[文書名] 1969年佐藤総理・ニクソン大統領会談に至る沖縄返還問題
<各ページ 欄外左上>
{手書きでページ番号の書き込みあり}
極秘 無期限 6部の内4号{前13文字スタンプ}
大臣(別途)
次官※{※は花押}
森審議官※{※は花押}
法眼審議官※{※は花押}
官房長※{※は花押}
安川大使※{※は花押}
田中大使※{※は花押}
アジア局長※{※は花押}
欧亜局長※{※は花押}
井川条約局長
{前10行手書きで書き込みあり}
昭和四十四年十二月十五日
一九六九年佐藤総理・ニクソン大統領会談に至る沖繩返還問題
アメリカ局長
目次
(一)一九七六年前半における沖繩問題の取扱い
一、一九六五年までの日米会談における沖繩問題
二、いわゆる下田発言
三、施政権返還問題解決の方途
四、外務省事務当局の措置
(二)六七年九月の日米閣僚会議及び十一月の第二次佐藤総理訪米
一、六七年七月の対米申入れ
二、七月十五日外務大臣・在京米大使会談{前17文字取り消し線あり}
三、六七年七月より十一月に至る日米間の話合い{六の前に前行の二に続くことを示唆する\あり}
四、日米閣僚会議{日の前に前行の三に続くことを示唆する\あり}
五、総理訪米の準備{総の前に前行の四に続くことを示唆する\あり}
六{前1文字取り消し二重線あり}、六七年の第二次佐藤総理・ジョンソン大統領会談
(三)一九六八年中の経緯
一、いわゆる{前4文字取り消し線あり}「白紙」について
二、「継続的検討」
三、六八年後半における停滞
(四)六九年返還交渉の基本的方針
一、新内閣の発足
二、年末年始の外務大臣・在京米大使会談
三、四月のわが方ポジション・ペイパー
(五)六九年六月の外務大臣訪米
一、訪米準備
二、愛知・ロジャーズ会談
(六)共同声明に関する交渉
一、八月十二日のわが方共同声明案
二、戦闘作戦行動のための基地使用
三、ヴィエトナム
四、核兵器
五、その他
(七)佐藤・ニクソン会談
一、会談に臨む準備
二、佐藤総理・ニクソン大統領会談
(一)一九七六年前半における沖繩問題の取扱い
一、一九六五年までの日米会談における沖繩問題
岸、池田、佐藤と三代の総理は、それぞれアイゼンハワー、ケネディー、ジョンソン各大統領との間に沖繩問題について話合つているが、六五年の佐藤総理訪米に至るまで、これらの話合いの内容は、沖繩返還に対するわが方の願望、潜在主権の確認、住民福祉の増進に限られ、米側よりは、「極東における自由世界の安全保障上の利益がこの願望の実現を許す日を待望している。」というより以上の発言はなかつた。六六年七月及び十二月にラスク国務長官が椎名外務大臣及び佐藤総理に述べたところに徴すれば、米国は、沖繩における米国の軍事的活動を許容するだけの政治的な準備が日本にないとの判断の下に、沖繩返還は当分考慮のうちに入りえないとの態度が明らかに示されている。このような状況の下に六七年一月北米局長沖繩出張の際、旧知のマーティン高等弁務官政治顧問に対し、理屈の問題としては安保条約、地位協定は沖繩に適用し、ただ事前協議条項だけは適用外とするということで、全面返還できる筈ではないかと述べたのに対し、同政治顧問が、米国は極東の安全保障のための沖繩の基地保有と日琉との円満なる関係維持というきわめて難しい道を歩んでいるものであり、両者の調整のための日本側の発意は歓迎するところであると答え、いつ頃になればそれが可能となろうかと問うたのは印象的であつた。
二、いわゆる下田発言
六七年二月一日下田次官は、記者会見において、沖繩の早期返還を左右しうる一つの要因は、日本国民の側において日本を含む極東の平和と安全の確保という、{、を消した跡あり}米国の責務を十分に果さしめるという保証を与える用意があるかどうかである、という問題を提起し、世の関心を惹くところとなつた。
三、施政権返還問題解決の方途
外務省事務当局においては、米国の沖繩施政権保持は、日本を含む極東の安全保障という目的のための手段であって、従つて軍事基地の使用態様について、{、を消した跡あり}日米間に話合いに入ることにより施政権返還問題解決の途を開くべきであるとの考え方に立つて、同年二月「当面のわが外交施策大綱」審議の際、右の趣旨で米側と話合いを行なうことにつき総理の了承をえた。すなわち、米国の施政権下にある沖繩の米軍基地の使用態様と、日本に返還されて安保条約体系下におかれた場合の態様を対比するに、軍事的観点からみて最も重要な相違は、{、を消した跡あり}事前協議の適用にある。六〇年の安保改訂において事前協議に関する交換公文が成立つたのも、米側軍事的観点よりすれば、本土には事前協議を適用するも沖繩はいわゆる自由使用をなしえたからであつたと思われるが、爾来数年にわたるわが方国会審議の経過を通じ、本来諾も否もある事前協議が、わが国自身の安全保障の要請とは全く遊離して、あるいは核に対する特殊の国民感情の故に、あるいは米軍のプレゼンスを非とする立場からするいわゆる「戦争まき込まれ」の歯止め論の故に、その積極面は全く影が薄れ、米国の国防当局としては、日本における事前協議はすべて否であるとの前提をおいて施策せざるをえないこととなり、従つて沖繩基地のいわゆる自由使用は、{、を消した跡あり}それだけ軍事的重要性を増したという結果になつていたとみて誤りなかつた。このような背景を持つ事前協議の適用が、{、を消した跡あり}いわゆる「本土並み」であつて、施政権返還を実現するためには、この「本土並み」と、米国の政{前1文字手書き二重傍線にて削除}施{前1文字挿入(手書き)}政権下の基地の態様、{、を消した跡あり}すなわち、{、を消した跡あり}「自由使用」との間に、国内で受け容れられると同時に、わが国自身の安全保障の要請を含み、米国からみても軍事的に受け容れられる態様を探求しなければならないのであつた。
四、外務省事務当局の措置
当時国内においては、沖繩問題に関し、機能別返還とか地域別返還等の議論が盛に行なわれていたが、外務省事務当局は、専らこれらの議論が非現実的、非実際的である所以を説きつつ、他方前記の考え方に従つて米側を話合いに引き入れることに努め、そのため五月の安全保障協議委員会、あるいはその事務レベル協議の機会等も活用し、ジョンソン大使はじめ、故マクノートン及びウォーンキー両国防次官補、バンディー国務次官補、スナイダー日本部長、ハルベリン国防次官補代理等訪日の都度米側責任当局と懇談を重ねた。
(二)六七年九月の日米閣僚会議及び十一月の第二次佐藤総理訪米
一、六七年七月の対米申入れ
六七年九月の日米閣僚会議も近づき、また十一月には佐藤総理の訪米が予定されることとなつたので、七月十五日三木外務大臣より在京ジョンソン米大使に対し、沖繩及び小笠原問題に関し、大要次のとおり申入れた。
1 沖繩問題は、沖繩の果している軍事的役割りと、返還に対する日本国民の願望をいかに調整するかの問題であり、その見地より、(イ)沖繩の果すべき軍事的役割り及び沖繩所在の軍事施設の要件、並びに(ロ)安保条約及び地位協定の沖繩への適用上生ずべき問題、等につき日米間に検討を進めることとする。
2 当面沖繩の本土との一体化を進めるべきであるか、他面沖繩の自治権拡大とともに琉球政府の機能充実の要あり、よつて日本政府が米国側当局と琉球政府の間に立つて沖繩の施政に協力する道を開くことを検討する。
3 小笠原については、安全保障上の理由で米国が施政権を持ち続ける理由に乏しいので、これを返還するよう所要の措置を進めることとする。
二、七月十五日外務大臣在京米大使会談{前18文字取り消し二重線あり}
前記、{、を消した跡あり}1についてのわが方の意図は、施政権返還後の沖繩に安保条約及び地位協定が適用されることは当然として、事前協議に関する交換公文の適用をいかに扱うべきかにつき、米側の見解を引出さうとすることにあつた。すなわち、戦闘作戦行動のための施設区域使用と核兵器の持込みに関する事前協議については、それぞれ日本国内において大きな政治問題であるから、わが方としては、この二点につき、軍事的抑止力の主体を荷つている米国の沖繩返還についての最少限の条件はなにかという問題である。これに対しジョンソン大使の三木大臣に対する応酬は、問題の核心は日本が米国に対しいかなる軍事的姿勢を維持することを望むかということであつて、米国の必要とする「最少限」という問題ではない。また返還の方式いかんを問わず、変換後日本が沖繩の基地の有用性を保つことを望む限り日本の政治的責任は増大するが、日本が沖繩の現状と政治的責任増大のいずれを選ぶか、という問題である、ということであつた。
三{前1文字取り消し二重線あり}二{前1文字挿入(手書き)}、六七年七月より十一月に至る日米間の話合い
爾後日米間の話合いは右のような懸隔を残したまま九月の閣僚会議を経て十一月の佐藤・ジョンソン会談に至るわけであるが、二月にはわが方の選択の一つとして、{、を消した跡あり}基地の自由使用を含む協定を作つて施政権を返還する方法にも言及し、七月には核について通常はおかないが、{、を消した跡あり}非常の際は事前協議の上持込みを認めるということで話がまとまつるなら、{、を消した跡あり}その決断はとるべきであるとの見解を洩らされた三木外務大臣も、八月にはわが方は本土並みをもつて出発すべきであつて、{、を消した跡あり}自由使用に一歩でも近づいたような考え方は提示すべきにあらずと指示され、総理もわが方は返還のみを要求して米側より条件を示さす{前1文字手書き二重傍線にて削除}せ{前1文字挿入(手書き)}た上で自分が決断すると述べられて、{、を消した跡あり}事務当局に対しては専ら米側の条件探求に努めるべしと指示され、このような状況下においては、事務当局としては沖繩基地の態様の問題についても米側との間に抽象論の応酬に終始せざるをえなかつた。
四{前1文字取り消し二重線あり}三{前1文字挿入(手書き)}、日米閣僚会談
九月の日米閣僚会談は、ラスク国務長官が会議の冒頭、{、を消した跡あり}与国相携えて平和をオーガナイズして行こうと述べ、米政府各閣僚が米国の決意の固さを示すとともに、{、を消した跡あり}与国の責任分担を切々として訴えたことにおいてきわめて印象深いものであつたが、このような空気は沖繩問題についての国務、国防長官と三木大臣との会談においても強く反映されていた。すなわち、外務大臣が専ら日米間の政治的観点より沖繩返還の重要性を説き、沖繩返還は極東情勢の変化待ちということでなく、現在のような情勢の下においても返還実現の方途を探求すべきであると強調されたのに対し、ラスク、マクナマラ両長官は、それぞれの立場から安全保障問題の重要性を縷述して、(イ)米国は条約上の約束は必らず守るが、同時にこれを果す手段を与えられなければならない、(ロ)要は共同防衛上日本が米国になにを期待するかであつて、期待され{前2文字手書き二重傍線にて削除}す{前1文字挿入(手書き)}る以上はそれを可能ならしめる政治的責任を引受けてもらわなければならない、(ハ)日本を含む極東の安全保障のため核配備が必要であることは論をまたないが、問題は日本がそれを欲するや否やである。(ニ)世論の問題は日米双方にあり、世論のみの故により大なる目的を見失つてはならない、{、を手書きにて挿入}等の諸点を指摘し、沖繩返還問題も日本がこれに関連していかなる政治的責任をとる用意ありやまず明らかにすることが先決であるとの趣旨を繰返した。
五{前1文取り消し二重線あり}四{前1文字挿入(手書き)}、総理訪米の準備
十月に入つて、総理訪米の際の共同声明案につき、特に沖繩及び小笠原問題を中心に東京において米側との話合いを急いだ。沖繩についてわが方の求めるところは、本件が既往の共同声明において、{、を消した跡あり}双方の希望表明の交換に終つているのを一歩進め、返還問題を両国政府間の話合いの対象とすることにあつたが、この点については、十一月初旬に至り米側は、「施政権を日本に返還するとの方針の下に」沖繩の地位について、{、を消した跡あり}両政府間において「継続的な検討を行なう」ということに原則的に合意した。すなわち、米側は一年の経過を通じ、返還を具体的な問題として日本側との間にとり上げることに決着をつける{前1文字手書き二重傍線にて削除}た{前1文字挿入(手書き)}ものと認められたが、同時に、返還の時間的要素までを含めて約束することは受諾しえずとした。この時間的要素の問題は、総理が大統領との会談に臨むに当つて、「両三年内に返還の時期の目途をつける」ことを直接大統領に要請されることとなつたため、共同声明の表現が最後まで彼我の間で難航することとなつた。
なお、小笠原については、同じく十一月初旬米側は、総理・大統領会談における合意を条件として返還に応ずる旨内報越した。また前記一、2の当面の措置については、わが方の考え方は米側の容れるところとならず、結局米側提案にかかる諮問委員会案をとることとなつた。
六{前1文字取り消し二重線あり}五{前1文字挿入(手書き)}、六七年の第二次佐藤総理・ジョンソン大統領会談
かくして十一月十四、十五の両日佐藤総理・ジョンソン大統領の間に二回の会談が行なわれた。第一回の会談において総理より、{、を消した跡あり}沖繩問題解決の重要性と日本を含む極東の安全保障の問題につき大統領に対して所信を語られたが、前後二回の会談を通じ、主たる討議の対象は国際通貨問題、東南アジア経済協力問題、ヴィエトナムに対する援助の問題等であつて、十五日の会談後、{、を手書きにて挿入}共同声明は、{、を消した跡あり}同日午前まとめられた原案どおり発表された。沖繩返還問題の観点よりすれば、この共同声明において返還問題が両国政府の間の具体的課題として初めてとり上げられることとなつた点が前進であつて、小笠原返還と並んでこの日米会談の成果は満足すべきものであつたといいうるのである。
(三)一九六八年中の経緯
一、「白紙」について
六七年十一月の日米会談において、沖繩返還問題について日米両政府の間で継続的検討を行なうことに合意をみたのであるが、同年末より六八年春にかけては専ら小笠原返還協定作成の作業が進められ、沖繩返還問題の方はしばらくそのままになつていた。この間国内においては、ジャーナリズムは早くも返還はあたかも既定の事実のごとく前提していわゆる世論の名において「核抜き、本土並み」を喧伝し、政治軍事評論家は「核抜き、本土並み」という結論から出発して、{、を消した跡あり}これを正当化する論議を展開し、政治家はこれをもつて政府攻撃の材料とする、というこの種対外問題についてわが国においてしばしば生起する現象を招来していた。これに対し総理は、春の通常国会において、返還後の基地の態様については「白紙」であるとの態度を貫き、沖繩問題の一番重要な点は本土復帰であり、また沖繩の基地は沖繩を含む日本の安全のため必要であることを考えなければならない、との二点を強調して政府の態度を留保された。
二、「継続的検討」
政府間の協議は本来世の脚光を浴びることなく進められることが望ましいものであり、沖繩に関する「継続的検討」もその例に洩れないところであるが、結局は年初来のびのびになつていた「第一回」協議が五月二十七日いわば不可避的に鳴物入りで行なわれることとなつたのも、甚だ日本的な現象であつた。右五月二十七日の三木大臣・ジョンソン米大使の会談において、返還後の沖繩の基地の態様の問題について種々話合いが行なわれたが、結局のところ米側の見解は、日本が返還後の沖繩の基地にどの程度の戦争抑止力を期待するが{前1文字手書き二重傍線にて削除}か{前1文字挿入(手書き)}、米軍の戦争抑止力のため日本がどの程度の支持を与えうるか、{、を手書きにて挿入}についての日本側の考え方を示されることが先決であり、米国は究極的には日本側の判断に適応して行かなければならない立場にある、ということであつた。爾後大臣・大使間の「継続的検討」も幾度か行なわれたが、基地の態様の問題についてはなんらの発展はみられなかつた。
三、六八年後半における停滞
一方外務省事務当局においては、沖繩の軍事的役割りと価値、あるいは沖繩に関する核兵器の問題等につき、米側国務、国防両当局との間にすでに十分議{前1文字挿入(手書き)}を尽し、返還後の基地の問題については、わが方よりなんらかのフォーミュレイションを示さざる限り、いわゆる米側の「最小限」の必要なるものの論議に入ることはできないところにきていた。しかも事は核の問題も含む重要問題であり、総理が「白紙」の立場を堅持している状況の下において、うかつに仮定の問題として米側と話合いを試みることもできなかつた。けだし、一方において冒頭(一)の三、に述べたような「本土並み」については、{、を消した跡あり}米側がにわかに受諾せざるべきこと明らかなる上に、これをもつてわが国の安全保障に支障なしとの判断が存するわけでもなく、他方返還後の沖繩に米軍のいわゆる自由使用を認めることは、{、を消した跡あり}到底国内の受け容れるところとならざるべきこともまた明らかであり、その間にあつてなんらかのフォーミュレイションにつき米側と検討することを可能ならしめるような事情にもなかつたので、局面打開の方途なきまま推移せざるをえなかつた。その間十月二十九日に三木外務大臣辞任、十一月五日米大統領選挙、十日沖繩における主席公選、二十七日自民党総裁公選等相重なり、年末より沖繩返還問題も新しい段階を迎えることとなつた。
(四)六九年返還交渉の基本的方針
一、新内閣の発足
新内閣は十一月三十日に発足、愛知大臣は十二月三、五の両日事務当局を召集して沖繩返還問題の検討に着手し、七日には総理主宰の下に保利官房長官、木村副長官も交えて打合せを行なつた。事務当局の意見としては、従来のごときいわゆる「本土並み」だけで米側と話合いに入るべきにあらず、基地の地位に関する日米間の交渉は、{、を消した跡あり}わが方の政治的要請と抑止力として必要な要請の調整を図るところにあるので、まずこの実質問題についてわが方の立場がいかにあるべきかをはつきりする要あり、具体的には、(イ)核兵器については非常事態における持込みの問題にアコモデイトする用意を持ちつつ、常時配備は行なわざるよう米側に説得すること、また(ロ)戦闘作戦行動のための基地使用については、もともとわが方としてこれを当然認める場合もありうるわけであり、朝鮮半島、台湾海峡、あるいはヴィエトナム等について基地使用のおよその輪郭について実質的検討を行ない、その結果を事前協議の交換公文との関連で適当な形にまとめること、という方向で実質問題の話合いに入るべきであるということであつた。総理は事務当局の報告に対して、返還の結果基地が弱くなるというのは採らざるところである{、を手書きにて挿入}日本自身の安全という考え方を徴{前1文字手書き二重傍線にて削除}徹{前1文字挿入(手書き)}底する必要あり、等の点を指摘された上、外務当局において米側と話合つて実体を固めるべく努力するよう指示された。
当時返還問題を進めるについて国内的に二つの手続的な問題があつた。すなわち、一つはまず返還の時期を取決め、実質の問題はその後とすることはいかがということであり、二は米側に対してまず「本土並み」を掲げて出発すべきや否やということである。第一の点は、六七年の共同声明が「両三年以内に返還の時期の目途をつける」ことに言及しているところに関連ありと思われるが、現実に実質問題、すなわち基地の態様について了解なきまま時期のみを決めることは不合理、かつ、非実際的であることは明らかであつた。第二の点は、これも国内政治的な問題であるが、事務当局としては、いわゆる「本土並み」について十分の安全保障上の確信と対米交渉上の見通しなきまま表向きにこれを掲げて出発し、後日交渉が難航するような場合は収拾すこぶる困難であり、交渉のやり方としても適当ならず、まず実質問題の話合いに入るべきであつて、国内的の説明は別途考えればよろしいという考えであつた。
二、年末年始の外務大臣・在京米大使会談
十二月中旬の臨時国会後、{、を手書きにて挿入}愛知外務大臣は構想を練つた上、年末二十八日午前及び夕刻ジョンソン大使と会談し、さらに大使急遽一時帰国後一月十日重ねて会談した。前後三回の会談を通じ、大臣より(イ)一九七二年中の返還を期待すること、(ロ)返還後の沖繩を本土と差別することは避けなければならず、従つて条件は「本土並み」に近くなければならず、「本土並み」以上の条件となるとしてもそれは暫定的でなければならない、(ハ)出撃について朝鮮半島に事変突発の場合のごときは当然これを認めることとなろうが、想定しうる事態について具体的に検討すれば、日本としてとるべき政治的責任の内容をはつきりさせることができよう、(ニ)核兵器はより困難な問題で、その「現状どおり」は国内で到底受け容れられない、等の点を指摘して、「本土並み」と「現状どおり」の間に日米双方の国内を説得しうるなんらかのフォーミュラを見出すべく努力したい旨を説いた。これに対しジョンソン大使は着任以来沖繩問題解決の方途探求に苦慮している旨を開陳したる上、(イ)出撃について事前協議を適用すれば日本政府が個々の場合に政治的責任をとることとなるが、日本政府にその用意があるのであろうか、特に朝鮮半島の場合のごときは日本政府が必らず米軍の行動を支持してくれるということでなければ到底米国内をまとめられない、(ロ)核兵器についての日本国民の特殊感情は分るが、沖繩の核の問題は段階的抑止力の一環としていつでも使用しうる状態にあることに抑止的効果があるということを理解して貰いたい、{、を手書きにて挿入}等の見解を述べ、また(ハ)暫定的に「本土並み」以上の条件を認めるということがもしできるならば一つの解決方法となりえようとして多大の関心を示していた。かくて実質問題についての話合いに入ろうという折にたまたまジョンソン大使は国務次官に任命されて一月十四日帰国することとなり、東京における日米間の話合いしばらく中断のやむなきに至つた。
三、四月のわが方ポジション・ペイパー
六九年通常国会の初めにおいて、総理は沖繩返還に関し、将来「本土並み」ということでまず返還を実現するか、あるいはわが方の条件どおりになるまで返還を待つかの二者択一の問題であるとの趣旨を提起し、また外務大臣は事前協議はそもそも諾もあり否もあり、諾否の決め{前1文字手書き二重傍線にて削除}はわが国益の命ずるところによるのであるとして、その適正運用について繰返し説かれた。他方二月に入り総理より、返還の形式は事前協議も含めなんとか本土並みという形をとりたい、もつともその枠内でどうしても問題が残るという場合には重大な決心をする覚悟であるとの意向を示されたので、対米交渉を促進するため、わが方の立場をポジション・ペイパーにまとめることとし、四月二十三日には一案を大臣より総理に提示した。この文書は六月の外務大臣訪米の際の話合いの骨子となるものであるが、その要点は、
(イ)安保条約堅持とアジアにおける日本の役割り。
(ロ)一九七二年中の沖繩返還。
(ハ)返還後の沖繩には安保条約及び関連取決めをそのまま適用する。
(ニ)返還後のわが方の沖繩局地防衛。
(ホ)以上の枠内で政治的要請と軍事的要請を調整するため、次の二点につき米国政府との間に検討を進めることとする。
1 現に核兵器が配置されているとすれば返還時までに撤去し、返還後の持込みは事前協議の対象とする。
2 返還後の戦闘作戦行動のための基地使用は、{、を消した跡あり}事前協議の対象とすることとし、そのため予想しうる使用の可能性について検討する。
この間国会においては三月十日参議院予算委員会において、{、を消した跡あり}総理が「白紙」より進んで「核抜き、本土並み」を思わせる答弁を行ない、四月早々岸元総理がワシントンにおいて「核抜き、自由使用」について発言される等のことがあつて世上をにぎわしたが、対米交渉の準備は前記の趣旨で進められていた。
(五)六九年六月の外務大臣訪米
一、訪米準備
四月二十六日前記ポジション・ペイパーを案として在京オズボン臨時代理大使に手交し、二十八、二十九両日アメリカ局長はワシントンにおいて、国務省(ジョンソン次官、ブラウン次官補代理)、大統領府(キッシンジャー補佐官、スナイダー、ハルべリン)、国防当局(パッカード国防次官、リーゾア陸軍長官)を歴訪して、{、を消した跡あり}大臣訪米の準備を進めた。米政府事務当局においては、核及び出撃の問題についてともにすこぶる固い態度を示していたが、返還問題について具体的に話を進めようという気構えは十分であり、まず出撃の問題について満足しうる了解に達した上で、{、を消した跡あり}核の扱いに対処しようという考え方と見受けられた。
五月十日の打合せにおいて主として出撃に関する事前協議について検討し、大臣の指示により、事前協議についてわが方が共同声明等において公に述べうる最大限と、その足らざるところを日本側の一方的発言で補う方式を研究することとした。次いで十七、二十三、二十八日と打合せを重ね、ポジション・ペイパーの補足として、右出撃に関する共同声明及びわが方一方的発言の案のほか、沖繩の局地防衛を含む日本の防衛問題、東南アジア経済協力の基本構想等の問題についても所要の準備を整えた。
二、愛知・ロジャーズ会談
愛知大臣は六月三、四、五日と三回ロジャーズ国務長官と会談したが、これに先行して六月二日大統領を往訪した際、大統領が太平洋地域の平和と繁栄のため日米両国が相携えて協力して行こうという大統領自身の強い気持を披瀝したことはきわめて印象的であり、沖繩交渉の前途に明るさを投げかけたものであつた。
前後三回の会談のうち、四日の第二回会談は、沖繩問題に関してきわめて充実したものであり、返還交渉のいわゆるファースト・ラウンドとして十分の成果をおさめることができた。すなわち、会談の経過を通じ、米側は、七二年中の返還、返還後の沖繩には安保条約及び関連取決めをそのまま適用する、というわが方の立場に対し、そのような枠内で返還の方途を検討することを原則的に受け容れ、方法論として、総理・大統領共同声明の中で措置し{前1文字手書き二重傍線にて削除}するという考え方に従い、その案文つきに話合いを進めることに合意したのであつた。かくのごとく話合いが軌道に乗つたとはいえ、その実質については依然として少なからざる困難が予想された。すなわち、出撃については、朝鮮半島中心のわが方の考え方と、ヴィエトナムを含む広い地域を考えている米側との間には大きな懸隔があり、また核兵器については返還時撤去を目標に米側が検討しおるやに観測されたが、そこまで行く場合も爾後のいわゆる非常事態持込みの問題の結末は容易に予断し難かつた。なお、米側は返還に伴う財政面について予想以上に強い関心を表明していた。
いずれにせよ大臣訪米の結果、爾後の交渉は共同声明案作成の問題として東京において続けられることとなつた。
(六)共同声明に関する交渉
一、八月十二日のわが方共同声明案
1 六月下旬東京に着任せるマイヤー大使は、七月十日、さきに六月四日の大臣・国務長官会談の際、大臣より示された出撃の事前協議に関する共同声明案についての質問事項等を持参し、降つて二十二日オズボーン公使よりアメリカ局長に対し、米側のとりまとめた共同声明の草案を手交した。わが方はこれらの文書については、その問題点を指摘して基本的な考え方の説明に努めたが、他方沖繩返還問題を含む日米会談全般についての共同声明案につき検討を重ね、一案を八月十二日米側に手交した。この案は、前段において安保条約の堅持を含め、極東情勢に対する基本的認識を謳つて伏線とし、焦点を返還後の沖繩に安保条約及び関連諸取決めをそのまま適用することに置いて作成したものである。
2 この間米側においてはスナイダ―大統領府補佐官を沖繩交渉を担当せしめるため公使として東京に派遣することとなり、共同声明に関する事務的折衝は八月早々着任した同公使とアメリカ局長との間で、{、を消した跡あり}右のわが方草案を基礎に進められ、九月の外務大臣訪米を経て逐次固められて行つた。この過程を通ずる主たる問題点は、(イ)朝鮮半島及び台湾地域における戦闘作戦行動、(ロ)ヴィエトナム、{、を消した跡あり}及び(ハ)核兵器の問題であったが、それぞれについての経緯は次のとおりである。
二、戦闘作戦行動のための基地使用(共同声明第七項)
1 事前協議の適正なる運用についての外務大臣の啓蒙の努力についてはすでに言及したが、米側の立場は事前協議に対しすべて否であつては、{、を消した跡あり}米国の防衛義務遂行の手をしばるものであるということであり、四月のわが方ポジション・ペイパーにおいて予想しうる基地使用の可能性について検討すべく提案したのは、まずこの問題から実質問題の話合いに入ろうとする趣旨にほかならなかつた。その後六月四日大臣・国務長官会談において、「予想しうる可能性」の検討をまつことなく、共同声明案の作業に入ることとなつたのはすでに述べたとおりである。
2 六月のわが方提案は、事前協議における諾否は留保されているとの建前を崩すことなく、わが方が共同声明及び一方的発言において内外に明らかにしうる最大限を示すもので、日本政府が極東諸国の安全は日本の重大な関心事であるという認識を持つ以上、事前協議の適用は米国の国際義務の効果的遂行と両立しうべきものであるという考え方に立つものであるが、九月の大臣訪米の際、国務長官より「両立する」という消極的な観念でなく、効果的遂行を意図したものであるという積極的意味を持つたコンテンプレートという字をもつて代えることを提案した。しかしながら、右の字句はわが方本来の考え方と相違するのみならず、事前協議の予約を意味しうることとなるので、種々話合いの末、結局「妨げとなるようなものではない」との表現に落着した。
3 わが方原案は安保条約及び関連する諸取決めを、なんらの追加的取決めなしに適用するということであつたが、米側は、地位協定上合同委員会において行政権の範囲内でなしうる諸取決めをも排除するという誤解の生ずる余地をなくするため、その表現に難色を示し、結局「諸取決め」が具体的にはわが方で国会の承認を経た四つの文書を指す旨記録にとどめることとした上、「変更なしに」という表現に落ち着いた。
4 一方的発言については、秘密取決めを行なうことなく、本件を解決する上にきわめて適切な方法であるとして米側はわが方の提案を多とした。内容については、わが方原案が朝鮮半島の事態についてのみ言及していたのに対し、台湾海峡の事態を是非同列に扱つて貰いたいと強く要望したが、現実に事の緊急性からも同列には扱いがたく、また対中国政策の見地からも同列な{前1文字二重傍線にて削除}の{前1文字挿入(手書き)}扱いは適当ならずということで最終案が作成されることになつた。
5 同じく一方的発言に関して、米側は「事前協議」に対するわが方の態度につきフェイヴァラブルという字を強く要望したが、右表現は事前協議の予約の色彩が濃厚であるのみならず、言葉の感じとしてもわが国の利益に反しても無理に承諾するという感じを伴うということで、わが方はこれをとりえず、九月の大臣・国務長官会議の際ポジティヴという字をとることになつた。
6 一方的発言は、当初総理の国会報告の機会に行なうことが考慮されていたが、共同声明発表と時間的にあまり間隔が開くことも適当でないので、ナショナル・プレス・クラブの演説の際これに織り込むこととなつれ{前1文字手書き二重傍線にて削除}た{前1文字挿入(手書き)}ものである。
7 戦闘作戦行動については、以上のほか、時間的余裕のない場合はどうなるのか、あるいは公海上のだ捕撃墜事件等の際サーチ・アンド・レスキュー以上の行動が必要の場合はどうかというような問題があったのであるが、九月以降の話合いでは、これらについては不問のまま共同声明及び一方的発言で結末をみた。
三、ヴィエトナム(共同声明第四項後段)
1 返還の時期到来の際ヴィエトナム戦争が終わつていない場合の問題に関しては、当初アメリカ局長よりスナイダー公使に対し、B52南爆の問題はこれを別個の問題として扱うのほかなく、日本側としては全般の問題の見通しが立つた上なんらかの決断をなすのほかないと考える旨を説いた。
2 大臣九月訪米の際、十二日の会談において国務長官より、専らこの問題を提起した。すなわち、仮定の問題ではあるが、沖繩返還によりヴィエトナム戦争遂行のアメリカの手が縛られるということでは、{、を消した跡あり}沖繩返還について今秋米国内をまとめることなど全く話にならず、沖繩返還は米国のヴィエトナム政策{前2文字手書き二重傍線にて削除}戦争{前2文字挿入(手書き)}遂行に影響を与えずということを共同声明そのものの中に明らかにすることが、{、を消した跡あり}いわば今秋の話合いの前提のようなものである、との趣旨を強調した。以上のごとき米国の国内事情は十分理解しうるところであつたので、本件を共同声明の中で処理することとし、総理に請訓の上、十五日の第二回会談において、「協議する」という字も加えることとして大臣・国務長官の間で案文について意見の一致をみた。
四、核兵器(共同声明第八項)
1 核兵器についてのわが方の立場は、日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策に背馳することなきよう沖繩の返還を図ることを、{、を消した跡あり}米国政府に要望する以外になかつた。六月の大臣訪米の際、米側より西太平洋地域における核兵器の問題についての見解を述べた文書をわが方に手交した経緯があるが、爾後の事務的折衝において本件についてはなんら実質的の進展はなかつた。共同声明との関係においては、九月の大臣訪米の際、八月の案に「事前協議に関する米国政府の立場を害することなく」なる字句を加えることを提案し、これをもつて本件に関する日米両国の立場の間の機微なる均衡を計つた最終的の案である旨、{、を手書きにて挿入}国務長官に対し、{、を消した跡あり}大臣より縷々説明した。
2 その後十月上旬来訪せるウィーラー統幕議長に対し大臣より、また中旬来訪せるナッター国防次官補に対しアメリカ局長より、沖繩返還問題全般について懇談し、特に核兵器については、わが方は純軍事的にみて沖繩に核配備を必要とせずという主張をなすものではなく、国民感情的、政治的に到底核配備を受容れられない事情にあるので、米国防当局がこの事情にアコモデイトすることを要請するものである次第を説いた。
3 米側においては核兵器の問題は大統領が総理と篤と話合つた上でという態度を堅持し続け、わが方としては返還時撤去というところまでは{前1文字挿入(手書き)}行くとしても、爾後の問題についての米側の出方についての手懸りがつかめず、十一月に入つて総理と事務当局の間で核兵器の問題について検討を重ね、またいわゆる非常時持込みの問題に関してわが方の約諾しうる方式につき、大臣以下外務省内部において秘かに準備研究を行なつた。かくて十一月十九日の総理・大統領の会談となつたのであるが、同日の会談において、九月のわが方共同声明案文に総理が若干手を加えられたところに従い、なんら特別取決めをなすことなく、この問題は一挙に落着した。
五、その他
以上のほか事務的折衝の対象となつた事項として、(イ)那覇に設置せらるべき準備委員会を含む復帰準備の問題、(ロ)ヴォイス・オヴ・アメリカの取扱い、(ハ)通貨並びに資産処理を含む財政的諸案件、(ニ)在沖繩米国人企業の処遇、等があるが、これらに関する記録は省略する。
(七)佐藤・ニクソン会談
一、会談に臨む準備
1 共同声明案の審議
十月二十五日総理主宰の下に大臣、官房長官、副長官、米、条両局長の間で共同声明案の逐条審議を行なつた。右審議における総理の指示に従つて案文に若干の修正を施したる上、十一月十三日重ねて詳細に検討を加え、核兵器に関する第八項を{前1文字手書き二重傍線にて削除}は{前1文字挿入(手書き)}別として共同声明案はほぼ固つた。なお十一日に至り米側より経済問題その他を共同声明に併せて記載するよう案文を提示越したところ、総理並びに外務大臣は折角の共同声明の調子を堕すものとしてにわかに賛成されなかつたが、その後ワシントンにおける折衝を通じ、結局第十一項以下に併置することとなつた。問題の核兵器についての経緯はすでに述べたとおりであつたので、日米会談に臨まれる総理として本件の扱いについて最後まで熟慮を重ねられた。
2 韓国、台湾関係
沖繩返還問題に対する韓国、台湾の反応はかねてより米政府の憂慮するところであり、日本側よりなんらかの接触を行なうことを切望していた事情あり、十一月十四日付をもって朴大統領及び蔣総統あてに総理の親書を発出して、{、を消した跡あり}それぞれ金山、板垣両大使の引見方を求め、共同声明発出直前の時期に日米会談についてのわが方見解を説明せしむることとし、後日そのように取運ばれた。
二、佐藤総理・ニクソン大統領会談
佐藤総理は十一月十七日午前ワシントン到着、一両日休養の後、十九、二十、二十一日の三日間にわたりニクソン大統領と三回会談を行なつたが、沖繩返還についての話合いは十九日をもつて結論に達した。共同声明は二十一日午前十一時に発出され、これをもつて沖繩の施政権返還の軌道が敷かれることとなつた。なお、共同声明発出直後総理及び愛知大臣は邦人記者会見において詳細その解説を試みられ、引続きナショナル・プレス・クラブ午餐会において総理の演説が行なわれた。
今回の総理・大統領会談は、大統領が十九日の歓迎式の挨拶において、三度にわたり、佐藤総理と自分は単に総理・大統領という公式の友人であるのみならず、個人的の友人であると述べたことにも象徴されたとおり、両首脳の個人的友情と信頼を基調とするものであつた。交渉の実質を顧れば、わが方より沖繩は返還して正常の姿に復すべきであり、わが方はその故に極東における安全保障を弱化せしめる意図にあらざる所以を説き、米側においてある程度のリスクをとるよう要請したるに対し、米側は佐藤総理に代表される日本政府に信持してそのリスクをとつたことにより、会談が成功裡に終つたのである。その背景にあるものは、国力の向上した日本と、内外に難問を抱えている米国との相対的関係の変化であり、大統領が日米相携えて太平洋地域の安定と繁栄のため協力して行かねばならぬとして、{、を消した跡あり}わが国に対する期待を示したのも、そのような変化を反映しているのである。佐藤総理は一九六五年沖繩を訪問し、沖繩の祖国復帰が実現されるまでは戦後は終らないと述べられたが、今や日米間における戦後は文字どおり終つたのである。今後の日米関係は、このような事実を十分に認識して対処し、国力伸張に伴うナショナリズムを合理的な基礎におき、わが国の利益に則して両国間に健全な関係を発展させるよう意を用いなければならないであろう。
六九年の日米会談を成功せしめるについては、米側においてはニクソン大統領の決断にまつところ大であつたと思われるが、米政府内外のとりまとめの中心となつたジョンソン次官の努力は容易ならざるものであつたと想像され、またスナイダー公使は東京においてよく交渉促進に寄与した。他方わが方においても、外務大臣以下関係当局が一致して協力しうる体制にあり、東京及びワシントンにおける十分な意思疎通を保つて総理を補佐しえたことも幸いであつた。