[文書名] 日ソ交渉に関する吉田茂元首相の重光葵全権あて書簡
外相閣下、対ソ交渉のため、遠路海外出張の段まことに御苦労に存ず。
そもそも従来の日ソ交渉ほど不可解のことこれなく、樺太、千島の領土主権は連合国に対し、放棄せるものにして、ソ連は力をもって強奪占拠せるものに過ぎず、ソ連に対し我は抗議力争こそすれ、懇請すべき筋合いにあらず、鮭、鱒の公海漁業は米、加をも加えて沿岸国会議において決定すべく、これまたソ連にのみ懇請すべきにあらず、捕虜、未帰還問題も長きに亘り、抑留するが不法にして、戦後九年、戦犯に藉口して拘禁するの不法不正を世界の世論に力訴すべく、哀訴嘆願すべきにあらず。
由来ソ連は対外交渉において相手国により、手段は異にするも、目的は常に赤化、衛星国化にあり、世界制覇を終局の目標とするに変りなく、英に対しては貿易発注。北阿、中近東その他アジア諸邦に対しては経済援助、武器供与、さらに最近米英自由国家群に対しては共存共栄、東西交流および軍縮案を提唱し、もって自由陣営を攪乱せんとする意図の如し。ソ連がチェコ、ポーランドなど東欧諸邦を赤化、衛星国化せる跡をみるに、まず宣伝員を潜入せしめて国情を攪乱紛糾せしめ、しかる後に駐兵、革命、赤化の手順に出ず。極東においては終戦直前、日ソ中立条約を破棄し、突如兵を満州に進めて、軍事占領を開始、我が官、公、私有財産施設一切を掠奪し、巨額の我が軍器を押収し、これを北支共産軍に供給して南方国民軍を掃蕩し、全支を共産化し、ソ連の勢力下に収め、もって現在のソ支共産圏態勢を完成せり。
日本に対しては、終戦後ソ連は対日連合国の一員として対日理事会に加わり、その東京代表部には、五百にのぼる人員を配属して、対日宣伝、共産党の指導、ストライキ、労使闘争、工場占拠、手薄の地方警察、町村役場の急襲占領、鮮人暴動の使嗾など暴挙枚挙にいとまあらず、更に北海道駐兵をも提案せるは既に周知の事実なり。
最近の日ソ交渉において、鮭、鱒の漁業権を餌にして国交再開、大使館設置を提案せる、その真意は、推察するに難からず、まず宣伝、流説、飛語をもって国内を攪乱、外交関係の紛糾を捲き起さん意図たるは明白なり。然らざるも近時わが国民の政府、政党に対する不信の念漸く顕著にして、政府は対米親善はわが外交の基調なりとしばしば公言、標榜する半面、日ソ国交回復は現内閣の重大政策の一なりと誇称して、親ソ的意図をしばしば表明するは、自由国家群の信頼をつなぐ所以にあらず、これ米極東軍指令部及び連合軍司令部をハワイ若しくは朝鮮に移駐を招来せる所以に非ざるか。
さきにハースト系日本通信には、わが国情不安定を報道するあり、また英のエコノミスト誌は、現在日本には欧米にいわゆる政府なるものは存在せずと断言し、数日前のロンドン・タイムズには、参院選挙の結果より判断して、自由および共産陣営の間を彷徨する不決意の日本と批評しおれり。いまだ日ソ国交再開、ソ連大使館の設置を見ずして、国情不安定、外交系列紛糾の批評を招く態様を呈し来れり、いまや我が国運の前途暗雲低迷の観あり、まことに懸念に堪えず。この際に当り閣下自ら日ソ交渉の衝に当らる。国家全局の利害を念として慎重事に処し、案件を日ソ単独交渉より、旧連合国会議に移行、附議せしむるよう努力せられんことを要望す。