データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 日米安保条約を見直す

[場所] 
[年月日] 1972年6月
[出典] 久保卓也遺稿・追悼集,40−58頁.
[備考] 
[全文]

一 再評価の必要性

 (1)防衛力を持たないまま平和条約の締結を迎えることとなった占領後の日本としては,米国による防衛上の保護が必要であったろうし,米国としても,戦略的価値の高い日本を共産圏に引き渡すことはできなかったであろう。特に当時の米国としては,東西対立を背景に,朝鮮戦争において「証明された」共産主義国の「侵略性」を阻止するために,アジアにおいても共産圏の周辺に自由主義諸国陣による防壁,就中米軍の基地網を持つ必要に迫られた。一九五二年から五五年にかけての二国間あるいは多国間の安全保障体制はこのようにして生まれ,日米安保条約もその一環となったものである。したがって旧安保条約は,その文言にみる通りいわば対米基地提供協定ともいうべきものであって,日本の直接防衛の色彩は極めて薄いものであった。

 このような旧安保条約に対して,米国の日本防衛義務を明示してその片務性を是正するとともに,日本の自主性を織り込んだものが現行安保条約であった。ここで本来国民がもっと注目すべきであったのは,その名称の変化である。すなわち旧安保は,「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」であったのに対し,新安保は,「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び{前6文字強調}安全保障条約」となり,新たに日米間の「相互協力」を謳っている。そしてその第二条において日米両国は,「平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する」ことおよび「その国際経済政策における食い違いを除くことに努め,また,両国の間の経済的協力を促進する」ことを定めている。このようにして,旧条約に比し新安保条約は,軍事的性格も基地提供協定的なものから明確に共同防衛条約に変わるとともに,新たに政治,経済協力の性格を取り込んだのである。ところが新安保条約が,このように名称と内容(第二条)を変えたにもかかわらず,旧条約にならって単純に「安保条約」と略称されたところに,日米安保条約即軍事同盟と即断される一種の悲劇があったように思う。この点は,政府関係者といえども,いまだにあまり意識の上にのぼっていないのではあるまいか。

 (2)二国間または多国間の安全保障条約は,自由陣営についていえば一九四八年から五五年にかけて一〇条約が締結され,社会主義陣営についていえば,一九四三年から五五年までに一八条約(それ以後に七条約)が締結されている。これらの安保体制網が安全保障の砦として短期間に作られていったころは,根深い東西対立感の下に,いずれも同様の強さと意味合いを持つ,信頼性のあるものとして認識されていたに違いない。ところが東西関係の変化や両陣営内部の持つ矛盾などから,その後廃棄された安保体制は存在しないにもかかわらず,実質的には淘汰,選択が行なわれてきているように思う。CENTO,SEATO,中ソ友好条約等は形骸化しまたソ連とポーランド,東独,チェコとの間のそれぞれの条約も,ときに危機を迎えたこともあった。現在,自由陣営内で実質的に最も強固な安保体制はNATOであり,次いで米韓,さらには日米の安保体制であろうか。

 国際情勢の変化と米国のオーバー・コミットメントの修正の動きは,米国の加入している多くの安保体制に自ら格差を作っていくようである。今日の国際情勢のなかでは,単に安保条約が存在するというだけでは,安全保障の実効は期待できない。逆にいえば,米国にとってその国の存在が極めて重要な場合には,安保条約がなくても米国がその要請に応じて共同防衛の任に当たることもありえよう。そのことは,かつて米政府当局者がニクソン・ドクトリンの説明に当たって,同盟国のほか,「その国の存続が米国にとって死活的に重要であると考える場合,盾を提供する」としているところにも窺えるように思う。こうしてみると,米国が他国を援助する度合いは,米国にとっての利害の重大性如何にかかわることであろう。

 したがって日米安保体制は,安保条約の存否よりも,まず日本との提携が米国にとって重大な損害であるという関係が成り立って始めて有効に担保されるものである。そして日本がこのような関係に立ちうるためには,両国民間の友好関係を基礎にして,経済カ,技術力,軍事力,人口,文化等々の面がすぐれ,国際政治に対し大きな影響力を及ぼしうる力を日本が持っていることなどが必要であろう。

 (3)一九五〇年代の二国間または多国間の安全保障体制は確かに東西対立の冷戦構造に基づき,共産圏封じ込めの性格を強く持ち,軍事同盟の網によって共産勢力の浸透を阻止しようとしたものであることは疑いあるまい。しかしながら一九六〇年代に入って,核均衡を背景に米ソの平和共存時代を迎え,年とともに東西間の融和の度が進み,東西問題より南北問題が国際政治の主要課題となってき,同盟の枠を越えた平和努力が行なわれ出した。欧州がそうであるし,最近の米中接近もその例である。そして共産勢力の浸透阻止という分野では,軍事同盟のなかで米国と同盟国が共同責任をとるという姿勢から,同盟国の方が主たる責任を負うというふうに方向転換が行なわれ始め,米国は,より多く自国自身の利害を考えざるをえない事態に立ち至っている。このことの集約的な現われがニクソン・ドクトリンであり,その軍事的表現が,レアード報告のいうトータル・フォース・ストラテジー(総合戦力戦略)である。すなわち共産勢力浸透阻止の矢面に立つのは当該同盟国であり,米国はそのうしろ盾になるものであるとして,米国内には対外的任務の軽減を説くと同時に,同盟国に対しては,防衛努力の推進を要請するところとなっている。

 これからの問題は,米国が世界の問題にどの程度関心を持ち,どの程度これに関与し,どのような手段でこれに介入するかということである。両極化から多極化の世界に移ってきたということは,それだけ国際政治における米国の責任と負担を軽くすることであり,反面,米国としては国内の社会的経済的困難の増大によって,国内問題により多くのエネルギーを費やさねぱならないことにもなる。したがって米国としては,世界の問題に関心は持ち続けるであろうが,その関与の度合いは減少し,また,介入の手段は軍事的色彩を薄め,政治的・経済的その他の手段を多くしていくのではあるまいか。ただこの場合,米国にとって世界の地域による差異が重要なのであって,欧州第一主義が顕著となるにつれ,アジアについてみると日本,韓国,台湾あるいは東南アジアなどをどうみるかが問題であろう。

 (4)日本側の立場からみると,少なくとも日米安保条約があることによって防衛費の増嵩を押えることができ,国の安全感と繁栄をもたらしたことは確かであり,また朝鮮半島や台湾の安定によって極東の平和が長く続き,日本が反射利益を受けてきたことも間違いあるまい。

 しかしながら前述の米国の姿勢を背景にして考えると,今日および将来における日米安保条約の軍事的寄与の度合いはどうなるであろうか。また,中国の国連加盟,米中接近,日中国交の回復,さらに中ソ対立と米中接近を背景とするソ連の対日接近等を考えると,今後日本をめぐる国際環境は極めて複雑,多極化してくる。一九五〇年代は勿論六〇年代においても,日本は米国の方ばかり向いていても大過がなかったかも知れないが,右のような国際関係はさらに国際経済の大きな変動により加速されて,日本は多くの選択のなかから将来の方途を見出さなければならない。このようななかで,日米安保条約は果たして正常な位置にあるのか,それとも障害となっているものであろうか。

 このようにして,米国の国際政治に対する関与の度合いと軍事的介入の態様の変化および日本をめぐる国際環境の変化は,今日および将来の日米安保条約の意義について,改めて考えさせるものがあろう。わが国の外交や防衛の考え方には想像力(イマジネーション)と創造性(クリエイティブニス)が乏しい。常に米国の考え方のあと追いという印象である。しかし米国の考え方は絶えず流動的であり,それは,ときには激動的ですらある。われわれは,日本の安全保障の問題について,先見性をもって検討しておく必要があろう。

二 条約のメリット

 米国にとってのメリット

 (1)朝鮮戦争の起こった原因が,当時の韓国および米軍の「力の不存在」にあったことはまず間違いない。その後の韓国軍の増強,米韓安保条約の締結と米軍の配備などとともに,日米安保条約の存在が朝鮮半島の安定に大きく寄与してきたことは,これまた疑いのないところであろう。台湾についても同様のことがいえよう。また米国にとって,日米安保条約は単に北東アジアのみならず,広く極東全域の安定化のために活用しうるものであった。

 ニクソン・ドクトリンがアジアの放棄を意味するものではない以上,日米安保条約を始め米国が結んでいるいくつかの安保条約は,地域の安定と勢力範囲の固定化に役立ってきたし,今後もその役割を続けることであろう。しかしベトナムにおいては,ズルズルといわば民族戦争の深みにはまり込んでいったもので,その本質がゲリラ戦であり,特異な地政的関係もあって,米国の安保体制は抑止的効果を発揮していない,米軍が高度の近代戦向けに組織されている以上,国民大衆のなかにジワジワと浸透していくゲリラ戦に対しては,決定的な対応力とはなり難い。そのへんに安保体制の一つの限界がありそうである。

 (2)米国が日米安保条約を廃棄したら日本を核装備に追いやることになるであろう,だから同条約は維持されなければならない。この主張は,さきごろ訪中したニューヨーク・タイムズのレストン記者に対し周首相が否定した問題ではあるが,米国では恐らく広く支持されているところであろう。ちょうどソ連がNATOそのものは非難しながらも,一面,西独をNATOの枠内に入れておくことに一つのメリットを感じているのと似た関係にある。米国では,日本は将来核装備をするかも知れないとの観測が強いので,核の拡散を避ける米国の世界政策の立場からいうと,日米安保条約の維持がよりいっそう重要となるのではあるまいか。

 核装備は別としても,経済カが強大になり,国際政治に発言権を求めようとしている日本は,今後も軍事力の強化に努めるであろうが,もし日米安保条約がなければ,日本は不安のあまり軍事大国の道を走る可能性がある,それは日本を危険な存在とし,アジア諸国に脅威を与え,この地域に緊張をもたらすことになろう—このような意見が米国の識者のなかには少なくないようである。さる二月一日,全米に放映された「米国は日米安保条約を廃棄すべきではないか」というテレビ討論番組で,条約維持論者達(知日派のライシャワー教授を含めて)が,あまりにも単純,素朴に日本の核装備,軍事力増大への懸念の立場からその主張をしているのに意外の感を持ったものである。しかし日本人の感覚は別として,米国がそこに安保条約のメリットをおくことも十分考えられることである。

 (3)二国間または多国間の安保体制は,本来は軍事的性格のもので地域内の戦争抑止に寄与することを狙いとするものであるが,国際情勢の推移とともに,平和時における政治,経済的意義が強くなってきている。米国が世界政策の遂行に当たって,安保条約を通じて数多くの,しかも有力な同盟国を持ちうることは極めて重要なことであろう。一九七三年度の米外交教書のなかで,日本を国際社会における五極構造の一つに取り上げ,日本のますます自主化する国際政治活動を認めながら一定の枠内にあることを希望しているのも,日米安保条約の立場からの主張でもあろう。

 また,中共は,人口の面ではいうまでもないとして,その経済力,技術力,軍事力,国際政治への影響力等多くの分野にわたって強大国になりつつある。中共自身は否定しているが,確実に核大国への道をも走っているようにみえる。ところで米国の伝統的な世界戦略として,一つの広域圏—たとえば欧州とかアジアとか—においては,一つの支配的な強大国は作らせない(それが存在すれば米国の自由と利益が阻害される)という政策をとってきたように思う。この考え方からすると,米国としては中共をそのような存在にすることはできないのであって,米中融和の努力は当然進めるとしても,同時に中共のカウンター・バランスとして強力な日本を維持しなければならないことになる。ましてや日本が米国を離れて中共の傘下に入ることは回避しなければならない。このようなアジアの政治構造にするためには,米国にとって日米安保条約の維持は必須のものになるのではあるまいか。

 米国の共産圏封じ込め政策はすでに後退し,ニクソン・ドクトリンによってアジアにおける米軍の存在は稀薄化しつつある。アジアの平和については米国一国がその責任を担うものではなく,将来は米ソ中日の四国が,あるいは地域内の各国も参加して,アジアの平和維持の責任を分担する方途が模索されよう。しかしこのような将来の構図を描いてみても,米国にとっては,アジアの国際政治をコントロールする道具として日米安保条約を活用しうるものとみるのではなかろうか。この場合の安保条約は,軍事的性格よりも国際政治的性格がその中心をなすものであり,このような意味で,アジアの緊張緩和の傾向にかかわりなく,米国側から日米安保条約の廃棄を言い出す要因は存在しないように思う。

日本にとってのメリット

 (1)第二次大戦後日本を窺おうとした国があったかどうかは別として,冷戦時代を経験し,かつ常に隣接した軍事大国を持つ日本としては,日米安保条約があるために自国の安全保障について安全感を持ちえたし,また,朝鮮半島や台湾をめぐってたびたび緊張があったけれども,その安定と固定化にこの条約が貢献していることも確かであろう。このようななかで防衛費を国民経済のうちにおいてできるだけ低く押え,経済の驚異的発展と国民生活の大幅な向上に大きく寄与してきたのである。しかしながら,世界各国が自国の平和と安全の維持のために非常な苦労と努力を続けてきたなかで,日本は日米安保体制への全面的な依存と国際情勢に関する鈍感さから,国の平和と安全がまるで当然であるかのような環境の下に今日まできたといえるのではあるまいか。

 日米安保条約の戦争抑止力としての有効性は,日本を侵略しようとする国として軍事超大国たる米国との正面衝突を避けしめるところにある。したがって米国が介入し難いようなケース—たとえば他国と争いのある領土の争奪,国内のゲリラ的内戦争—や,米国が介入のいとまのないうちに目的が達成されるような戦争—たとえばイスラエル・アラブの六日戦争のようなもの—については,日米安保体制は必ずしも有効には働かない。また,米側において常に十分な援助を日本に送る体制にあるのでなければ,その有効性は万全ではない。この点については,すでにニクソン・ドクトリンにおいても援助のおよその考え方が示されているし,米国の国内情勢の如何によっても可変的なものであることを予想しておかなければならない。

 以上のことを考慮すれば,日米安保体制は,日本の全般的な戦争抑止力を構成するものであり,日本の安全保障の基調をなすものであるが,わが国を直接守る防衛カの面では,わが防衛力を主たる基盤とし(自主防衛),その上に米国の軍事力でもって補完するという構造に立つべきものであろう。

 (2)米国では,日米安保条約がなくなれば,日本が核装備に踏み切り,あるいは軍事大国に走る可能性が強いと懸念していることについてはさきに述べた。ところが日本では,この点についての言及が少ないのはどうしてであろうか。核装備については,国民感情を考慮してアプリオリに「論ずべきではない」との環境があり,また,政治面でも非核三原則が政策として天の声のように受け容れられている。米国を始めとする諸外国では,少なからず日本の核装備が理論的必然性として受け取られているのに,日本では,非核政策についての理論的説明がなされていない。ここに諸外国の猜疑心が残ると同時に,日米安保条約がその歯止めになっているとの解釈が生じているように思う。このような外国の観測の是非は別として,日米安保条約がなくなり,核の傘論の根拠がなくなった場合,核問題についての議論が高まるであろうことは予想されるが,それは日本にとって決して幸いなことではない。したがって日本としては,核装備することがわりに合わない政策であることを論理的に説明するとともに,適当な時期に核兵器不拡散条約についても批准を行ない,国内外の懸念をはらしておくことが必要であろう。このような立場からいえば,かりに日米安保条約がなくなっても,わが国が核装備するチャンスはないものと考える。

 したがって日米安保体制のメリットは,外国の人がしばしばあげるような,日本が核装備をしないための足かせであるというよりも,通常装備による防衛力の増強そのものを押えているところに大きな意味がある。一面では,日本への侵略を企図する国は,日米安保体制が健在であれば,米国との本格的な対決を避けるような侵略態様を選ぶであろう。長期間かつ大規模な戦争になれば必然的に米国を招き入れることにる。したがって,日米安保体制があることによって,侵略の規模や質を制約しえ,その結果これに対応すべきわが防衛力も,量,質の面で限定されてよいことになる。

 他面,日米安保体制の存在によって,わが国は専守防衛に専念し,必要とされる場合の戦略的攻撃カ(これは憲法の建て前上保有できない)や機動的攻撃カ,さらに装備の補充能力を米国に期待することができる。本来なら自衛隊は,法律上自衛のために必要とされる各般の対処ができなければならないわけであるが,安保体制があるために,非常に金のかかる大きな分野を防衛力の中に取り込まなくてよいわけである。

 このように防衛の対象を制約しえ,防衛力の量と質とを限定しうることによって,防衛力の整備にも一定の限度を与えることができる。もし安保体制がなければ,憲法上禁止されているものを除き,際限のない防衛力増強の要求が出てくる可能性があり,それを押えるに足る防衛論上の説明はなかなかむずかしい。したがって日米安保体制は,長期的にみれば日本の防衛カの限度を押えることに役立ち,軍事大国への道を封ずるものといってよい。

 (3)日米安保条約は,戦争抑止カとして日本および極東の安全と平和に寄与していると同時に,日本の核装備論を押え,防衛力増強に歯止めを与えるものであるとみてきた。これは同条約の軍事的側面であるが,さきに述べたようにこの条約はさらに政治,経済的性格を包含している。人々は,朝鮮戦争やベトナム戦争のことが念頭にあって安保条約の軍事面に目を奪われがちであるが,過去二十数年良好に続いた日米関係やひいては日本の目覚ましい発展は,その基礎に日米の友好関係を裏打ちする日米安保条約のあったことを忘れてはならない。この条約についてはしばしば引き合いに出される軍事問題の場合と異なり,政治,経済関係では,あたかも人間生活における空気や水や,土壌のごとく人の意識上にはのぼっていないが,極めて重要な役割を果たしてきたものであることを認識すべきであろう。将来にわたって長く平和が続くであろうという予測に立つとき,日米安保条約の持つこのような役割を,われわれはもっと重視し,活用すべきであろう。

三 条約のデメリット

 米国にとってデメリット

 (1)二国間あるいは多国間の安保条約は,共産圏封じ込め政策をとっていた時期の所産であるから今日なおこれを維持しようとするのは時代遅れである,したがって,日米友好関係は他の手段をもって求むべきであり,古い軍事体制を中心とする日米安保条約は廃棄べきである—このような議論が米国にも一部に行なわれている。米国の政策が一九五〇年代から大きく変わってきたことは疑いないが,問題は,安保条約の成立の経緯がどうであったかということではなく,現在および将来にわたってこの条約がどういう意味をもっているかということであろう。

 (2)米国は四一カ国との間に安全保障条約を結んでいる。今日の米国はこのオーバー・コミットメントに耐えられないから,多くの安保条約を整理すべしとの論があるかも知れない。しかしこのオーバー・コミットメントに対する対策がニクソン・ドクトリン—トータル・フォース・ストラテジーであったとみられよう。この戦略の狙いの一つは,米国外における人力の犠牲の軽減である。この点については,少なくとも地上兵力は同盟国が負担することを求めることによって解決しようとしている。

 この戦略の狙いの二つは,海外における過重な経費負担の軽減であろう。しかし日本についていえば,日本を直接防衛対象とする米軍はもうほとんどいない。実質的にいわば有事駐留の形となっている。このことは一九七三年度のレアード報告でも,日本をNATOや韓国と区別して「補足的部隊配備計画」の項に位置づけている。このほか経費面での対日決済が問題なら,米軍基地の一層の整理統合,艦艇の日本母港化,横須賀・佐世保の艦艇修理施設の日本への移譲,米国装備の日本への売却その他の手段が将来の問題として考えられよう。したがってオーバー・コミットメント(人力の犠牲,経費の負担)の問題は,コミットを全部止めるということではなく,いわば費用対効果の面から検討されるというものであろう。また現にある安全保障条約について形式的に廃棄の手段に出なくても,事実上形骸化していくものがあるように思える。このような環境のなかにはあっても,米国としては,日米間の根本的な対立が生じない以上,日本のアジアにおける重要性のゆえに日米安保条約を維持する政策を選択するであろう。

 (3)日米安保条約の存在が米国の外交改策の選択の道を狭め,特に対ソ,対中の政策の制約や障害になっているか。答えは否定的である。米国と同じくソ連も中国も二国間条約を結んでいるし,中ソ両国は,もはや自由諸国の集団安保体制によって包囲され,侵略される懸念があるとは考えていまい。西独はNATOの枠内にあって,対ソ,対東欧の関係の改善に成功しつつある。

 また,米国のとっている戦略の図式は,カとパートナーシップと意義ある交渉によって平和をもたらそうとするものである。言い換えれば,強力な軍事力の維持と適切な同盟国の存在とを基礎にして交渉を行ない,平和を実現しようというのである。ソ連とのSALTがそうであるし,米中接近もその例である。米国とソ連の行き方をみてみると,世界平和実現のためには,双方が現在の安保体制を崩して次の新しい地域の安保体制をつくろうというのではなく,現状を認めいったん固定化して,その枠内で各種の関係改善努力を行ない,その素地をつくった上で次の新しい体制へ持っていくという長期的な政策に立っているように思う。したがって,両国はそれぞれ将来のビジョンを持っていようが,その達成のためには,現在の体制が直ちに障害となるものではあるまい。米中関係についても表面的,公式的にはともかく,現実政治の面では同様であろう。

 日本にとってのデメリット

 (1)日米安保条約の存在によって日本は戦争に巻き込まれる可能性があり危険だとする発想は,従来からありいまだに消えていない。極東のなかで戦争があり,米軍が日本の基地を利用して戦争に介入すれば,その報復として日本が攻撃され,日本もまた戦争に巻き込まれる危険性があるというものである。しかしながらこの考え方は理論的可能性の問題にすぎず,第二次大戦後の戦争の実態および戦略思想からすれば戦争のそのような拡大は極力避けられる方向で進んできているとみるべきであろう。ベトナム戦争におけるラオス,カンボジアの戦闘は,全く異なる事情のものである。

 本来安保体制は,何よりも戦争抑止論の上に成り立つものであって,かりに日米安保体制が戦争に巻き込まれる可能性(論理的にありうるとしてもそれは部分的なもの)を秘めているとしても,そのような戦争を起こさせないようにするのが安保体制なのである。いわゆる戦争巻き込まれ論は,この日米安保体制が戦争の抑止に役立っている機能には目をふさぎ,一足飛びに理論的に起こりうる部分的な可能性を論じて本体の是非を問うているものである。

 (2)最近では,このような戦争巻き込まれ論はやや影を潜め,国際政治の多極化,特に日中国交回復問題の登場とともに,日米安保体制が,日本の最も有利とする外交の手段すなわち外交のフリー・ハンドを制約するものであるとの批判が強くなっている。確かに一九六〇年代までは,日本は日米関係を中心にして国際政治に臨んでよかったであろう。しかし七〇年代は政治的多極化の時代であり,中共の国連加盟,中ソ対立を背景に米中の接近とソ連の対日接近,日米間の政治経済的緊張等,日本にとって日米関係のみを国際関係の中心におくことはできなくなってきている。このような面から,日米安保条約のこのままの存続が,複雑化Lた国際社会のなかで果たして日本にとってはベストの選択であるかについて,検討の要望が一部に生じている。

 ソ連,中共とも日米安保体制については,早くから批判攻撃を加えてきた。確かに両国からみれば,当初この体制が両国を目標にするものと映ったことであろう。しかしながら国際情勢の推移と各種のコミュニケーションの進展によって実態認識が進み,両国の日米安保体制に対する批判も弱まっているように思う。特に共産諸国の場合は,表面的な見解(建て前)と内面的な意識(本音)とは,相当程度違うことが多いことに留意しなければならない。

 さきにも述べた通り中ソ両国も多くの二国間条約をもっているが,自陣営の条約は是であり,他陣営の条約は非であるとする合理的根拠に乏しい。両国から,多国間の不可侵条約とか安保体制の新しい提案はあるにしても,それは将来の問題であり,今,明日の政策ではない。また表面上の批判はともかくとして,日米安保条約による日本の軍事大国化の規制という考え方には,中ソ両国も同調しうるのではあるまいか。最近中共側から出さてれ{前2文字ママ}いる日中国交回復のためのいくつかの条件のなかに,日米安保条約の破棄が入っていないことは注目してよいところであり,この点からいっても,同条約が日ソ,日中関係の進展の障害になるものではないと判断される。

 国際関係の面で,米国寄りの外交がよいか,米国と離れいわゆる等距離中立外交がよいか,いずれが日本にとって得策であるかは十分冷静に打算すればよい。しかしながら日米安保条約があるからといって自主外交ができないものではあるまい。たとえば,NATOの枠は堅持しつつも西独やフランスは相当に独自の外交を推進している。多くの安保体制の存在によって確かな両陣営の色分けがされているが,さればとてこのような国際環境のなかで,日本だけが安保条約を解消しても,どういう具体的な利益が期待できるであろうか。それは今のところ極めて観念的な,希望的観測めいたものでしかないのではあるまいか。したがって,日米安保条約が外交上の自主性を害するかどうかは,条約の如何によるよりもわが国の外交の姿勢にあるといえよう。

 (3)日米安保条約が,米国に日本防衛に寄与させる代わりに基地を提供するという構造をとっているところに,国民に身近な問題が生じている。基地の存在からくる具体的な,多くの問題が国民感情を刺激し,それがまた高揚するナショナリズムとも結んで,反安保,さらには反米の感情にも高まっている面があることは無視できない。さればといって基地を提供しないとなると,日本は米国に守ってもらうがその代償は出さないという極めて片務的なものになり,約束事としては成り立つものではない。しかし国民感情もなかなか理屈では割り切れなるものではない。そうなれば結局,日米安保条約は存続させながらもその存在をなるべく目に見えないようにする,すなわち基地の整理縮小,米軍の削減,有事駐留方式への移行というような努力を今後日米双方がなさなければならない。ニクソン・ドクトリンや七三年度のレアード報告は正にこの方向に沿ったものであるといいえよう。

四 再評価の方向と新視点

 (1)以上においておおざっぱながら日米安保条約の持つ意義について検討してみたのであるが,この結果によれば,条約のもつデメリットも少なくはないがそれは軽減策を講ずる余地があり,平和を実証しうる体制ができるまではこの条約を維持しそのメリットを生かすことが,日米双方にとって有利であるという判断が出てこよう。そしてこの条約の持つ戦争の抑止,極東の安定化という軍事的機能は保持しつつも,特に平和の展望の強い今日においては,その政治,経済的側面を重視する必要が生じており,いわばこのような平時的意義をさらに拡大し,活用していく必要があるように思われる。以上のことを整理してみると次のようなことになろうか。

 (2)第二次大戦後世界各地における武力紛争は四〇を越えるといわれるが,自由,共産両陣営のすべての安保体制について,外部から武力的に挑戦されたことはない。したがって安保体制に関するとかくの批判はあったにせよ,十全ではない国連の平和維持機能を補完するものとして働いてきたことは疑いのないところであろう。

 したがって日米安保条約についても,極東の平和と安全の維持機能については将来も依然変わらず,この条約は,米国の極東さらに広くいえばアジア政策の支柱になっているものといえよう。ただこのようななかで,当初持っていた共産圏封じ込めの役割は後退し,この地域における戦争の抑止,したがって現状の固定化(軍事カによっては現状の変更を認めない)を目標とするものになっている。いわば当初は顕在的脅威という動的要因に対する対策であったものから,逐次潜在的脅威という静的要因対策に移りつつあるものと思う。そして極東地域における平和と安全が実証されるまでは,日米双方にとって安保条約の存続されることが望ましいであろう。

 ただこの条約と日本の安全保障との関係について強調しておきたいことは,戦争になった場合に日米安保体制がどのように機能するかということは,制服幕僚の研究としてはともかく,政治的問題としては実はあまり重要ではない。というのは,日米安保条約の本質は,戦争になったら米国はどう支援するかということではなく(日本は戦争に耐えられない),戦争をどのようにして押えるかというところにあるからである。しかしながら,このような本質を十全に生かすためには,単に安保条約があるという事実だけに安住していてはならないのであって,平時における準備体制が必要かつ重要である。すなわち日米の友好関係を基礎において,米国が有事に来援しやすい基盤をつくっておくこと(基地等有事駐留の準備),通信,情報等相互に緊密な連絡体制がとれていること,装備および後方体制について共通のないし類似の基盤を持つこと,米国の平時抑止力保持への寄与(第七艦隊への便宜供与)等々であり,これらの具体的な実施過程の問題としては国内政治にかかわりあいがあって政治的に解決されねばならないものも出てこよう。このような事柄は,日本の防衛カをそれ相応に整備するのとは実は重要性を持つものであるが,われわれの立場からみると,政治的には必須のなかなかむずかしいとされる問題も含まれていよう。しかしこのような日米安保条約の持つ戦争抑止の保持は,この条約そのものはどう変わろうと,米国の支援を期待するとする安全保障構想をとる以上は,将来とも必要なこととなるであろう。

 (3)今日世界の国際情勢が,大きな流れとして緊張緩和の方向に向かっていることはまず否定できまい。しかし歴史の実証するように,国際関係は,常に一張一弛の繰り返しであることも忘れてはなるまい。特に米ソの話し合いの進展,米中接近,欧州の雪解けの現象のごときは,いわば全世界的(グローバル)または広域圏(シアター)として問題であって,それは直ちに地域的(ロ—カル)な問題の方向をも同時に示すものではない。という意味は,たとえば米中接近によって,米中の直接衝突の危険は遠のくであろうが,インドシナ地域あるいは朝鮮半島というようなローカルの問題については,米中接近による全般約な緊張緩和が実現してもそれぞれが内包している別個の要因によって武力紛争が生じうるものなのである。日本もこのようなローカルな問題の一つである。このように,米中接近は必ずしも直ちにローカルの問題を解決するものではなく,日米安保体制を解消してもよい理曲とはならないものである。

 日米安保条約によって,日本の安全保障上の安心感が得られると同時に,日本の防衛カを適切にコントロールすることが,日本自身にとっても,また国際社会にとっても,有意義であるにもかかわらず,この条約に対する反対が少なくない。ただこの反対はどうも感情的なものが多く,なにゆえこの条約を廃棄して中立政策をとるのがよいのかということの合理的な説明がないように思う。自由,共産両陣営が安保体制網をつくっている国際環境のなかで,なにゆえ日本が中立をとって孤立することが国益上得策なのであろうか。たとえばソ連は,ワルシャワ条約機構とNATOを解消して全欧的安保体制をつくることを提唱しているが,その場合といえどもソ連と東欧諸国との二国間条約の解消には言及しておらず,恐らくそれを解消することはありえまい。

 中立ということは,バラ色に見える極めて魅力的なものではあるが,それを維持することは,スイスやスウェーデンの例にみるごとく,国民の大変な決意と努力を要するものである。のみならず実質的な中立は,その国が望んだからといって直ちに得られるものではなく,それはその国の歴史や国際環境の所産であり,そのような条件がなければ,かりに形式的に中立を宣しても,いずれはどちらかに傾斜せざるをえず,当初の目標は達せられないことになろう。

 しかしながらわが国において,安保条約が国民に全面的には受け容れられないのは,占領行政の尾を引くものであり,冷戦時代の申し子であるという認識が払拭されていないためこの条約の今日的意義がよく説明されず,日米の共同防衛という軍事的側面のみが強調され,さらにベトナム戦争に関連して同条約によってわが国がこの戦争に介入しているという論議がなされる余地があり,国民の反戦感情にアピールしてきたことなどがその理由であろうか。

 われわれは,将来何らかの形でアジアの安全保障機構が生まれ,確実な平和的環境が定着することを期待するものであるが,それまでの過渡的な対策として,日米関係を律するために日米安保条約の今日果たしている意義を認めていきたい。そして今後の問題としては,国際平和に役立つような日米関係をつくる,そのような取り極めが日米安保条約であるというような発想が望ましい。

 このような意味で,将来はこの条約の本質を,政治,経済,文化等多面的な友好協力条約の性格に改め,軍事面はそのなかに包摂させるか,あるいは全般的な友好関係の必然的な結果として,有事の場合の軍事協力が生まれるものであるというふうに考えていくのが適当であるかも知れない。いずれにせよ一九七〇年代前半において,われわれは,日米安保条約の将来のあり方について,じっくりと考えてみる必要があるであろう。

(防衛庁防衛局長昭和四七年「国防」六月号所収)