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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所
機密文書研究会 東京大学・法学部・北岡伸一研究室

[文書名] 日米相互協力及び安全保障条約交渉経緯

[場所] 
[年月日] 1960年6月
[出典] 外務省,いわゆる「密約」問題に関する調査結果報告対象文書(1.1960年1月の安保条約改定時の核持込みに関する「密約」問題関連),文書1-2
[備考] いわゆる「密約」問題に関する調査報告の際に公開された文書。公開されたものはタイプによる文書。漢字、送りがなの用法、誤記と思われるものも含めてできるだけ忠実にテキスト化した。
[全文]

極秘{前2文字囲み線あり}

昭和三十五年六月

日米相互協力及び安全保障条約交渉経緯

アメリカ局安全保障課長

目次

(一) 三十三年九月藤山大臣ダレス国務長官会談に至る経緯   一

(二) 三十三年十月四日より十一月二十六日に至る経緯     九

(三) 三十三年末より三十四年三月二十日に至る経緯     二二

(四) 三十四年三月下旬より五月初旬に至る経緯       三一

(五) 三十四年五月中旬より六月下旬に至る経緯       四二

(六) 三十四年七月より新条約署名に至る経緯        五六

補遺                            七五

(一)三十三年九月藤山大臣ダレス国務長官会談に至る経緯

一、 日米安全保障条約改訂は鳩山内閣以来歴代内閣の懸案であつたが、昭和三十二年六月の岸総理大臣訪米の際にも日米間の安全保障問題は最も重要な議題としてアイゼンハゥアー大統領との間に取上げられ、その結果、日米安全保障委員会を設け、安全保障の分野における日米両国の関係を「両国の国民の必要及び願望に適合するように今後調整することを考慮する」ことに合意された。

二、 同年八月に発足した安全保障委員会は、極東の軍事情勢の検討や米軍の撤退に伴な{前1文字挿入(手書き)}う諸問題の処理について話合の場を供することとなつた次第であるが、安保条約自体の改訂問題にまで触れることはなかつた。然る処、翌三十三年五月の衆議院総選挙の前後より、日米間の最も重要な問題である安全保障関係について基本的な話合を試みるべきであるとの気運となり、本省事務当局においてその具体的準備を進めた。

三、 右の準備において、基本的な問題は、わが国の安全保障の基礎を米国との共同安全保障体制の上に置くとの大前提に立ち、米軍の急速なる撤退と自衛隊の漸進的育成という現実の事態に如何に対処して行くべきか、すなわち究極的には米国の日本防衛義務を如何にして条約上確保するかということであつたが、さらに従前国内で絶えず問題となつて来ている核兵器持込問題、在日米軍の作戦的出動の問題等を如何に手当てするかの問題も解決しなければならなかつた。かかる見地から草案として取纏められたものが五月二十四日付「大臣より米大使に懇談すべき当面の安全保障問題について」である。

四、 総選挙後の第三次岸内閣は六月十二日に発足したが、この間本省内においても逐次準備を進め、七月十八日の外務大臣米大使会談において先づ日本側より安全保障問題に関する見解を披瀝すべき旨を打合せた。而して同月三十日の会談において、大臣より、(イ)共同安全保障体制を充実する問題として(1)自衛隊と米軍の協力の基本関係、(2)在日米軍配備に関する協議、及び(3)軍事援助について、又(ロ)安保条約体制に関して調整すべき問題としてはいわゆる相互援助型の条約の問題は猶慎重研究を要するも、当面の問題として(1)在日米軍の日本地域外使用の問題、及び(2)核兵器の問題を挙げてわが方の見解を説明した。{「としてはいわゆる・・・(2)核兵器の問題」の行の上に手書きでチェック印あり}この会談において大使は、日米安全保障関係を持続性あり且信頼性ある基礎に置く見地より、日本側は日本憲法の範囲内において相互援助型の新しい条約を結ぶことが若し可能であるとしたならばそれを希望されるか、あるいは左様な新条約が可能であるとしても猶現行安保条約によりつつ補助的取極をもつて個々の問題を処理して行くことを適当と認められるや、との質問を提起した。この問題は政治的に極めて重大な問題であるので、同日の会談においては大臣より総理と篤と話した上回示すべき旨を留保した。

五、 その後偶々勃発せるレバノン事件のための国連緊急総会出席のため、大臣は八月十三日より二十四日まで東京を離れたが、同二十五日、総理を交へて大臣、大使の会談が行われた。この会議において、総理は、条約を根本的に改訂するということになれば国会において烈しい論議が予想されるが、烈しい論議を経てこそ日米関係を真に安定した基礎の上に置くことが出来るのであつて、出来れば現行条約を根本的に改訂することが望ましい旨を強調し、もつとも新条約のため著しく時日を要するならば現行条約はその儘として補助的取極により個々の問題を処理して行くの他なかるべき旨を附言した。すなわち新条約の交渉は、現実には右八月二十五日の総理、外務大臣、米大使の会談をもつて発足したものと謂うことが出来るが、次いで米大使は大臣訪米準備のため、九月五日一足先に帰国の途についた。

六、 外務大臣は九月十一、十二の両日ダレス国務長官と会談したが、安全保障問題は十一日の会談で取上げられた。大臣より日本内外の情勢の変化もあり安保条約問題を再検討すべき時期であると認める旨を説明し、その方法として新条約か、条約改正か、あるいは補助的取極によるかが考へられる処、精神としては新条約を作つて国会等において充分論議を尽し、これを通り越えて日米関係を真に安定した基礎に置くことが望ましい旨を説いた。これに対し、国務長官は、日本政府が米国との共同安全保障関係を維持しこれを如何に改善していくかを問題としているものなることを多とすると前置きし、米国政府は若し第一の方法が困難であるという場合は第二又は第三の方法に戻ることあるべきを留保しつつ第一の方法の可能性を探求する用意ありと確言し、国務国防両省で研究の上上院関係方面とも原則的な話合を行い十月匇々には東京において討議を開始し得る見込みなりと述べ、更に米国が新条約において現に条約上有する権利を自ら制限し而も条約上充分な代償なしに新に大きな義務を負わんとする所以のものは米国が法律的の権利義務関係よりも精神的紐帯を尊ぶが故に他ならず、その気持は日本国民に分かつて貰いたい所であると結んだ。

(二)三十三年十月四日より十一月二十六日に至る経緯

一、 外務大臣は九月二十七日帰京したが、降つて十月四日総理、外務大臣、在京米大使の会談が行われた。この間事務当局においては新条約に関する腹案に付準備を進めていたが、同日の会談において米側は新条約案並びにいわゆるフォーミュラ案を提示すると共に、国連軍との協力に関する吉田・アチソン交換文存続に付確認を求めた。

二、 新条約は日本憲法と抵触しない相互援助型の条約という命題を与へられていたものであつて、新条約により米国が日本防衛義務を負うという点が尠くとも米側から見れば安保条約に対比した場合その核心的な問題であるから、米側が新条約案として提案するものは、米国が既往において与国と締結して来た相互援助条約の形式を踏襲するであろうことは米国の政府と議会の関係よりしても固より予想される所であつた。而して十月四日米国案は正しくその趣旨で起草されたものであつて、爾後の条約に関する交渉は米側の固執する既成の型と日本憲法上の要請を如何に調整するかということが一つの眼目となる訳であるが、右草案における日本憲法との関係に就ては、第五条において憲法手続の留保があるから、日本は海外派兵等憲法上許容されないことは何等義務を負うこととならず米国も期待しおらずとの説明であつた。次にいわゆるフォーミュラは日本側が重視している核兵器持込問題及び日本施設の作戦使用問題に就てこれを協議事項とするものであつて、米側はこの種の問題は行政府の専管事項であるから政府間の交換公文とする要あり{前32文字手書きで傍線書き込みあり}としてその骨子を提案せるものである。又吉田・アチソン交換公文は、米側においてはこれを平和条約の附属文書として取扱つているため、その存続を確認し置く要ありとのことであつたが、右は米上院方面において朝鮮における不測の事態に対処することを非常に重視している現れとも受取れた。

三、 前記新条約米側草案は、第五条において形式的に相互援助の形を整へ、更に第六条において米軍の日本の施設区域使用を規定している処、彼我の軍事力の実情よりするも将又米側は日本の憲法の許容する以上の何物をも期待せずとしていることよりも、条約上の権利義務の均衡は、実質的には米国の日本援助義務と米軍の日本の施設区域使用に求められるべく、両々相侯つて双方の利益に合致することとなるという考へ方であることは明らかである。加うるにわが方においては条約地域の決め方に関して憲法的政治的に極めてむつかしい問題があるので、先づ第五条を如何にすべきか{前1文字挿入(手書き)}が最も重要な問題となるのは当然である。すなわち、

(イ) 太平洋地域の米領土を条約地域に含める場合は、先づこれに対する攻撃をわが国に対する危険と認めること自体に憲法上の問題があり、又その防衛のためわが方の施設区域の使用を許与することは既に第六条において約束することであるから右以外に第五条に基くわが方の援助内容如何という議論を招来すべく、更にこれを条約地域に含めることは実質的意味なきに拘らず一般世論には日本が新に大きな軍事的義務を負つたとの印象を与うることとなるを避け得ざるべく、

(ロ) 沖繩小笠原については、これを条約地域に加へる場合は米国の施政下にある地域として入つて来るのであるが、これを条約▲{▲は地と思われる}域から外すことは国民感情上その他種々の難点あるも、他面これを含める場合は前記太平洋地域の米領土の場合と同様具体的援助内容如何の問題を招来すること必至であり(日本が沖繩に関し何等かの具体的措置をとる場合の法律問題に関し三十三年十月の衆議院内閣委員会等において総理のいわゆる「米国の施政権が凹む」との議論となつた)、更に米国が平和条約において日本から施政権を取上げている地域について日本が米国に対して防衛の義務を負うということは不当であるというような議論から施政権返還問題と絡{前2文字挿入(手書き)}んで来ることも予想される所である。

這般の事情は累次米側に説明を試みると共に、最も実情に則した規定の仕方として、条約地域は日本のみとし、沖繩小笠原に関しては、これに対して攻撃があつた場合は日本は米国と協議の上適当な措置をとることが出来るものとする形も研究されたが、結局わが方としては条約地域を日本のみとすることが最も適当なりとの結論に達した。米側が結局において条約地域を日本の施政下の地域のみとすることに応じたのは、太平洋地域に関しては日本の憲法的政治的の問題より到底含め得ずと判断{前1文字手書きにて訂正}し、又沖繩小笠原については、これを含めることにより施政権返還問題を刺戟する位ならば寧ろ外すに如かずと認めたのではないかと思われる。

四、 条約地域の問題と並んで先づ問題となるのは米軍案第三条のいわゆる「ヴァンデンバーグ条項」である。本条項は米側は相互援助条約{前1文字挿入(手書き)}に不可欠の条項として極めて強く固執することが予想されたが、わが方の憲法解釈上日本が保持し得る自衛力は日本を直接に防衛する最少限であるとすれば個別的及び集団的自衛力を維持発展させるということはその儘では憲法の範囲を逸脱すると解される懸念を生ずる訳である。更に原案末段において間接侵略に言及した点も問題あり、わが方としては第三条の如き規定は置かざることを最も適当とする次第である。

五、 米側の草案に関しては、前記諸点の他、(イ)第二条の政治経済協力条項は趣旨としては結構なるも結局は実体なき見せかけなりとの批評を受けるべきに鑑み寧ろ無用の規定なりとも思料され、(ロ)前文及び第四条の「太平洋地域」は一般世論に対する関係を考慮せばこれを「極東」とすることが望ましく、(ハ)期限に関する第十条は期限の定めなしとする形は面白からず又十年の点も検討を要すると認められた。

六、 十月四日の米側フォーミュラ案に関しては、「協議」を「事前協議」に改めると共に「その時の状況に照らし」を削除せる他若干の修文を行い、これを議定書の形に整へた案を作成した。{「干の修文・・・作成した。」の行の上に手書きでチェック印あり}

七、 行政協定の問題に関しては、米側の考へ方は安保条約に基く行政協定を新条約第六条によりその儘存続せしめんとするものであつた。然る処、行政協定は安保条約に基く協定であつて後者の失効と共に消滅するものであり、依つて新条約によりこれをその儘存続させることは法律的に不可能であると解された。新条約の下においても固より行政協定に代わ{前1文字挿入(手書き)}る協定が必要であり、更に従来の経緯に徴し斯かる新協定は国会承認の対象とする必要があると認められる次第であつたが、その方法としては、(イ)改正すべき点は改正して新しい協定を作るか、(ロ)条約が変わつたことから必要となる技術的修正のみを施して当分それによることとするか、或は(ハ)追つて全面的改訂を行うとの前提{前11文字手書きによる傍線あり}で技術的修正を施したものを暫定的に準用することとするか、の三考が考へられる処、(イ)は時間的余裕なく、(ロ)は政治的に困難であり、結局差当り(ハ)に依るの他なしとのことで、米側に対しては先づ(ハ)を提案することとなり、なお実質問題としては防衛分担金条項の削除を要請する旨併せて提案することとなつた。

八、 新条約の交渉は当初は概ね三十三年末からの通常国会に提出することを目途として進められていた処、与党内の事情並びに特に同年秋の臨時国会における警職法問題に発する政局の混乱によりスロー・ダウンされていたが、十一月二十六日の外務大臣在京米大使の会談において上述の諸点を纏めて米側に提案した。提案は書面を以て行われたが、右は日本政府の対案という性質のものではなく、討議の基礎として為されたものである。大体の考へ方は十一月五日付「安全保障に関する日米新条約案(三三、一一、四)に関する説明」に述べられているが、二十六日の文書は十一月四日起案を基礎に更に改訂を加へたものである。二十六日の会談における米側の応酬を要約すれば、(イ)条約地域の問題は他の総ての点が満足に解決すれば米側も日本案を受け容れる可能性なきに非る{前2文字ママ}べきも、米国の援助義務の表現に関する日本案は受諾し難く原案に復する{前1文字挿入(手書き)}要あり、(ロ)ヴァンデンバーグ条項は若干の修文を行うとしても存置絶対に必要なり、(ハ)政治経済協力条項は是非存置を希望す、(ニ)行政協定の存続は寧ろ新条約の前提条件であつて新条約が出来てから又々行政協定の改訂交渉をやるという様なことは到底応じ難く若し日本側でその大幅な修正を考慮しおらるるならば条約交渉打切りの他なし、ということであつた。

(三)三十三年末より三十四年三月二十日に至る経緯

一、 三十三年末にかけて国内においては主として沖繩小笠原の取扱に関する党内調整に明け暮れたが、米側との間においてはヴァンデンバーグ条項及び行政協定の問題に就て話合が進められた。前者に関しては「個別的及び集団的能力」を単に「能力」としてこれを複数形とすることにより憲法上の難点を回避する案も検討されたが、なおわが方として充分な案には達しなかつた。又行政協定に就ては十二月十六日の外務大臣在京米大使会談の際も詳細討議されたが、米側は元々行政協定がその儘存続することが新条約交渉の前提条件であり、若し行政協定の内容に立ち入つて交渉するとならば交渉の前提が崩れる上に、一度手を触れれば二年三年の交渉となり、条約交渉も見送るの他なしと強調して前途極めて困難なるを思わしめた。右米側の言分は年初来の経緯に徴すれば尤もなる次第であり、本来行政協定は極めて技術的性質のものであつてわが方としても当初はその改訂を正面から取上る意向はなかつた所である。然し乍らわが方としては行政協定に代るべき協定は新条約と共に国会の承認を求める必要がある事情を背景として与党内一部からも事の性質を充分詳にせずして行政協定全面改訂論も唱へられて来る事情となり、わが方の内政問題に発する条約交渉の遷延に伴つて三十四年に入つて逐次米側を行政協定改訂交渉に引ずり込んで行くこととなつたのである。斯くして交渉は、(イ)条約地域、(ロ)ヴァンデンバーグ条項、(ハ)政治経済協力条項、(ニ)期限、並びに(ホ)行政協定の取扱の問題を抱えて歳を越すこととなつた。

二、 三十四年に入つて国内において党内調整か迂{前1文字挿入(手書き)}余曲折している間、本省においては行政協定に関する本格的検討を進めると共に、一月末より関係各省に対する話合に着手した。既述の如く行政協定を条約の変更に伴う技術的修正のみを施して国会の審議に供することは政治的に困難であり、近き将来における全面的再交渉を前提とする行政協定の暫定的準用は米側の容れ難き所であり、他面わが方関係方面における行政協定全面改訂論は逐日強化される趨勢にあり、兎も角後日問題となるべき諸点はこれを洗い出して対処することが必要となつた。斯かる、{、を手書きにて消した跡あり}情勢の下に本省においては条約局を中心としてナトの駐留軍の地位に関する協定、国連軍協定、米比協定、ボン協定等を参酌しつつ●●●{前3文字抹消あり}基礎的資料として行政協定の各条に亘る全面的改正案の作成を試みると共に、一月末より二月初の間アメリカ局において大蔵、防衛、調達、法務、労働、郵政、運輸、警察、建設、農林、水産、通産、海上保安、地方自治、経済企画、内閣審議室の各省庁を歴訪し、当該各省においてこの際是非手を触れる要ありと認める要望事項の提示方を申入れた。条約局を中心とする検討の結論は二月二十四日付の資料に纒められ、又関係各省の要望を整理せる所は二月十九日付「行政協定調整に関し関係各省より提示された問題点」の通りである。

三、 この間条約に関してもヴァンデンバーグ条項に関連する憲法問題その他に就て検討を進めたが、その結果に基き、(イ)第一条に国連強化の趣旨を加へ、(ロ)政治経済協力条項を復活し、(ハ)ヴァンデンバーグ条項は修文の上復活すると共に、(ニ)憲法に関する留保条項を別条第八条として置くこととし、(ホ)条約地域は日本の施政下の地域とするが援助義務の表現は米側原案に復し、(ヘ)期限は一応十年とするも国連の措置に関する安保条約と同一の趣旨を以て「期限の定めなし」とする表現に代へる、等の修正を施した案を作成した。

四、 行政協定に関しては、三月六日の外務大臣在京米大使の会談の際米側はその受諾し得る改正点を盛込んだものとして一案を提示すると共に、合同委員会における諸取極を新協定下にも引続き存続させるよう同意を求め越した。但し協定に関し米側が同意し得べしと申出た所は少数の表現上の点のみであつて、わが方の意図せる所とは著しくかけ離れたものであつた。斯くて米側も協定に関する若干の調整には応ずるの他なしとの態度を示すに至つたのであるが、わが方に対しては、或程度進んだ所で更に新しい要求が出るのでは際限がないことになるから、具体的な話合に先立つて先づ日本側の要望する最大限を提示して貰はなければ話にならずとの態度を強調した。従つて前記本省の検討並びに関係各省の要望を整理した結果に基き如何に交渉を進めて行か{前1文字ママ}に付苦心を重ねたが、結局わが方の総ての要望事項を整理して五十七点とし、先づこれを「問題点」として総て米側に提示すると共に、その中本省において可能なる交渉の限界その他諸般の事情を慎重考慮してこの際是非交渉の対象とする要ありと認められる諸点に付、性質上自明なものを「調整」、多少とも実質に触れて説明の要あるものを「修正」として選別し、特に「調整」及び「修正」に付米側の考慮を求めることとした。

五、 条約と協定の交渉は何の途{前1文字ママ}これを一括して進める必要があつたことは交渉経緯よりするも又米側特に国防省当局が行{前2文字挿入(手書き)}政協定を重視していることよりするも自明であるが、三月二十日の外務大臣在京米大使の会談において、前記三の趣旨の条約案、フォーミュラに関する議定書案、行政協定に関する「問題点」「調整」「修正」並びに「解釈問題及び懸案」の諸文書を一括米側に手交した。斯くて行政協定の交渉も兎も角軌道に乗ることとなつたが、在京米大使は、協定に関するわが方の要望をそのまま本国政府に伝達したのでは軍当局を交へた作業となり長期を要する交渉となつて日本側の期待に添へざるのみならず条約交渉自体を流産終{前1文字挿入(手書き)}わらしめる惧あり、依つて先づ東京において討議してワシントンを説得すること確実なるもののみに限定して行く要ありとの態度をとり、大使自身は東京において日本側並びに在日米軍の間に挟まれる立場に自らを置くこととなると共に、爾後協定に就てはその一字一句までも大臣大使の間でなければ話が進められないという形の交渉となつたのである。

(四)三十四年三月下旬より五月初旬に至る経緯

一、 条約交渉に関する党内調整は四月に入つて漸く党総務会の決定まで漕付ける等のことがあつたが、六月二日の参議院選挙を控えて出来る丈早目に新条約の要綱を発表して選挙戦に望み度いという必要や、七月上旬に予定された総理の中南米欧洲訪問旅行に先立つて六月下旬には新条約新協定の署名を了し度いとする必要から、対米{前2文字挿入(手書き)}交渉の促進に就ては引続き努力が傾けられた。斯くて三月二十日の文書の基礎の上に、同二十八日、四月一日、二日、八日、十一日、十三日、二十三日、二十五日、二十八日と外務大臣在京米大使の会談が行われ、その結果取纏められた条約案、協定改正案並びに関係文書は改めて一括して四月二十九日夜在京米大使よりワシントンに請訓された。この間の交渉内容は概ね下記の通りである。

二、条約関係

(イ)ヴァンデンバーグ条項

 米側は「個別的及び集団的」の削除及び「能力」の複数化には同意していたが、「単独に及び共同して」の存置は強く固執した。依つて三月二十八日、四月一日、二日と話合つた結果、「単独に及び相互に協力して」との代案で考へることとした。

(ロ)憲法留保条項

 米側はこれに同意していたが、わが方はこれを置かない場合は第三条に憲法留保を置く他、第五条の「{「は手書きにて挿入}憲法の手続」に「{「は手書きにて挿入}規定」を追加する要ある旨を示して置いた。

(イ)協議条項

 主として国内の間接侵略条項除去に反対する向きに対する手当を考慮する見地より、四月十一日、協議条項に極東の平和と安全が脅威された場合のみならず「日本の安全に対する脅威」の場合も追加することとした。

(ニ)期限条項

 米側は「期限の定めなし」の表現を固執していたが、国連の措置云々を加へることにより、四月一日わが方案に同調した。なお廃案通告条項に関し、十三日の会談において据置十一年と解されるべき旨確認された。

(ホ)フォーミュラ

 米側は議定書形式は議会承認の対象となるが故に難色ありとしたのでこれを交換公文形式とすることとした。なお三月二十日の会談で(1)米軍の日本出入りに関する現行手続に変更なきこと、(2)装備は核兵器のみを指すこと、(3)撤退は事前協議の対象とならないこと、(4)基地使用の事前協議は日本の基地から行われる日本外のコンバット・オペレイションに限ること、の四点に付確認を求め、四月九日これを文書に整理して送付越{前1文字ママ}した。

(ヘ)沖繩小笠原

 沖繩小笠原はその施政権返還の暁には条約地域に入つて来ることは自明であるが、国内にはその点の手当と共に潜在主権を確認し置くべきなりとの論もあつたので、こ{前1文字挿入(手書き)}れを条約とは別個の文書として残すことを考慮し、四月二十三日の会談で一{前1文字挿入(手書き)}を提示したが、米側は潜在主権問題に触れるなら米側は{前3文字手書き二重線で削除}一九五二年の岸アイゼンハゥアー共同声明と同様に極東の緊張継続する間は沖繩を保持する要ありと述べざるを得ざるべしとて二十五日代案を示す所があり、具体的結論には達しなかつた。

三、行政協定

(イ)協定本文

 三月二十日のわが方「調整」及び「修正」案に対しては米側は二十八日の会談において極めて消極的且強硬な反応を示し、その後各点に亘り大臣より強く米側に押返した。主として問題とした点は、(1)施設区域提供に関する第二条一項の表現、(2)施設区域の内外における米軍の権利に関する第三条、(3)通関に関する第十一条、{、は手書きで挿入}(4)労務に関する第十二条、(5)特殊契約者に関する第十四条、(6)民事請求権に関する第十八条、(7)予備役訓練に関{前1文字手書き斜線で削除}関する第二十二条、等であつたが、凡その状況は四月十五日付「行{前1文字挿入(手書き)}政協定調整に関する件」に要約されたとおりである。斯くて或るものに就ては協定の字句はその儘として新に合意議事録を置くことを提案し、又或るものに就てはわが方の問題点を解説してワシントンにおいて対案を考へしめるとの方策をとる等、交渉は難航を極めたのであつた。

(ロ)協定発効条項

 新協定は形式上は新条約から独立の協定となる処、米側は新協定が発効せざる儘新条約が発効し得るような理論的可能性を残さざるよう希望していた。この問題は実際には条約の発効条項に手を触れざる限り完全な解決は得られない次第であるが、四月十一日、二十三日、二十五日、二十八日と回を重ねて漸く先方も納得する形に作り上げた。

(ハ)合同委員会の取極

 本件に関する三月六日の米側提案にかかる交換公文案は、合同委員会の取極を政府間の取極に引上げる底のものであるので、これを合同委員会の取極として承継する趣旨に改めることとし、四月十三日、二十三日、二十五日と話合つて内容を改めた。

(ニ)合意議事録

 合意議事録に就ては形式内容共幾多の問題があり、これを全部書き改めることが最も望ましいが、行政協定自体の交渉が難航している際にそこまで持つていくことは実際問題として不可能であつた。この問題に就ても四月十一日、十三日、{、は手書きで挿入}二十三日と話合つた上、二十五日の会談で現存議事録は新しい合同委員会のガイダンスとするという案を提案し米側の合意を取付けた。なおその場合は今回の交渉により合意される議事録は別個の文書となる次第である。

四、吉田・アチソン交換公文

 斯くて四月二十八日の外務大臣在京米大使の会談の結果は(イ)条約案、(ロ)フォーミュラ案、(ハ)協定案、(ニ)新議事録案、(ホ)旧議事録に関する交換公文案、(ヘ)合同委員会所取極に関する交換公文案、の六種の文書に取纒められることとなるが、次いで五月四日米側より吉田・アチソン交換公文の取扱に関し申入があった。本件は前年十月四日の会談の際{前1文字手書きで抹消}後{前1文字挿入(手書き)}或程度事務的に話合つた儘になつていたものであるが、{、は手書きで挿入}八日の会談において討議の結果、(1)本{前1文字挿入(手書き)}{手書きで“本”を挿入}件交換公文は国連軍協定が存続する限り存続すること、(2)国連軍として行動する場合も米軍は新条約新協定の規制を受けること、を内容とする交換公文案、並びに附属文書として(1)吉田・アチソン交換公文は朝鮮事変のみに関するものとなること、(2)同交換公文の「サポート」は補給活動の意味であつて作戦行動は含まず従つて米軍に事前協議なしに作戦行動を行うことを認めるものに非る{前2文字ママ}こと、を内容とする文書に付、米側は請訓することを約した。{「は補給活動・・・事前協」の行の上に手書きでチェック印(V)あり}

(五)三十四年五月中旬より六月下旬に至る経緯

一、 外務大臣は五月十二日より十九日に亘る間ヴェトナムとの賠償協定調印のため東京を離れたが、四月二十八日の条約案に対する米側の回訓は五月十一日に、又行政協定に関する回訓は十六日に夫々わが方に伝達された。同月下旬にはダレス国務長官が長逝して大臣は二十五日より三十一日の間故長官の葬儀参列のためワシントンに赴いたが、一方総理は七月十二日中南米及び欧洲訪問に出発する予定になつていたので、わが方より新条約は右に先立ち六月末乃至七月匇々に署名を了したき旨を申入れ、五月半ばより六月に亘り交渉を急いだ。斯くて六月二日の参議院選挙の翌三日より、九日、十日、十二日、十五日、十七日、十八日、十九日、二十日と会談を重ね、条約関係に就ては彼我の間に最終的に意見の一致を見、又行政協定関係に就てもわが方の決断次第で兎も角も取纏め得べき状態に到達したのであるが、二十日を過ぎてわが方において諸般の事情より卒然として署名延期のことに決めたので、六月二十六日先方に対してその旨を通告して了解を求めた。

二、 条約に関する交渉

(イ) 五月十一日、米国は対象として(1)前文、第四条及び第六条の「極東」を「極東及び太平洋地域」とし、(2)第三条の「能力」に「個別的及び集団的」を復活し、(3)第八条の憲法留保事項は削除し第五条の「憲法の手続」に「規定」を加へる、の三点を申越した。

(ロ) 「太平洋地域」の問題は、米側は、新条約において日本の米国援助義務なしに米国が日本援助義務を引受けることからして、米上院を説得するためにも将又相互援助関係にある与国に対して日本だけを特恵{前1文字挿入(手書き)}扱いするやの感を与へぬためにも是非復元する要ありと強く主張したが、最終段階に至つて十八日漸くその削除を承諾した。

(ハ) 「個別的及び集団的能力」を「能力」(複数)とすることは九日先方これを受諾した。

(ニ) 最も難航を極めたのは憲法留保条項及び第三条の表現の問題であつた。すなわち米側は、第八条の如き憲法留保条項を置くことは米国の政府をして自ら米国憲法の解釈を行う立場に置くものであり、右は司法権の干犯であつて絶対に同意し難しと為し、第八条を削除する場合は第三条に「『憲法の規定に従つて』維持し発展させる」との字句を置くことは検討し得べきも、それ以上の譲歩は全く不可能であると固執した。依つてわが方としては第三条の字句の改善に付更に研究を重ね、六月十日憲法が消極的趣旨であるのに則して「憲法上の規定に従うことを条件として」との字句を提案した。米側においてはなお相当な難色があつたが、結局十八日に至つてこれに同調した。

(ホ) 斯くて条約案文については最終段階に至つて米側も歩み寄りを示し、六月十八日に最終的な合意に到達した。

三、 フォーミュラに関する交渉

(イ) 五月十一日米側は

(1)「その時の状況に照らし」●{前1文字手書きにて抹消あり}を加へ、更に撤退は事前協議の対象外なることを謳う、

(2)不公表交換公文において、(a)米軍の日本出入の手続には変更なきこと、(b)装備の重要な変更とは核兵器のみを指すこと、(c)日本の施設区域の作戦的使用とはコンバット・オペレイションを直接仕掛けることのみを指すこと、の三点を確認する、の二点を申越した。

(ロ) 「その時の状況に照らし」なる字句は、米側の説明によれば協議の際の諾否はその時の状況に応じてするとの趣旨であるとのことであつたが、他面事前協議を行うこと自体がその時の状況に懸るやの疑念を生ずること明白であり、わが方としてはこれに応じ難かつた。米側は六月十八日の回訓においても重ねてその存置を固執していたが、二十日に至り漸く削除に同意した。

(ハ) 撤退は事前協議の対象外なりとする点は、米国は一定の軍隊を日本に凍結することは約諾し得ず軍隊の流動性はこれを留保するとの基本的立場に発するものであり、その実体は撤退というよりは移動の問題であつてそのこと自体はわが方としても異存なき次第であつたが、表向の交換公文に撤退自由を謳うことは国内に対する関係より面白からず、よつてこれを前記(イ)(2)の他の三点の問題と一括して扱うこととした。

(ニ) 不公表交換公文の問題は、先づ今回の交渉に際して秘密文書を残すことは飽く迄避ける要ありとの根本問題あるに加へ、内容の四点は当初より口頭で了解されて来たものであるとは謂へ、特に日本の施設区域の作戦的使用に就ての先方文案の表現は従前の了解を更に制限したかの疑念を残すものであつた。依つて形式の問題に就ては、偶々沖繩等の問題に関し「討議の記録」という形の文書を残すことを検討していたのを利用し、六月十日の次官米大使の会談において本件も「討議の記録」とすることを提案し、又作戦的使用の点は「直接仕掛ける」という表現に関して種々検討の結果十二日の会談においてイニシエイトなる字句を採ることとした。

(ホ) これ等の点は十八日に至り漸く米側の同意する所となつたが、二十日に至つて「その時の状況に照らし」削除も話がついてフォーミュラに関する交渉は完了した。なお右「討議の記録」は新条約署名の日より以前の日付とすることとし、後三十五年一月六日付をもつて外務大臣在京米大使においてこれにイニシアルした。

四、 行政協定に関する交渉

(イ) 行政協定に関し、五、六月に亘つて交渉対象とされた主たる事項は、(1)第三条の施設区域内外における米軍の権利権力権能、(2)第十一条の通関、(3)第十二条の労務、(4)第十四条の契約者、(5)第十八条の民事請求権、(6)第二五条の防衛分担金、等であつた。

(ロ) 右の内、十四条契約者に就ては五月十六日米側より米軍の指定を著しく制限的にする提案があり、右は充分満足すべきものと認められた。又防衛分担金に関しては、同二十三日米側は同条項削除に同意するも分担金廃止により浮いた余裕は防衛力増強に充てられるべき旨何等かの文書を受領し度しとの提案あり、更に六月十七日右文書の件は同日の会談における大臣の口頭説明をもつてこれに代へることとし、本件も落着した。

(ハ) 第三条に関する問題は、(1)「権利権力権能」を「権利」とすること、(2)施設区域外は米軍の権利とせず日本側の協力義務とすること、最小限現行第三条一項末文の「必要に応じ」を削除すること、(3)現行第二項末文の一時的措置云々を削除すること、等の諸点であるが、例へば「権利権力権能」を「権利」と代へるに就ても右は同義語なりとの了解を残す要ありと主張する等、本条に関する米側の主張は極めて頑強であつて、結局施設外の問題は合意議事録で手当し、一時的措置の条項に代る電波障害除去の規定は米側の固執する表現に歩み寄りを行うの他なかつた。

(ニ) 通関に関する規定に手を染めることも米側は当初より頑強な反対を示し、結局合意議事録による手当を考へるの他なかつた。又労務関係に就ては、直接雇用労務者保護、保安解雇問題等困難な問題が存するが、事の性質が極めてむつかしい上にわが方内部においても問題があつて大規模な改訂は望まれず、合意議事録による手当も大いに研究されたが結局満足な結論は得られなかつた。

(ホ) 極めて困難視されていた民事請求権に就ては、六月十九日に至つて米側よりナト協定第八条を全面的に採ることを応諾して来たので、わが方の問題とした諸点は一挙に解決し、細目の調整を残すのみとなつた。

(ヘ) なお合同委員会合意書の承継に就ては、六月十九日米側より五月十六日草案の改訂を申入れてきたが翌二十日これを撤回したので落着し、又合意議事録の扱に関する文書は五月十六日の草案に若干の修正を加へて六月十二日に一応最終化した。

(ト) 斯くて行政協定の改正に就ては、わが方としては猶改善を必要と認める幾つかの点を残していたが、翻つて協定交渉の経緯を顧みれば難航を極めたる後既に相当大幅なる改善を見ており、この協定交渉を妥決する充分の基礎が出来ていたと判断された。

五、 その他の問題

(イ) 沖繩問題及び間接侵略の問題に関し、条約本文の外において何等かの手当を試みた方がよいとの観点より、六月下旬より中旬の間「討議の記録」の案が研究されたが、具体的結論には達しなかつた。

(ロ) 防衛庁と在日米軍司令部の間に若干の運営上の取極があるが、六月十五日米側より新条約下においてもこれ等四つの取極が存続する旨確認を求め越した。本件は防衛庁側においても固より異論のない所であつて、この点は後に条約署名の三十五年一月十九日付をもつて今井防衛庁次官とバーンズ在日米{前2文字挿入(手書き)}軍司令官の間で文書をもつて確認した。

(六)三十四年七月より新条約署名に至る経緯

一、 六月末に署名延期の運びとなつて夏を迎へることとなつたが、秋より冬にかけて交渉は、(イ)吉田・アチソン交換公文に関連する問題、(ロ)沖繩、間接侵略、事前協議、極東の範囲、期限等に関し文書を作成する問題、(ハ)行政協定に関し特に施設区域内外の米軍の権利、通関及び労務に関する規定の改正、並びに最終段階における(ニ)相互防衛援助協定の取扱、の四つの問題を繞つて難航を続けた。右の(イ)は朝鮮に不測の事態が勃発した場合在日米軍は即刻これに応戦することが出来なければならないとする米側の至大の関心事に発するものであり、(ロ)は主として秋の臨時国会の審議や与党党内事情を反映してわが方として前記の諸点に関し可能なる限り手当をして置かんとするものであり、(ハ)は偶々八月三日に西独と関係諸国との間にナトの駐軍協定を補足する新協定が署名された結果特に問題の三点に関し右協定を参酌して出来る丈の改善を図らんとするものであり、又(ニ)は相互防衛援助協定に安保条約が言及されている点に付{前1文字挿入(手書き)}わが方が読替に関する了解を残さんとしたるに対し米側は同協定の義務の存続のためには明確なる修文を合意する必要ありとしたことに発するものであつた。

二、 この間外務大臣は国連総会出席の後九月二十四日ワシントンにおいてハーター国務長官と会談する所があつたが、その際は条約交渉に就ては立入つた話に及ばず、ただ署名の時期に付大臣よりわが方としては臨時国会と通常国会の間の時期すなわち十二月十五日より二十日の交を希望する旨を表明した。大臣帰京後は右の目標の下に交渉が進められたが、米側は大統領がナト会談等のため十二月三日にワシントンを離れることになつていたので右目標達成のためには交渉は十二月二日までに完了する要ありとのことで、特に十一月後半は連日の如く大臣米大使の会談が続行された次第である。しかしながら前記諸点の交渉は何れも難渋を極めて交渉は十二月に持越され、更に若干の点は歳を越して漸く一月十九日署名の直前に至つて纒つたのであつた。

三、吉田・アチソン交換公文に関連する交渉

(イ) 吉田・アチソン交換公文に関しては五月八日のわが方提案以来その儘となつていた処、七月六日在京米大使は特に総理に会見を求め、米側としては本件交換公文を朝鮮事変のみに限定することには異存なきも、万一侵略再開の場合在日米軍も必要に応じ即刻対処し得ると言うことを極めて重視しておる所以を縷説して強くわが方の考慮を求めた。

(ロ) 朝鮮において共産側の侵略が再開されるが如き場合は、わが方はわが国自体の安全からも又国連協力の立場からも国連軍たる在日米軍のわが国からの作戦行動を認めることは寧ろ当然と謂うべきであるが、米側の要望をその儘約諾することは事前協議に関する折角の新な交換公文の国内的{前1文字挿入(手書き)}効果を滅殺するものであつて容認し難かつた。依つて八月十日総理が中南米欧州訪問より帰京の後、二十二日の外務大臣在京米大使の会談において、前記の如き場合にはわが方はわが国の施設区域の作戦的使用に「同意することを好意的に考慮する」との趣旨を五月八日の交換公文案に一項として付け加えることを提案した。すなわち右は朝鮮の場合の国連軍たる米軍の作戦行動も事前協議の枠外に非る{前2文字ママ}ことを明らかにすると共に併せて事前協議は同意を要するものなる趣旨を含めたものである。これに対し米側は日本側の立場は了解し得るも真に協議の時間的余裕なき場合の手当てが必要なりと主張し、ここにおいて新条約下の安全保障委員会の第一回の会合の際所要の協議を行い置くと言う考え方が問題となつた。

(ハ) 降つて十月六日、米側は右の趣旨から交換公文の追加条項と第一回安保委員会の議事録案を提案越した。わが方においてもこれ等文書の表現の他、可能なる代替案に就て苦心研究を重ねたが、十一月二十七日には大臣より重ねて米側の真意を質したる上、交換公文の追加条項は取止めることとし、二十八日安保委員会の議事録の代案を提案した。その後十二月十四日、十五日、十八日と応酬を重ね、結局二十三日に至つて議事録案に付合意を見た。右議事録は安保委員会の不公表記録となるべきものであるが、案文は三十五年一月六日大臣米大使においてこれにイニシアルした。

四、 沖繩等に関する文書に関する交渉

(イ) 三十四年秋の臨時国会は十月二十六日より十二月二十七日にわたつて開かれたが、外務大臣は十一月十日両院に対して条約交渉に関する報告を行つた。右国会では新条約に関する議論も繰返されたが、その審議の過程並びに与党安保小委員会の報告等党内事情より、総理は条約に関する若干の点について米側との間に了解を文書で残すよう希望であつた。この問題に関し十一月二十四日山田次官は、(1)極東の範囲、(2)期限条項に関する条約再検討、(3)間接侵略、(4)事前協議、(5)沖繩小笠原の五つの文書案に付総理に報告し、極力交渉に努力するよう指示を受けた。

(ロ) これより先、本件に関する米側との話合は、十月二十一日大臣より米大使に申入れて後、十一月十九日頃より主として次官と米大使の間で進められた処、米側は、(1)例えば極東の範囲に関する十一月十七日の与党幹事長談の内容を文書で了解すると言つても極東とは本来一般的包括的な用語であるのみならず相互援助関係にある与国との関係上もこれを具体的に定義することは出来ない相談なり、(2)条約再検討は条約の安定性を殊更傷う{前2文字ママ}に等しくして同調し難し、(3)間接侵略に関して文書を作成することは「武力攻撃」の定義の問題を惹起するので容易に応諾し難し、等いずれについても極めて消極的であり、わが方としては文書の内容のみならず形式についても合意議事録、討議{前1文字挿入(手書き)}の記録、日本側の一方的声明等種々研究し、十一月より十二月にかけて応酬を重ねたが、結局極東は十二月九日に、再検討は同十三日に、又間接侵略は一月五日に、文書作成は断念した。

(ハ) 沖繩については既に六月頃より話に上つていたが、本件は結局合意議事録とすることとし、一月六日に至つてその案文を最終的に確定した。

(ニ) 事前協議については十一月十九日の次官米大使会談の際、大使は文書の骨子として「協議は共通の合意された見解」に到達する目的で行われると言う趣旨を示唆したが、同三十日わが方の要望に対し同じ文書において総ての行動はその「合意された見解に基づいてのみとられる」とまで書くことは断じて出来ないと縷述し、降つて十二月十八日わが方は本件のみは一月に総理訪米の際大統領と直接話合うこととしてその記録の形とすることを考え度き旨を提案し、二十一日には米側より共同声明に入れるべき文案を提示し、一月三日本件は左様取扱うこととして●{前1文字解読不可能}となつた。

五、 行政協定に関する交渉

(イ) 既述の如く八月三日西独の新地位協定が署名され、わが方は西独政{前2文字挿入(手書き)}府より内々これを入手したので、九月八日の大臣米大使会談においてわが方より新協定が西独協定と対比して見劣りしないようにする必要ある旨を説いて特に(1)施設区域内外における米軍の権利、(2)通関、(3)労務の三点に付米側の再考を申入れた。

(ロ) 従来行政協定に関して極めて頑なであつた米側も右わが方申入には出来る丈歩み寄りに努むべき態度を示し、前記(1)に就ては十月二十一日の回訓において「権利権力権能」は米軍の権利の実質に変更なき了解の下に「必要な措置を執ることが出来る」と改めると共に「必要に応じ」を削ることを応諾して来た。その後更に折衝を重ねて施設区域外に関しては原則としてわが方が所要の措置を執る趣旨にする等改善を図り、又右了解事項は新合同委員会の議事録で処理することとして文案は三十五年一月六日大臣米大使においてイニシアルした。

(ハ) 通関関係に関する十月二十一日の米側案は、人に就てはナト協定並みの譲歩を示していたが、物に関しては、現行第十一条五項o{前1文字cの誤りか}から形式上軍事郵便局を通ずる私用品を外したものの、二項及三項による関税免除物件はその輸出入共検査免除とすると云う奇怪なるものであつた。而して米側は右に固執すること極めて強固なるものがあつたが、十一月二十六日兎も角私用品は検査に服すると云う原則だけは協定上明らかにすることを米側が請訓する所迄漕ぎ付けた。然し乍ら米側は最後迄私用品は「疑わしき場合以外は検査せず」との趣旨を議事録に残すことを主張して譲らなかつたので、大蔵省関係当局とも議を尽したる上、十二月三十日に至り協定の規定は現行第五項o{前1文字cの誤りか}から軍事郵便局を通ずる私用品を削ることのみを以て止めるの他なしとの結論に到達した。

(ニ) 労務に関しては、同じく十月二十一日米側は直接雇用関係の既存の調停委員会の権限を拡張して直接雇用間接雇用双方の保安解雇事案を取扱い得ることとし、保安解雇事案の処理は実質的に西独協定方式によることとするよう提案越した。右は米側としても充分考慮の上の提案と認められたが、わが方労働関係当局においては、解雇を認めない裁判所の判決又は労働委員会の決定のあつた場合主として国内法上の観点より西独方式により米軍を免責することは困難なりとの理由から、保安解雇に関する米側の提案はこれを直接雇用に関する調停手続としてのみ採用し、別途議事録等により将来における直接雇用の間接雇用切替の足掛りを残す、との二点を以てわが方対案とするの他なしとのことであつた。米側に対しては同時に間接雇用に切替方を交渉したが、直接雇用は使用{前3文字挿入(手書き)}形態が複雑多岐なること並びに切替による費用負担増を理由として応諾せず、斯くして最終段階を迎えたが、十二月十一日外務大臣、松野労働大臣、林法制局長官、丸山調達庁長官以下会同して検討の結果間接雇用に切替方米側に交渉するとの方針を固め、十八日総、外、蔵、労、防五閣僚において対策を決定の上同日次官より米大使に申入れた。本件は米側特に軍側において極めて困難なる事情ありしは察するに難くなかつたが、結局一月三日(1)関係労務契約は充分伸縮性あるものとすること、(2)切替による米軍の費用増は最小限にするよう日本側も協力する、との二点の了解の下に米側は切替の原則に応じた。

(ホ) 以上の他、協定の問題としては、第十四条の若干の修文、第十八条四項に関連する個人の請求▲についての合意書の取扱の問題は合同委員会議事録で処理することとする等のことがあつた。なお交渉の遷延に伴う三十五年度防衛分担金の問題に就ては十二月十八日了解が成立した。

(ヘ) 合同委員会の合意の承諾に関する交換公文はこれを新合同委員会の議事録で処理するよう一月八日わが方が申入れたるに対し十二日米側はこれに応じた。関係文案は一月十八日大臣米大使においてイニシアルした。

(ト) 十二月三日協定の合意議事録中新協定下にも適用されるべき部分を合同委員会において検討することに合意されたので、九日の合同委員会においてわが方の{前2文字挿入(手書き)}見解を示すと共に新旧合意議事録を併せて一つの議事録に書き改めるとの腹案を提示し、右話合いは一月七日に完了し、二、三の点を更に調整の上十四日に至り最終的に確定した。

(チ) 協定運営上の既往の懸案、すなわち国鉄等三公社の請求権、終戦処理費安保諸費により建設された電話線の専用使用料金等の問題は、これを新協定に切替られるに先立つて解決し置く要ある旨は夙に米側に説いて来た所であつたが、十二月三十日米側より一つの一括解決案を提示して来た。但しその内容は到底その儘受諾し難いもので、わが方より直ちに対案{前1文字挿入(手書き)}を出すに至らなかつた。

六、 相互防衛援助協定に関する交渉

(イ) 相互防衛援助協定中に安保条約に言及された部分を如何にすべきやについては条約局において久しく検討中であつたが、結局その読替に関する了解を文書で残すこととし、十二月三十日一案を米側に提示した。

(ロ) 右に対し、米政府においては本件協定により米国政府が負つている義務を存続せしめるためには協定の修正が必要なりとの解釈をとり、彼我の間に考え方の喰違いを生じて種々応酬があつたが、一月十二日漸く交換公文案を確定した。

七、 新条約及び新協定並びに関係文書は、一月十四日閣議の決定を経、同十九日、ワシントン白堊館において、わが方岸総理、藤山外務大臣、朝海駐米大使、石井党総務会長、足立日商会頭の五全権と、米側ハーター国務長官、マックアーサー駐日大使、パーソンス次官補の三全権により署名された。

 補遺

一、地位協定第十八条五項gの問題

 新地位協定第十八条5{前1文字挿入(手書き)}項gは海事損害に関しては同条の補償手続から排除している処、沿岸零細漁民保護に欠くるものなりとして主として水産関係方面より強い非難が起つた。よつて三十五年二月頃より米側に対して種々話合の結果、五項gの解釈の問題として、(1)浅海動植物増養殖、(2)漁網、(3)二十屯以下一件二千五百弗以下の船に対する損害、並びに(4)その他合同委員会を通じて合意されるべき損害、については5{前1文字挿入(手書き)}項gの適用外、すなわち十八条の手続によるものなることを確認し、新協定発効後右解釈に関する文書を作成することとした。

二、地位協定に関する予備作業班の設置

 新地位協定の条項中には、第十二条に基く直接雇用労務者の間接雇用切替、第十八条五項gに該当する損害の補償処理手続の他、出入国、通関等に関し米軍側との間に具体的取極を要する事項が存する。よつてこれ等の問題について協定発効に先立つて準備を進めるため、三十五年六月六日、予備作業班を設けることとして行政協定に基く合同委員会をこれに充てるよう米側との間に取決めた。

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