[文書名] 中曽根内閣総理大臣のお別れ記者会見
問 それでは記者会見を始めます。総理、五年間の政権担当誠に御苦労様でした。
総理大臣としての内閣記者会との会見はこれで最後になるかと思いますが、まず初めに五年間の政権担当を振り返っての総括とそれから自己採点というのは難しいんでしょうか? 自己評価を含めてお聞かせ願います。
中曽根総理 まず五年間無事務めさせていただきまして、本当に心から国民の皆様、ジャーナリズムの皆様等に御礼を申し上げたいと存じます。私のようなふつつかな者のやることでございますから、本当にずいぶん御不満の点や、あるいはお気に触わる事もあったと思うのでございますが、この機会にお許しをお願いいたしたいと思いますし、無事に務めさせていただきましたことに対する感謝で一杯でございます。
中曽根内閣が五年間ともかく続けてやらせていただいた背景には、国民の皆さんの暖かい御支持があって初めてできたことで、この事は、中曽根内閣がグライダーみたいなもので皆さんの風が無かったらすぐ落ちてしまうと政権担当の時に申し上げたが、全くその通りであると思います。また、自民党の皆さんや特にここにいらっしゃる官房長官始め皆さん方には全く私を棄てて国家のため、党のために支えていただきました。このお力によるものであると思います。私としましては、才能も、また、力も無い者でありますから、ともかく一生懸命汗をかいて国民の皆さんに努力していると、人の二倍三倍足りないものは足りないなりに努力しているなという、その誠意をお見せする以外に自分の方法はないと考えてやってきました。特に、内閣出発の時は非常に評判の悪い出発でした。ですから風に向かって走るとか、あるいはいかなる困難にもたじろがないで舳先を波に向かってエンジン全開でつっぱしりますとか、大変気分の高揚した事を申し上げましたけれども、今になってみるとそれはもう必死になってやりたいという気持の現れで、少しオーバーな気もいたします。
しかし、行政改革というものを中軸にして、特にあの頃は3Kというものが問題でした。国鉄、健保、米と、これをかたづけるという大きな仕事を与えられまして、これ等の問題を中心に、行政改革を中心・中軸にして今まで中曽根内閣は続けられてきたし、私の気持もそういう事であったわけです。これは国民の皆さんに非常に難儀を強いる事でもあったんですけれども、ともかくここまでたどり着けたのは国民の皆様の御支援の賜物で、本当に心からお礼を申し上げる次第でございます。ありがとうございました。
問 五年間ですね、仕事師内閣として色々な事をなさって来たんですが、胸を痛めた事とか、思った通りに事が運んだ事とか色々あると思いますけれども、最も印象に残った事、あるいは、やり残して思いが残こる事とか色々あろうかと思いますが、その辺をご披露下さい。
中曽根総理 一番悲しかった事といえば、やはり日航機墜落の事でしたね。五百二十人の尊い犠牲を出しまして、あれは真夏の八月十二日でございました。本当にあの頃はちょっと寝られないくらい悲痛な悲しい思いをいたしておりました。
それから売上税の時にこれも申しましたけれども、ずいぶん反対も強く、夕方家へ帰ると妻が一人でポツンと部屋でテレビを見ておって、そのテレビは中曽根反対、中曽根内閣打倒、中曽根けしからんというテレビをほとんど毎晩のようにやってましたけど、それを家内が一人でポツンと見ておるのを後ろから見まして、声も掛ける事もできないでじっと立ってましたけれども、まああの頃が一番また辛い時で、私自体が辛いのは当たり前の事ですけど、家内や家族や親戚、応援して下さっている皆さんのお気持を思うと非常に辛さが身にしみたという思い出があります。それから人間的には田中六助さんがお亡くなりになったとき、あるいは玉置君も現役で、大臣でお亡くなりになったとき、みなこれは党のため、国家のために最後まで体のエネルギーの最後の一滴まで出し尽くして下さったので、これらの方々に対して辞めるに当たって心から御冥福をお祈りいたしたい、亡くなって助けて下さった方々に心からお礼申し上げたいという気持でございます。
嬉しかった事といえば、国鉄の改革が成就した事です。これはもう3Kの象徴でございました。それから、やはりレーガン大統領と一生懸命協力して、ソ連のSS20百基をシベリアに置くというのを置かないように話がまとまったこと、これを確認できると思いますけれども、シベリアの百基を消すことができること、これは一番また嬉しい事の一つであります。それから、やっぱりダブル選挙で、あれは親知らず子知らずの海を渡るような、命懸けの手術をやるような事だった思いますが、あれで勝利を得さしていただいたこと、あれは非常に嬉しかったと思います。自分の政治生涯をかけた一つの大事な瞬間であったと思います。
印象に残る事となりますと、もう一つはやっぱり大韓航空機の事件でございまして、あの時は国際的な情報も明らかでないし、時々刻々これをどういうふうに国民の皆さんや外国に発表していいものか、それを後藤田官房長官と相談し合いながら対処いたしましたけれども、あの時はめずらしく、こう心が時めくような、心臓が高鳴りするような時間がございました。その後、テープを国連の安全保障理事会に提出等も確かした記憶がありますが、ああいうことも含めまして、やはり大きな決断をしなければならんという、非常に重大な瞬間をあの時は持ったという気がしました。
いずれにせよ思い出はたくさんございますけれども、国民の皆様方にはハラハラ、または御心配をおかけした事が多かったと思います。本当に重ねてお礼を申し上げたいと思う次第であります。
問 自民党総裁選は総理の裁定で決着した訳ですけれども、竹下さんを指名された経緯とですね、いったい何時頃から漠然と頭に竹下さんを描いていたのか。お話できる範囲でできるだけ詳しくお願いいたします。
中曽根総理 誰々を描くということは、これは最終の段階で白紙委任をいただいたその後に誰々というものは出てきたんです。それまでは、どういう党の構造になるか、組合わせがどういうふうに動くのか、国民の皆様方の反応がどう出るだろうか、そういうことをずっと心配しながら見ておったわけです。ですから白紙委任を受けまして、鈴木さんや福田さん、二階堂さんにお会いして、それで官邸に戻って来たのは九時過ぎ頃ですが、その時に自分はこういう理由で、こういうようにしましたというのを清書しましたが、その時後藤田さんに初めて名前を挙げた、それまでは誰ということを誰にも言いもしないし、まだハッキリ決めたということではないんです。
ただ、方向として私が暗示しておいたのは八月末及び九月の初めに研修会を軽井沢と箱根でやりましたが、あの時に党と国家の安定構造を作らなければいけないと、そういうことをハッキリ言ってまいりました。党と日本の国家の安定構造を作らなければいけないと、そういう観点でずっと見ておった訳です。それで、最終的な、私に一任される時の情勢をじっと見まして、そしてこれは竹下さんがより順当であると、そう判断をしました。それはやはり調整力、あるいは、党の団結・結束、挙党体制という点から見て、まあ一番順当だろうということで、これからの仕事というものは何があるか、色々その時からも考えてみて、要するに日本の安定構造、党の安定構造という面を考えてみて、やはり国内改革の引き続きの断行だと、そういう国内改革の実績の上に立って外交的発言権は初めて生まれると、そういう重大な段階に日本は入りつつあると、そうなると色々改革案、例えば、税にしても、あるいは教育にしても、土地にしても、あるいは国会や選挙法の問題、定数是正の問題、こういう重大な問題がございますが、こういう問題を打開し法律案を国会に通して行く、そういう点を見まして、党は結束してやれるということは一番大事なので、そういう点を見てまあ、竹下さんが一番この際は妥当だと考えたわけです。
他のケースや他の時点、他の状況であったら別の判断もあったと思いますが、あの時点においてはそういう判断でした。
それで議員総会を開いて、その報告をやりましたが、行ってみた時に意外に和やかな雰囲気で、割合に議場の雰囲気は暖かい空気が流れていました。本来だとああいう総裁を決める、あるいは決めた後の報告というのはとげとげしいひんやりとした空気が漂っておるもんです。しかし、このあいだはそういう空気はほとんど見かけることがなくて、非常に暖かい雰囲気で、皆やれやれと、そういう感じがしていました。最後に私が球拾いをやります、皆さんのお仲間に入れていただきますという事を申し上げたら、ドッと爆笑して拍手をしていただきましたが、あれを見たときにはホッとしましたね。正直のところ。ああまあ大体良かったんだなと、そういう安堵感があの時初めて生まれました。それが真相です。
問 その竹下政権についてですが、竹下さんに望む事と、また、中曽根内閣のここは継承しない方がいいという点がありましたら・・・・・・。
中曽根総理 まあ私のお願いは前から言っておりますが、二つ申し上げておりまして、一つは、外交の面では中庸安定外交路線を歩んで下さいということです。右翼の右バネ、左翼の過激派ともにいけない、日本の運命を暗くすると。それで、周辺諸国に太平洋戦争前から日本は随分迷惑をかけておるんで、そういう被害を受けた国々の日本に対する警戒心や猜疑心というものは百年位い経なければ完全に消えるものではないんで、殴った方はすぐ忘れるけれども殴られた方は一生忘れない、このことをある国のトップの政治家が私に言った事があります。そういう点から、やはり安定的な中庸の外交路線、ナショナリズムと国際主義、民族主義と国際主義を健全に調和させて行くという事だと思うんです。で、右の右翼バネというようなものは、私は自民党の責任においてもしっかり処して行かなきゃならんと思っております。が、しかし一面において、占領下、占領政策によって日本国民がいじけてしまった、そのいじけてしまったのを直して行く点もまた大事なんで、これが健全なナショナリズムであって国籍のないような国民、あるいは、日本の文化や日本の国家の独立というような問題について無関心な国民は流浪の民になって国際社会においても尊敬を受けないということです。アメリカ人は、アメリカ人らしく堂々として尊敬を受けているし、中国人は中国人らしく堂々として尊敬を受けておる。日本人も日本人らしく堂々としていて尊敬を受けるわけで、そういう点も忘れてもらっては困るんですね。そういう意味の中庸路線。
それから手がけてきた改革を是非引続き実行していただきたいと思います。さっき申し上げたような案件、その他新しい発展もあると思います。
それで老婆心から自分の経験で申し上げますと、やっぱり政治で一番大事な点は、目標をハッキリすること、そして仕事を中心に党も内閣も動いて行くこと、目標をハッキリして舵をハッキリ国民の皆さんにお示しして、こういう政治をやるんだということを明提しておく事が大事だと思います。また、そういう目標をハッキリしておくことで、仕事を中心にするということで、派閥の争いやケンカをする余地がなくなってしまう、皆仕事に打ち込む、それが大事だと思うんです。私の時には主流とか反主流というのが幸いにも無かったと思いますが、これはやはり仕事中心で物を推進して来た、そういうことではないかと思うんです。
もう一つあえて申し上げれば地金で行けばいいんだということです。生まれついた物が皆あるんで、お父さんお母さんにもらった物というのは偽わらないものがあるんで、その偽わらないもので誠心誠意自己を露呈していけば、国民の皆さんも皆そのように偽わらない自分を持っているんで、安心するでしょうしね。そういう地金で行くということは非常に大事ではないかと思うんです。私はロッキード事件の時に三木内閣の幹事長をしてまして、ずいぶん濡れ衣を着せられるような質問やら、国会でも厳しい質問やなんかも受けて証言に立った事もありますけれども、あの時に、ある人はこういう時には地金で行けばいいんだよと、別にどうっていう事はないんだと、そういう事を禅のある人から教えられたんです。その時に、ああそうかと、自分は高崎の材木屋の伜に生まれたんで、ここまできただけでも有難い極みだと、幹事長とかなんだとかそんなものの一切ない、生まれた時の事だと考えて毀誉褒貶は神様仏様に預けて体力気力の続く限り一生懸命やればそれでいいなだなと、非常に気が楽になりましたね。それからテレビの人相が良くなったってちょっと言われた事がありましたよ。やっぱり地金で行くということは非常に大事な事だなと、これは自分の経験から申し上げる次第です。
問 次に総理ご自身の問題ですけれども、総理をお辞めになって以降の事なんですが、竹下さんを選んだ経緯、また、世論調査でもですね依然高い支持率があるという事で、かなり余力を残しての退陣だと思うんですけども。そうした意味で今後政界に対してもですね隠然たる元老的存在としましてね、かなり影響力をお持ちになるんじゃないかという見方もある訳ですが、今後の政界へのかかわり方についてお聞きしたいんですが。
中曽根総理 私はもう五年も総理大臣をやらせていただいて、皆さんに暖かい御支援もいただいたし、御迷惑をずいぶんおかけしたんですから、第一線は退いて、そして球拾いをやらしていただく、そして日本の内閣を守って行くということです。
こうやって第一線を退く老人と言うと何ですけど、まあ六十五を超したから老人でしょう。大事な事は現役の人のじゃまにならないようにするということじゃないかと思うんです。個人の家庭でも、家督を倅に譲ったという場合に、お爺ちゃんのやる仕事というのは倅のじゃまにならないようにやるということじゃないかと思いますね。
それから、やっぱりボケないようにすると言うことが大事じゃないかと思いますねえ。ええ、(笑)、ボケないようにすると言うのは何かと言ったらやっぱり勉強しなけりゃだめだと思います。あの石田国鉄総裁はボケないようにするために八十幾つで株をやってたそうですがね。金儲けじゃなくって頭の訓練で、ボケないようにするんだということを聞きましたけど、私も戦略研究とか色んなそういうような事も、これから国民の皆さんとできるだけ対話をやって、昔充電というんで日本中を回った事がありますが、そういう機会があるかどうか分かりませんが、できるだけ最末端で働いていらっしゃる国民の皆さんの声も聞きたいし、それが球拾いだろうと思うんです。そういう形でボケないようにしていきたいと、そう思います。
まあ、陰ながら自民党の内閣を遠くからお守りして行くと。そういう形でやりたいと思います。
問 総理はこれまで政局の節目と言いますか、折々に俳句を詠んで披露されてきましたけど、今ここで退陣に臨んでなにか一句お詠みになっておりませんか。
中曽根総理 まあ、最後の記者会見になると思いますんで、ここで申し上げたいと思うんですけれども、私の政治の原点というのは、戦争に負けて復員して、海外の軍服の肩章を取って、東京の焼野が原に茫然と立った、その時の自分の信念、考えが原点で来たわけです。この国をどうして繁栄した幸せな国に復興できるんだろうかと、前途は実に暗い思いで立ちつくしたんで、それから国会へ出させていただいて、四十年間、日本の歩み、戦後の歩みをともにして来ましたが、国家と栄辱を共にしてきたわけです。
で、前から申し上げましたように勝っても国家負けても国家だと。国家を一部の左翼の人たちが言うように悪者にしてあまりいじめ過ぎてもいけませんよと。自分達が生活している一つの共同社会なんですから、そして世界に貢献できる一つの足場でもあるんですから。しかし、昔の皇国史観みたいに国家が威張り出して国民を圧迫したりすることは良くない。そういう考えで四十年間やって来ましたが、国民の皆さんのお力でもの凄い立派ないい時代を戦後四十年間築いたと思うんです。
そういう意味で、この延長線で今後は更に国際社会から尊敬されるような日本へ進みましょうと、富の蓄積はかなり、ある程度できた、しかし、国際社会で尊敬されているという所まではまだ行ってない、それには直すべきものは直し、外国とつき合いをするについて人並みの汗はかかなきゃいけないし、応分の寄付はお祭りの時はしなくちゃいかんと、そういうような国に、国際社会において名誉ある地位を占めたいという、そういう国になりましょうよと、それが願いですね。ですから、私は、就任の時に、日本がアンフェアーな国だ、不公正な国だ、インチキな国だ、あるいはエコノミックアニマルだと言われておったが、この言葉を是非とも消さなけりゃいけない、こんな不名誉な事はないんだと、そういう気持で今まで一日も忘れずにやってきたつもりです。で、今後も国民の皆様と一緒に、国際社会に名誉ある地位を占める国になるように努力して行きたいと思います。
昭和も六十二年になって、これだけ立派な日本を築いてきた、これは明治、大正、昭和の三世代の協力です。しかし、最近はほとんど昭和の力です、これは、ですから、我々は昭和の人々にいよいよ日本をお渡しするという頃だと思うんです。大正は中継ぎです。多少、政権においては中継ぎの時代が多少続くでしょうが、日本の社会の実態自体はもう昭和が原動力で動いているんです。それから最近は婦人の力が非常に強くなってきた、そのご婦人の力というものを我々は最大限発揮させるということが日本の豊かさを増す大きな元になると思います。最近、雑誌の編集とか何かを聞いてみると、男の人よりも女の人の方が発想がいいらしいですね。豊かで、バラエティーに豊んだ発想を女の方の方がするという、雑誌の編集者の話を聞きましたが、そういう時代に入ってきつつある、女性の方の力を思い切って伸ばすような時代に次はさせてもらいたい、昭和の人たちが自信を持って是非進んでいただきたいと思います。
まあ、私は靖国神社の参拝問題で色々御心配をおかけし、また、周辺の国にも御心配やその他おかけしましたが、私の弟は海軍で戦死しまして、辞めたら、今度、私人の資格で靖国神社の社頭参拝をなるたけ早くやりたいと思います。死んだ戦友もおりますし、御無沙汰してますから。私人ならば差し支えないと思いますので、そうさせてもらいたいと思っております。
それで、うちの家内にもずいぶん迷惑もかけ、ずいぶん協力もしてくれたもんですから、今朝、実は毎月一回温泉に行こうやと、二人で毎月一回は何処かへ温泉に行こうという話をしましたが、家内も大いに慰労してやりたいと思います。
俳句の事ですが、私の感慨を一つ申し上げるとお恥ずかしいんですけれども
『花あらん野分のはての千草にも』。
これが私の感慨でございます。本当にお世話になりまして心からお礼申し上げる次第でございます。
問 もう既に総理の発言の中であったと思いますが、特に追加して国民の皆さんにメッセージか何かありましたら最後にお聞かせ下さい。
中曽根総理 もう以上申し上げました通りで、私のような者が五年間も政治をやらせていただいたというのは望外の幸せでございまして、今までやって来た事を見ると面映ゆいような恥ずかしい気持がいたします。にもかかわらず非常に寛容な気持で暖かく見守っていただき、御指導していただきました国民の皆様方にしみじみと心からお礼を申し上げたいと思います。
全国の皆様方、どうぞ体を大事に頑張って下さい。特に昭和の皆さん、ご婦人の皆さん、しっかり頑張って下さい。そして、お互いにまた手つないで、いい日本を作りましょう。戦後四十二年間手をつないでこれだけやって来ましたが、これからも更に皆で手をつないで前進しましょう。よろしくお願いいたします。これが私のお願いでございます。