データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 大韓航空機撃墜事件関連文書,オガルコフ=ソ連参謀総長,コルニェンコ第一外務次官,ザミャーチン党中央委国際情報部長の共同記者会見

[場所] 
[年月日] 1983年9月9日
[出典] 外交青書28号,504ー506頁.
[備考] 
[全文]

1.本年9月1日夜ソ連極東において米特務機関によって行われた挑発の本質及びこれに関連するソ連防空機関の行動の性格は,9月6日付ソ連政府声明及びその前に政府の委任によって行われたタス発表の中で,極めて明白に述べられている。

 本日我々は,ソ側によって行われている出来事の全状況の入念な調査の資料を考慮にいれて記者会見を行うものである。発生した事態のすべての重要性を理解し,ソ連政府は,(事件)当日高い機能を有する特別の国家委員会を設置したことを率直に述べねばならない。同委員会にはソ連邦国家航空監査局を含む各種官庁の担当官及び専門家が参加した。同委員会は報告書を提出した。自分は,自らの発表において同委員会によって報告された事実及び結論に依拠するものである。

2.南朝鮮のソ連領空への侵入があらかじめ意図され,綿密に計画された偵察作戦であることは,反駁できないほどに証明されている。右作戦は,米及び日本の領土の一定のセンター(複数)からコントロールされた。人命の損失は無視され,ひょっとしたらそれを西側プレスが呼んでいるところの特別な「事件」のすべての重大な結果が生まれている。発生した出来事に対するすべての責任が完全にその組織者にあることは当然のことである。

 次にこの挑発的非行の各段階における具体的なデータについて述べたい。地図に注意を向けていただきたい。

3.第1段階は,飛行の開始である。アラスカのアンカレッジ中継空港を離陸してまもなく既に同機は設定された国際航路にそって飛行するのではなく,カムチャッカに向け進路を取った。我が方のレーダーによってカムチャッカのペトロパブロフスク北東800kmの地点で同機が発見された時までに逸脱はすでに500kmに達していた。しかしこの全期間中,飛行は米航空管制局及び米防空システムのレーダーの補足範囲内で行われていた。このような条件下において彼らが同機を「見失い」同機の設定された航路からのかくも顕著な逸脱に気づかなかったようなことはあり得ない。この(可能性)は,除外される。よって次の疑問が生じる。もし普通の定期航空機について話が行われているのなら,何ゆえ彼らはこれを修正しなかったのか。現在までこれに対する米国からの回答は得られていない。

4.次に,当診国際航路は,航行を保証する近代的無線技術機材により整備されていることは周知である。同航路を毎年約1万2,千の航空機が航行している。この国際航路においては,アラスカからカムチャッカをよこ切った線までは米の航空管制機関がそれより以遠は日本が航空管制に対する責任を負っている。航路には「ネービ」,「ネービー」,「ニッピ」等の特別航空管制地点が設置されており,各管制地点の上で,定期航路航空機は,自己の位置を確定し地上に報告すべきであり,一方地上の機関は航空機の通貨を厳しくコントロールすべきである。設置された管制地点の南鮮機による通貨に関する報告がない時に,ましてや定期航空機が同航路に存在しない時に,何ゆえ米国の機関は即刻警報を出さなかったのかとの疑問が生ずる。

 この質問に対する回答は現在までのところない。

5.南鮮機がまさに米偵察機,就中RC−135が常時当直任務についている場所で,ソ連レーダー・システムによってカバーされている地域に入ったという事実に注意を喚起したい。今回われわれは,9月1日地方(カムチャッカ)時間2時45分に同地域において偵察機RC−135を発見した。それはいささか奇妙なパトロール中であった。カムチャッカ時間4時51分にRC−135と似たレーダー・エコーを有する別の飛行機が同地域でかつ同じ8,000メートルの高度で発見された。両機は,相互に(スクリーン上のエコーが完全に重なるまで)近づき,そしてしばらくの間(約10分間)一緒に飛行した。その後,そのうちの1機は以前にも繰り返し観測されたごとくアラスカに向けて針路をとり,他の1機はペトロパブロフスク・カムチャッキーに向った。当然ながらソ連防空軍指揮所においては,偵察機がソ連領空に接近しているとの結論が下された。

6.第二段階はカムチャッカ上での行動である。5時30分侵犯機はカムチャッカに接近した。同機は,ソ連戦略力の最重要基地に向けてまっすぐに飛行していた。同機は,ソ連の管制機関及び防空軍機による問い合わせに何ら答えなかった。同時に,無線センター基地は,通常偵察データの通信に使用される周期的な短い暗号信号を傍受した。

 その間,防空軍の行動は121.5メガヘルツの国際遭難波長による決められた一般呼び出し信号の使用を含め(地上及び要撃機の双方から)同機と交信し,至近のソ連飛行場に同機を着陸させることにもっぱら向けられた。しかしこれらの試みは効力を発さなかった。侵犯機オホーツク海方向に飛び去った。

7.第3段階は,サハリン島地域における行動である。侵入機の行動は乱暴極まるものとなった。すでに発表されたように,侵入機は,ソ連迎撃機の警告弾に応答しなかった。更に侵入機は明白に防空機がらながれるために飛行の方向,高さ及び速度を変え始めた。地方(サハリン)時間の6時2分に侵入機がその方向をするどく変更し,我々の防空ミサイル部隊の配備位置を一周しサハリン島西部の重要な軍事施設の上を通過したのは かなり特徴的なことであった。偵察機が空中にいたことには疑いの余地がなかった。

 侵入機がサハリン島の南部に到達した際,侵入機を強制着陸させるための最後の企てが行われ,そのため地方(サハリン)時間の6時20分に4連射の曳光弾による警告射撃が行われた。侵入機がその期に及んでも要求に応ぜず,ウラジオストックに向かう一般的な方向をとって逃亡しようとしたため6時24分迎撃機はミサイルによって侵入機の飛行を阻止すべき命令を受け,その命令が実施された。

8.米側は現在あらゆる方法で,「ソ連があたかも最初から意図的に民間定期航空機を漬滅されることを自己の目的としていたかのように」証明しようと努めている。しかしながらこれは馬鹿げている。もしもかかる目的が与えられていたのであれば,我々は何回にもわたって,しかも保障された形で,戦闘機を空中に飛び立たせずに,米ではSAM−5とよばれている高射ミサイル(同ミサイルの射界を航空機は通過していた)によって,既にカムチャツカ上空で侵犯機を漬滅し得たであろう。

 結論として,カムチャツカ上空及びサハリン上空でのすべての出来事は深夜雲量(雲層の上部を侵犯機は飛んだ)の多い条件の中で発生したことに皆さんの注意を向けたい。既に述べられた通り,地方時間6時24分に同機の飛行は阻止されたが,当時夜明けは同所では7時11分に始まり,日の出は7時49分であった。その際ソ連防空軍がこの条件の中であらゆる可能な警告措置を講じた後でのみこのことが行われたのである。その行動はソ連邦憲法及び国境法並びに現行国際規範に正しく依拠して行われた。領空を含む自らの国境の擁護は各国の主権的権利である。

 ソ連軍はソ連国民の平和な行動の整備につき絶えず高度の戦闘準備体制にある。ソ連国家の全歴史を通じて,ソ連軍は栄光をもって自らの使命を果たしてきた。必要とならば,同軍は今後も自らの戦闘課題を果たすであろう。