[文書名] 化学兵器禁止パリ国際会議(「1925年ジュネーヴ議定書の締約国及びその他の関心国会議」)における宇野外務大臣代表演説
議長
私は,日本国政府を代表して,閣下がこの国際会議の議長の重職に就かれたことに対し,衷心より祝意を表します。閣下の卓越した見識と,国際舞台における豊富な経験に基づく公正な指導の下に,この会議は必ずや実り多き成果を上げるものと確信いたしております。
議長
化学兵器は,強力な毒性をもって,戦闘員のみならず一般市民に対しても,広範かつ無差別に計りしれない被害を与える兵器であります。また,生産され易く,更には,戦闘において使われ易いという点で,極めて危険な兵器であります。
他方,化学兵器の使用は,たとえ戦闘の有利な展開に一時的には効果があっても,一般市民までも犠牲にする非人道的な性格故に,歴史に汚点を残す卑劣な手段と認識されてきたのであります。
特に,第1次世界大戦では化学兵器が大規模に使用され,一般市民を含めおよそ130万人の死傷者が出るという悲惨な事態を起しましたが,その経験と反省を踏まえ,当時の先人達は,1925年,化学兵器の戦時における使用を禁止するジュネーヴ議定書を作り上げました。その後,今日まで六十有余年の歳月を経ましたが,その間,このジュネーヴ議定書が風化するというようなことが無かったでありましょうか。もし風化しつつありとすれば,それは我々の怠慢であります。故にそれを直ちに是正するためにも,我々は躊躇することなく同議定書の原点に戻るべきであります。
かかる観点からも,最近,国連の調査団によって化学兵器の実際の使用が確認されたことは,国際社会にとって極めて重大かつ深刻な問題を提起しました。即ち,化学兵器が実際に使用され,兵士のみならず,乳児とその母,あるいは老人を含む多数の一般市民が無惨な死に至らしめられたとの報道ほど,日本国民の心を痛めたものはありません。我々は改めて歴史の教訓をかみしめるべきであり,化学兵器は使われてはならないとの第1次大戦の教訓を肝に銘ずる必要があると考えます。
竹下総理大臣は,昨年6月1日,第3回国連軍縮特別総会における代表演説の中で,「化学兵器を戦争に使用することは国際条約により禁止されております。にもかかわらず,イラン・イラク紛争等においてそれが実際に使用されていることは誠に遺憾であります。武力紛争において化学兵器の使用が一般化していくとすれば,世界の平和と安全にとって重大な事態であります。」と述べられましたが,それは,今も私が申し述べた基本的認識に立ってのことであります。
議長
化学兵器の使用の広がりを示す極めて憂慮すべき最近の事態を背景として,昨年9月米国のレーガン大統領は,化学兵器の使用を禁じたジュネーヴ議定書の信頼性を高めるための国際会議の開催を提唱されました。またそれに呼応して,フランス政府は同議定書の寄託国政府としてこの国際会議を招請されました。このようなイニシアティヴは誠に時宜を得たものであり,高く評価されるべきものであります。私は,この国際会議の開催を支持し,かくも多数の国の参加を得たことを心から歓迎するものであります。私はまた,この会議開催のために諸般の準備をされたフランス政府の努力に対し,敬意と感謝の意を表明するとともに,日本代表団としては,この会議の成功のためにいかなる協力をも惜しむものではないことを,明らかにしたいと考えます。
議長
私は,今回の国際会議においては,次の4点が達成されるべきであると考えます。
第一は,化学兵器使用を厳に慎むとの,ジュネーヴ議定書の定める国際的義務を厳粛に再確認することであります。
第二は,未加盟国がジュネーヴ議定書に1日も早く加盟することを強く訴え、化学兵器使用禁止体制の強化を図ることであります。
第三は,化学兵器の使用のみならず開発,生産,保有を禁止し,これら兵器の全廃を実現する条約,即ち,化学兵器包括禁止条約の早期締結の緊要性を再確認し,このためにジュネーヴの軍縮会議で行われている交渉に強い弾みを与えることであります。
第四は,化学兵器の使用疑惑または申し立てに対する事実調査が,国連事務総長の指揮の下で円滑に実施される体制を強固なものとする政治的意思を確認することであります。
議長
今申し述べた第1点と第2点については,説明は要しないでありましょう。
そこで第3点の化学兵器包括禁止条約交渉について,若干敷衍{敷衍にふえんとルビ}したいと考えます。
今回の国際会議においては,化学兵器の使用を禁止するとのジュネーヴ議定書の定める義務を再確認するのみならず,化学兵器の全廃に向かって積極的に行動すべく,我々は力強い前進をはかるべきであります。この行動の前提となるべき基本認識は,化学兵器の存在を許す限り,人類はその使用の危険から解放されず,また,化学兵器の使用の可能性を残す限り,世界から化学兵器はなくならないということであります。特に,現在では,科学技術の急速な進歩に伴い,第1次世界大戦当時では創造もされなかったような強力な毒性を有する化学兵器が,幾つかの国により開発・生産され,大量に保有され,兵器体系に組み込まれているのであります。
これが,化学兵器包括禁止条約交渉を促進すべきであると考える所以{前2文字にゆえんとルビ}であります。
また,化学兵器の包括禁止体制を完璧に作り上げるためには,この条約完成の暁に全ての国が遅滞なくそれに加盟することが必要不可欠であると考えます。
化学兵器として使用される物質及びそれらの原材料は,一部の例外を除いて平和目的のためにも広く用いられるという特異な性格を有しており,これに由来する問題をはじめ,この化学兵器包括禁止条約交渉において解決すべき難問は,今なお数多く残されております。
しかし,このような特異な性格を持つ兵器の全体を効果的な検証体制の下に包括的に禁止し,全廃することに成功すれば,軍備管理・軍縮の歴史において,まさに画期的な1ページを飾ることになると考えます。幸いこの条約交渉は最近とみに本格化しており,今しばらく力をふりしぼるならば我々は近く山頂が見える所まで辿り着くでありましょう。そのことは我々を一段と勇気づけるところであります。我が国としては,他の参加国と協力して,交渉の早期完了に向けて引き続き積極的に貢献して参る所存であることを,この機会にあらためて表明致します。
議長
第4点の化学兵器使用に関する国連事務総長による事実調査に関しても所見を述べます。イラン・イラク紛争における化学兵器の使用申立て対し,デ・クエヤル国連事務総長のイニシアティヴに基づいて実施された一連の事実調査団の報告が,化学兵器に対する国際社会の関心を高めたことは,否定し得ない事実であり,我が国は,この分野での国連事務総長の貢献とその重要な役割を強く支持致します。同時にこのような,国際的に権威のある公正な事実調査が,迅速かつ効果的に実施され得る体制を確立しておくことは,化学兵器の使用の抑止にも大きな役割を果たし得るものと考えます。
議長
全世界は,一昨年末の米ソ両国によるINF全廃条約の締結を核軍縮の第一歩として高く評価し,平和と軍縮の時代の到来を予感致しました。
化学兵器は,古代から不必要な苦痛を強いる兵器と言われ,歴史上,数々の戦史の暗部を彩ってきました。けれども我々は今や,この恐ろしい兵器の完全な廃絶に向けて手応えを感じることができる時期に差し掛かっており,新たな軍縮条約への歩みを確固たるものにすることができる時期に到達したと考えます。この機会をしっかりとつかむことができるかどうかは,この会議に参加しているわれわれの意思と行動力と相互信頼にかかっていると思います。
会議の成功を祈りつつ,私の演説を終えたいと思います。
ありがとうございました。