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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] アキノ大統領主催日・比晩餐会における竹下内閣総理大臣のスピーチ

[場所] 
[年月日] 1987年12月15日
[出典] 竹下演説集,165−167頁.
[備考] 
[全文]

 大統領閣下並びにご列席の皆様

 私は、本日午前、その名もニノイ・アキノ空港と改められた新生フィリピンの玄関口に降り立ち、私の総理大臣としての海外訪問の第一歩を、貴国の土に刻しました。大統領閣下のご招待と関係者各位の到着以来のおもてなしに、深く感謝いたします。

 大統領閣下

 昨年二月、貴国国民は、自由と民主主義に立脚した新たな国造りに立ち上がることを選択されました。それは、フィリピンの歴史を輝かしく彩る栄光の道であります。が同時に、それは厳しい試練の道でもあります。我が国政府及び国民は、同じく自由と民主主義を奉ずるものとして、また、古いえにしを有するアジアの隣人として、フィリピン国民のこの選択に熱い共感の拍手を送りました。

 その後、まもなく私は、大蔵大臣として貴国を訪問し、日本の閣僚としては最初にアキノ大統領閣下にお目にかかりました。私はその際、フィリピン新生に向けての貴国民の自助努力に対して、能う限りの協力を行いたい旨、お伝えいたしましたが、我が国はこの約束を誠実に守ってきた所存であります。

 また、大統領閣下は、昨年秋の訪日時に私の母校早稲田大学における講演で、その抱負を披瀝され、我が国の聴衆に強く清新なイメージを与えられました。

 このたび、ASEAN創立二十周年の記念すべき機会に、ここマニラにおいて第三回ASEAN首脳会議が成功裡にとり行われましたことは、アキノ大統領閣下をはじめ、国民の皆様のこれまでのご労苦の成果の一つであり、我々日本国民としても、真にご同慶に堪えません。

 大統領閣下

 我が国とフィリピンとの関係は、十六世紀に遡る長い歴史を有しております。当時フィリピンには、三千人の日本人町があったとも伝えられておりますが、現在も、ほぼ同数の邦人が貴国社会のお世話になっており、その中には、我が国の青年海外協力隊員約百名もおります。

 この協力隊は、今から約二十五年前に私が自由民主党の青年局長時代に、私も参加して行った調査に基づいて創設されたものであり、明日、これら協力隊の諸君と会うことは今回の訪問における私の大きな楽しみの一つであります。

 日本・フィリピン両国間の関係は、経済面に劣らず文化面でも深められなければなりません。このため、私は今回の日本・ASEAN首脳会議において、人の交流、学問、文化、技術面の一層の交流をはかることを目指す「日本・ASEAN総合交流計画」を提唱いたしました。

 先般、我が国の文化ミッションが貴国を訪問いたしましたところ、大統領閣下は、日比両国は文化面でも互いに学び合うところがあると述べられたとのことであり、私は大いに意を強くいたしました。

 私個人としては、フィリピン国民の心のやさしさ、あたたかさは、科学技術文明の進展の中でともすれば失われがちな大切な精神的要素だと考えており、私の政治信条たる「ふるさと創生」もこのような心を大切にしたいという願いに基づいております。

 今後、先のミッションの報告も踏まえて、貴国との間で協議を重ね、貴国の言葉で「パキキパグカプワ・タオ」と呼ばれる人間同士の連帯の絆を、より強靭なものとしてまいりたいと思います。

 大統領閣下並びにご列席の皆様

 私は、演説は短く、幸せは長い方がよいと信じております。

 したがって、ここでアキノ大統領閣下のご健康、ご列席の皆様のご繁栄、日本・フィリピン両国の友好を折って、高く杯を上げたいと存じます。

 マブハイ。