[文書名] 朝鮮の動乱とわれらの立場
一,朝鮮動乱の背景
今から丁度五年前,敗戦の現実によって戦争中の軍国主義的迷夢からさめたわれわれが,翻然として悟ったものは自由の貴さであり平和の有難さであった。ひとりわれわればかりではない。第二次世界対戦の終了とともに二十三億全人類はひとしく永久平和への希望を新たにしたのである。第一次大戦のあとでついに世界平和維持の使命を果すことができなかった国際連盟に代って,新たに発足した国際連合に寄せられた期待はまことに絶大なものがあった。どの国民もすべて平和をのぞみ,どの国も自由を基調とする民主主義を欲しているかぎりは,こうした期待は白日夢に終るはずがなく,全人類はようやくにして永久平和をわがものにしたかに思えたのである。
しかし不幸にして自由と平和への待望はつぎつぎと裏切られていった。東ヨーロッパでは自由が粉砕され,満州や中国では平和が容易にもたらされなかった。北緯三十八度線で二分された朝鮮では,国際連合の努力にもかかわらず統一が実現しないばかりでなく,事態はますます対立を深めてきた。西ヨーロッパでも,米国の経済援助に対して意識的なかく乱が行われ,わが国でも一時,無秩序が世間を支配するかの観を呈した時すらあった。このようにして戦後全人類の期待に反して自由と平和を基調とする民主主義は,自由と平和を破壊せんとする共産主義によってあらゆる妨害を受けているのである。
われわれの待望する講和条約もこうした情勢を背景にして急速な実現が見られなかた。マックアーサー元帥が昭和二十二年三月十七日,対日早期講和の締結を提唱したにもかゝわらず,全連合国間の話合いはとうてい望むべくもなく,徒らに自主独立へのわれわれの焦慮をかきたてているばかりである。いな,日本の講和条約ができないばかりではなく,国際連合自体すら期待通りの活動をしえない実情であった。戦後しばしば開催された連合国の外相会議も,平和の道を切り開かなかったばかりか,かえって「二つの世界」の対立を深刻化しているようにさえ思われる。一昨年から昨年へかけてのベルリン封鎖や,本年五月の東独青年団のベルリン行進デモは,あたかも世界平和がまさに危殆に瀕するかの心配をわれわれに与えた。この危機を救ったものは米英仏三国の毅然たる態度であった。すなわちベルリン封鎖に対し西欧側は総額一億七千万ドルに達したといわれる大規模な空輸を行って西ベルリン市民の苦境を救うとともに,封鎖を解除しないうちはドイツ問題について一切ソ連と話合いを行わずとの強硬な態度を持したため遂に約一ヵ年にわたった封鎖問題も大事に至らずして収まった。また東独の自由ドイツ青年団が,西ベルリン乗取りの気勢をあげた際にも,米英仏三占領軍は東独青年の挑発行為に対しては発砲も辞さないという強い決意を示したため,五月二十八日のデモは平穏裡に終了したのである。
今春以来,アジアが「二つの世界」の焦点になるのではないかといった徴候がいろいろな方面でみうけられていた。アジア各地域の共産勢力が歩調をそろえて武力闘争の準備をはじめてきたのである。わが国においてもいづこともなく叫ばれてきた「戦争近し」という声とともに,「平和を守ろう」といったポスターが街頭に氾濫しはじめた。われわれの待望する自主独立を一日も速かに達成しようという早期多数講和の主張に対して,全面講和,局外中立等の議論がわが国一部に次第に強く叫ばれるようになった。去る二月十四日に調印された中ソ友好同盟及び相互援助条約がわが国を「侵略日本」と呼び「日本と侵略行為について連合する国家」を目標としていたことは,ひとえに平和を欲するわれわれに異様な感じを与えた。また同条約第二条が中ソ両国は「日本との平和条約をできるだけ早く結ぶために相互の合意の下に努力することを約束する」と謳っているのも,共産国家間の条約であるだけに日本をめぐるアジア情勢のただならぬことを思わせたのである。
六月二十五日未明,突如として北鮮共産軍は北緯三十八度線を怒濤の如く突破して侵略を開始した。「自由と平和を守る」と自ら唱える共産勢力がいまや明かにアジアの平和を破り,ひいてはわが国の自由をも奪わんとしてきたのである。これはまことに解しがたいことのように思えるが,不思議でも何でもない。「二つの世界」という言葉が端的に表現しているように,「自由」についても,「平和」についても,考え方に「二つの世界」があるからである。
基本的人権の尊重を基盤とする民主主義的な世界は,地上のすべての国で国民の意思が自由に表明される体制が整えられるならば,世界の平和は必ず達成されると確信している。それは各国内における不合理は民主的な議会を通じる平和的方法で調整されるべく,国家間の対立は外交交渉や国際連合を通じて平和的に解決されることを理想とするものである。
これに反して,共産主義的な世界は,そうした民主主義的な考え方を全面的に否定する。階級闘争の見地に立つ共産主義は全世界の共産化が実現するまでは平和はもたらされないと主張する。国際連合についても,とうてい世界の平和を維持するに役立たないと考えるだけでなく,それは世界の共産化を妨害するものとさえ解するのである。共産主義にとっては世界の共産化を進めるための行動は,現実にはそれによっていかに社会の秩序が乱され,あるいは戦火がもたらされても,すべて「正義の行為」であり「解放の事業」なのである。いわゆる「平和闘争」とはこの謂である。政治的なデモやスト,昨夏起った如きもろもろの事件,北鮮軍の侵略など,すべてこの「平和闘争」に属するものであり,共産主義世界にあってはそれに賛成する自由のみが認められるにすぎない。
このようにして,共産主義世界の唱える「平和」がもたらされ「解放」が実行されるためには,民主主義世界の欲する平和は破壊され,自由は圧殺されなければならないのである。朝鮮の国民が家を焼かれ,飢に泣き,血にそまって倒れている現実が,すなわち共産主義のいう「平和」であり,「解放」なのである。自由と平和の貴さを否定し,自己の主張を無理やりに他人に押付けんとする共産主義の暴力が身近に迫っている場合に,われわれがまん然,手を拱いて唯々傍観しているとすれば,それは民主主義の自殺に外ならない。それについて思い出されるのは第二次大戦勃発前のミュンヘン協定のことである。事態の拡大を防止せんとする自由世界のあらゆる努力にもかかわらず,協定の成立後半年を出でないでドイツのチェッコ併合が行われ,ドイツ軍のポーランド進撃となって第二次大戦の火蓋は切って落されたのである。かくして自由の世界はミュンヘン協定から一つの教訓を学びとった。それは全体主義,共産
主義的国家の野望に対しては宥和政策は絶対に意味をなさず,野望はその鋭鋒の現われた最初の機会に断固これを粉砕しなければならないということであった。
二,立ち上がった国際連合
北鮮共産軍が韓国を攻撃したという報道を聞いて,われわれの胸を襲ったものは,日本の将来に対する不安と焦慮であった。われわれの心から嫌悪する戦闘が,わが国と僅かに海峡を隔てるだけの朝鮮で不幸にも勃発したのである。もしこの戦闘がさらに大規模なものとなる場合,憲法によって軍備を放棄した日本人がどのような運命に陥るか,という心配はもはや単なる仮定の問題ではなくなった。われわれの関心が米国政府と国際連合の動きに向けられたのは当然である。昨年六月末に韓国から軍隊を撤収して後は少数の軍事顧問を残留せしめていたにすぎない米国がいかなる措置に出るかは,日本自身の安全保障問題との関係においても等閑視できないところであった。
果して米国は世界の平和と民主主義を守るために,武力に対しては武力をもって立ち上がった。北鮮軍の攻撃に先だつこと五日,ダレス米国務長官顧問が京城で言明した「人類の自由という偉大な目的に向かって十分に努力をつくすかぎり,韓国は決して孤立無援に陥ることはないであろう」との言葉が,現実の措置によって裏付けられたのである。米国ばかりではない。いままでのわれわれの期待を充たすに足りないとさえ思われていた国際連合も,民主主義世界の強力な支持のもとに,俄然実効的な措置に乗り出してきた。
米国は直ちに韓国に対する武器援助の方針を決定するとともに急遽国連安保理事会の召集を要請した。この六月二十五日の緊急安全保障理事会は,北鮮の行動をもって平和の破壊と断定し,(イ)戦闘行為を直ちに停止すること,(ロ)北鮮軍は三十八度線まで撤去すること,(ハ)国連朝鮮委員会が北鮮軍の撤退を監視し情報を連絡すること,及び(ニ)すべての国連加盟国が国連決定の遂行に対してあらゆる援助を与えかつ北鮮援助を差控えることを要請することを内容とする米国提出の決議案をソ連代表欠席のまま九対○,棄権一(ユーゴ)で採択した。さらに二十七日の同理事会は,国連加盟国が北鮮軍の武力攻撃を撃退し,朝鮮における平和と安全が回復されるため必要な援助を韓国に与えるよう勧告することを内容とする米国提出の決議案を同じくソ連代表欠席のまま七対一(ユーゴ),棄権二(エジプト,インド)で採択した。
国際連合のこうした一連の強硬措置と並行して,トルーマン大統領は二十六日夜,米海軍に出動を命じ,さらに翌二十七日には,二十五日の安全保障理事会の決議に則って米海軍に韓国軍援助を命じ,それと同時に「共産勢力がいまや地下運動に頼る段階を超え,侵略と戦争に訴えた事情にかんがみ」第七艦隊に台湾に対するいかなる攻撃をも阻止するよう命ずるとともに,在フィリッピン米軍の増強とフィリッピン政府に対する軍事援助の促進及び在インドシナ・フランス軍,バオダイ軍に対する軍事援助の促進と軍事使節団の派遣を声明した。ついでトルーマン大統領は三十日には,二十七日の安全保障理事会の決議に則って(イ)米空軍に北鮮の軍事目標攻撃を許可したこと,(ロ)海軍に全朝鮮沿岸の封鎖を命じたこと,及び(ハ)マックアーサー元帥に対して地上部隊の使用を許可したことを発表した。
このようにして米国政府は国際連合の決議にしたがって急速な実力的援助を韓国に与えることになったが,この措置が広く民主主義世界の賛意と支持の上に立つものであることは,前記三十日の安全保障理事会の決議が国連加盟国五十九ヵ国のうち実に五十二ヵ国の多数によって支持されていること,またそのうち十ヵ国が国連派遣軍に参加を申し出たことによっても明らかである。すでにイギリス,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,トルコ,タイ,フィリッピン,ニカラグワは地上部隊の提供を約し,イギリス,フランス,オーストラリア,ニュージーランド,カナダ及びオランダは海軍部隊を派遣しているし,イギリス,オーストラリア,カナダ,ギリシャ,ベルギーは空軍の協力を提供している。その他中国も陸兵派遣を申出で,デンマーク,ノルウェー,フィリッピン,チリなど多数の国が医薬品その外の援助を申し出ている。
さらに七月七日の安全保障理事会は(イ)朝鮮作戦軍の合同指令部設置を勧告すること,(ロ)国連旗の使用を許可すること,(ハ)米国に司令官任命を委任する決議を同じくソ連代表欠席のまま七対○,棄権三(インド,ユーゴ,エジプト)で採択し,トルーマン大統領はマックアーサー元帥を国連軍最高司令官に任命した。かくて「闘う民主主義」の象徴として往時の十字軍にも匹敵すべき国連軍が誕生し,国連旗は高くマックアーサー司令部の屋上に,あるいは朝鮮前線の第一線でひるがえっている。
だが国際連合側のこうした努力に対してソ連がいかなる措置に出るかは非常に注目されたところであるが,リー国連事務総長が前記安全保障理事会の勧告を伝え,また米国政府が六月二十六日に朝鮮における戦闘の終止についてソ連政府が北鮮政権に影響力を及ぼすよう要請する覚書を送ったのに対して,ソ連政府は全面的にこれを拒否したのである。ソ連政府の主張は「安全保障理事会の朝鮮問題に関する決議は国連憲章の手続を無視して採択されたものであるから法律的効果を有しない」とし,また朝鮮動乱の責は南鮮側にあるから米国政府の韓国援助に反対するというにあった。
これを見ても明らかなように,世界革命を目標とする共産主義世界と個人の自由を基盤とする民主主義世界との間には尋常の手段ではとうてい話合いが成立せず,仮に話合いができたとしても決して永続きはしないのである。戦後平和を望むが故に自らの軍事体制強化を極力差控えてきた米国政府が,挙国一致とも称すべき国民各層の支持のもとに,いまや現実的立場から軍事体制の確立に乗り出さざるをえなくなったゆえんもまたここにある。
米国議会が多額に上る追加軍事予算や対外軍事援助費を承認しまた米国政府が徴兵法の発動による徴兵の開始をはじめとする国防の強化に乗り出したこと,あるいは北大西洋条約参加国が真剣に西欧軍事体制の確立を討議しはじめたことなどは,民主主義世界が朝鮮動乱を全世界にわたる民主主義体制に対する直接の脅威と判断したことを如実に物語るものである。
三,動乱の見透しと思想戦
「二つの世界」の対立は,かくて北鮮軍の侵略を契機として,全世界にわたる実力的対決にまで進展しつつあるかの観を呈してきた。動乱の地朝鮮を一衣帯水の彼方に控えたわれわれ日本国民として,朝鮮の危機が米ソ両国間の直接的武力闘争にまで発展するかどうかについて多大の心配を抱くことは,けだしやむをえないところである。
もちろん,われわれとしてかかる事態の発生は絶対に望むところではない。しかし民主主義の旗のもとに集結する国際連合軍とコミンフォルムの旗のもとに結集する国際革命軍との闘争は,今後ますます激化してゆくにちがいない。国際連合側は自ら欲しないままに実力をもって立ち上がることを余儀なくされたのであるから,自ら進んで戦局の拡大を図ることのないのはいうまでもない。一方,コミンフォルム側としても,一度立ち上がれば絶対的な力量を示す米国の軍事力と民主主義世界の不退転の決意を前にして無謀な戦局拡大は仲々決心がつかぬにちがいない。ここにわれわれが全世界を覆う暗雲のもとにあっても,なおかつ事態の不拡大に一縷の期待をかけるゆえんがある。
ところで上述のように侵略阻止のため毅然として立ち上がった国際連合は,もはや姑息な手段で共産主義世界との一時的,局地的妥協を図ろうと欲するものではないようである。すなわち国際連合は決して朝鮮問題のみの解決に焦慮しているわけではなくて,世界の他の地域に対する共産主義のこれ以上の侵略を強力に阻止しつつ世界の平和を確保する基盤を作り上げようとしているのである。そのためには,共産主義世界の軍事体制に対抗するに足る強力な軍事体制と世論の決然たる支持を背景とすることが絶対に必要である。目下国際連合はこうした見地から万全の準備を整えつつ,その一環としての朝鮮問題の解決を図ろうとしているのである。
さてこのような「二つの世界」の実力的対決に際して,われわれの最も注意すべきは思想戦である。民主主義世界の武器たる原爆戦は事態が最悪の段階に立ち至るまでは行われないであろうが,共産主義世界の武器たる思想戦はすでに最も重要な武器として世界の津津浦々にまで展開されている。共産主義は民主主義世界の「寛大」さにつけこんで自らに不利な影響を及ぼすべき全面的な武力対決を巧みに回避しつつ,戦争の切迫感をあおりたてることによって,民主主義世界の団結と決意を混乱させようと企図している。そのための重要な武器がこの思想戦なのである。朝鮮動乱は一見したところ,朝鮮半島の局地的問題であるかのように思えるが,実はそうではない。思想戦との関連においては,民主主義世界に住むわれわれすべてがすでに戦場にあるというべきである。その中でも共産主義は,日本に特別の関心をもっているのであるから,われわれ日本人は完全に朝鮮動乱の渦中に立っているといっても過言ではない。
こうした状況はまことに不幸なことであるが,否定しえない現実である。しかもわれわれは平和を欲するのであるから,もし許されるならば,あくまで紛争の局外に立ちたいと願うのも無理からぬところである。しかしながら民主主義と共産主義という,とうてい相容れない二つの勢力が全世界にわたって拮抗している情勢のもとでは,いかにわれわれが「不介入」や「中立」を唱えてもそれはとうていできない相談である。共産主義は全世界にわたる民主主義の絶滅を終極の目標としているから,共産主義に全面的に屈伏しないかぎり,その国はすべて共産主義の「敵」であり,共産主義国の辞典には「中立」や「不介入」などという言葉はありえないのである。思想戦の見地からみて,すでに戦場にあるともいうべきわれわれがあいまいな態度をとることは,実戦における敵前逃亡と同じ結果をもたらし,われわれの希望にもかかわらずかえって自由と平和を破壊せんとする勢力に利益を提供することとなり,真の意味における自主独立の回復にはなんら役立たないのである。
共産主義の行う思想戦は,民主主義の寛容とわれわれの素朴な平和愛に乗じて侵略の歩を進めてくるのである。われわれは何人も平和を望み戦争を欲するものではないから,「反戦平和」という合言葉は全く魅惑的である。しかし「二つの世界」の間には共通の「平和」もなければ,一致した人類愛も存在しないのであるから,単なる合言葉を唱えるだけでは,われわれの欲する真の平和はもたらされないのである。そればかりではない。共産主義の侵略を前にして,平和が現実にかく乱されている原因がどこにあるかを見定めないで,徒に共産主義世界の「反戦平和運動」に同調することは,民主主義を崩壊させるに役立つだけである。われわれが真に平和の回復を望むならば,まず平和かく乱の原因そのものを明確に認識する要がある。
更にこうした思想戦と関連して各種の破壊工作が行われてくる。国際連合軍が平和を回復するために多大の犠牲を払っているにもかかわらず,背後から国際連合軍の活動を麻痺させようとする工作が全世界にわたって行われている。とくに国際連合軍の重要な拠点であるわが国において,一部の共産主義者によってこうした破壊工作が現に行われつつあるばかりではなく,今後益々計画化されてゆく危険があるのである。これらの破壊工作を粉砕することは決して警察ばかりに任しておいてよいことではない。われわれの一人一人がこれを阻止して国の安全を守る義務がある。真の自由と平和がわが国で,そして全世界で守られることを欲するならば,国際連合の意図するところを正確に認識し,それに協力することが必要であるばかりか,それこそ朝鮮動乱を契機として展開されつつある不幸な事態を速やかに解消せしめる唯一の途であることを知らなければならぬ。
四,むすび
従来わが国の一部の間に全面講和論が真面目に取り上げられた原因の一つは,多数講和成立後における日本の安全に関し,漠然たる不安があったからである。この国民の不安を巧みに利用して殊更に戦争の恐怖を宣伝したのが共産党の謀略工作であり,局外中立,戦争不介入,軍事基地化反対等の議論はその手段であったのである。しかしながら今回の朝鮮動乱に際して逸早く取られた国際連合軍の活動と台湾防衛に関するトルーマン大統領の命令とは,さきに発表された「アメリカはアリューシャンから日本,琉球,フィリッピンにわたる防衛線について直接その防衛の任に当る」というアチソン長官の声明の経緯にもかんがみ,わが国の安全保障に対し重要な示唆を与えるものである。われわれが過去の過ちを清算し民主主義に徹底するならば,もし日本に対し朝鮮におけると同様な不挑発の侵略が行われた場合,民主主義は共同してわれわれに救援の手を差しのべてくれるであろう。
朝鮮の動乱は「二つの世界」が一致して希望するわが国の在り方もなければ,両者が共同でわが国の安全を保障してくれる基盤もないことをはっきりと教えてくれたのである。日本が平和的な民主主義国家としてとどまるかぎりは,いかに媚態を呈しても,共産主義世界の満足をかちとることはできない。したがって,民主主義を放棄して,全体主義,共産主義に屈従するまでは,われわれはたえず「戦争の脅威」にさらされる運命にある。しかしわれわれを共産主義の暴力から防ぐものは,民主主義国の団結の力以外にはないのである。憲法で交戦権を放棄したわが国が,民主主義国の団結に協力しその強化を助けるのは,すなわち自らを衛るゆえんであると考うべきである。
かくてわれわれの進むべき道は二つに一つしかない。すなわちわが国における民主主義の達成をあきらめて,共産主義世界に屈服するか,あるいはできるかぎりの協力を国際連合に致すことによって,その安全保障のもとに平和的な民主日本を建設するか,このいずれかである。朝鮮における民主主義のための戦いは,とりもなおさず日本の民主主義を守る戦いである。朝鮮の自主と独立を守るために闘っている国際連合軍に許されるかぎりの協力を行わずして,どうして日本の安全を守ることができようか。第三次世界大戦が起ったならば,日本ばかりでなく,世界の文明が破滅するのである。われわれの最も心すべきことは,世界の大動乱が再び起らないようにすることである。それには暴力による世界革命を目的とする全体主義,共産主義国をして戦争が商売にならぬことを知らせる外に途はない。
七月二十一日のロンドン・タイムス紙も「努力と犠牲を回避して,自らの義務を忘れ,現実の基礎のない平和への夢に眠るものは,より大きな災害を自ら招かんとするものに外ならない。これはわれわれが幾度も経験した道程であり,全面的な災害,無鉄砲な敵との死闘に再びわれわれを導く道でしかない」と論じている。今日のように相対立する二つの世界の間に処して両方より好かれようというが如きは余りにも虫のよい注文である。このようなあいまいな態度は,これがいかに真面目なものであっても,結局において共産主義の乗ずるところとなり,民主主義の挽歌を奏する結果になるにすぎないことを,われわれは篤と銘記すべきである。