挨拶を申し述べる機会を得ましたことは、私の心から喜びとするところであります。

 今回の私の貴国訪問は、永年にわたり確立している日独両国の友好関係と、相互理解を更に実り多きものにすることを目的としたものであります。私は、その任務を充分果しえたものと自負しております。この席をかり、貫首相をはじめ貴国官民の心暖まるおもてなしに厚く謝意を表します。

 とりわけ、ノーベル平和賞受賞によって国際的に認められている貴首相の世界平和への熱意と構想を、貴首相から親しくうかがう機会を得ましたことは、今次貴国訪問の最大の収穫でありました。私は、今後貴首相のひそみにならって、貴国の哲人カントがすでに二世紀前に説いている人類の永遠の平和のために微力をいたして行く所存であります。

 しかしながら、わが国が貴国に範を見出すのは、戦後の復興と平和への努力だけではありません。一八六八年の明治維新よりこのかた、わが国における近代国家の建設が、ドイツの制度、文化の導入なくして考えられなかったことは周知の事実であります。わが国の先人たちがドイツに多くの面で範を求めたことは、賢明な選択でありました。ここで貴国の学術、文芸がわが国に与えた影響の主要なものを列挙するだけでも、私の滞在を延長しなければならないほどの時間を必要とするでありましょう。

 代表的な二、三の例をあげてみますと、法律の分野では、フォン・シュタイン、グナイスト、モッセ、そして近くはラートブルッフの名前があげられます。また、ビーティヒハイム出身の医師エルヴィン・ベルツは、明治、大正両天皇の侍医でありましたし、今日でも日本人の医師は、患者のカルテをドイツ語で記入するのであります。ちなみに、わが国で有数の温泉場、草津の湯を発見してくれたのはこのベルツ博士でありました。

 かつてドイツ各地の大学、研究所には若い日本人の医学者が集まっておりました。その一人で後に軍医総監になった森林太郎は帰国後、現在わが国に二十種近くも存在するゲーテの「ファウスト」の翻訳の一つをあらわしております。ドイツ音楽が日本に第二の故郷を見出していることについては、いまさら申し上げる必要もありません。この連邦首都ボンに眠るロベルト・シューマンのメロディーは、私どもの子供の頃から耳に親しく、またくちづさんだものであります。

 過去百有余年の日独関係をふり返ってみますと、わが国が貴国から得たものが余りにも多く、貴国に提供しえないものの少ないことを感ぜざるを得ません。私は、今次貴国訪問の機会に、貴国における日本研究促進のために基金を贈与いたしました。これは、両国間の交流にバランスを与え、「古き友人との新しきパートナーシップ」を確立しようとする日本国民の念願のあらわれであります。

 友情は、たえまない率直な対話によって初めて深められ強められるものであります。私は、今回の貴国訪問においてこのような対話の機会が十分に与えられたことに衷心からの喜びと感謝の意を表します。ブラント首相はかつて次のように述べておられます。「一枚の紙が半分まで書かれた時、その紙は半分満たされたということも出来るし、半分空白であるということも出来る。」私は貴首相に対して敢て、「われわれの紙は半分しか満たされていない」と申し上げます。この半分をいつ、いかに満たすかは、共通の仕事を進めようとするわれわれの決意如何にかかっております。私はその決意が両国に等しく存在することを確信し、これがあらゆる分野における日独両国の交流と協力の促進を通じて、豊かに美を結ぶことを日本国民を代表して熱望するものであります。

 連邦首相閣下、ご列席の皆様

 ここに杯を挙げ連邦大統領閣下、首相閣下ご夫妻の御健康、ドイツ国民の繁栄をお祈りします。