データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] アジアン・ウォール・ストリート・ジャーナル紙への麻生外務大臣寄稿:日本は中国の民主的な将来を歓迎する(Japan Welcomes China's Democratic Future)

[場所] 
[年月日] 2006年3月13日
[出典] 外務省
[備考] 外務省仮訳,同寄稿文はウォール・ストリート・ジャーナル紙北米版及び欧州版にも転載
[全文]

 私は中国について前向きな見方をしている。中国は、香港と合わせれば、既に我々の歴史上最大の貿易パートナーであり、日本の最近の景気回復の原動力となった。これから先も、日本と中国の相互依存はますます明確になるだろう。私は、中国が自由民主主義国へと発展していく限り、中国が東アジアの舞台の中央に返り咲くことを歓迎したい。そして私はそうなると信じている。

 アジアにおいて民主主義は広がりをみせている。そう遠くはない昔、日本の首相が、最も近隣の民主主義国に行こうと思ったら、一昼夜かけてキャンベラまで飛んでいかなければならなかった。今は飛行機で西へたった2時間で、世界で最も力強い民主主義国の首都、ソウルに行ける。

 中国の変化は間近に迫っており、私はこの変化の見通しに前向きな見方をしている。日本や韓国やインドネシアの市民たちは、経済発展の継続が安定した中産階級を創り出し、それが政治的代表権の拡大への跳躍台になることを皆立証できる。中国が十分に民主的な国へと変質していくことは、もはや「そうなるか否か」という問題ではなく、「どのようなスピードで」という問題であろう。私は、中国にいる我々の友人に対し、中国のこの目的における成功に日本がコミットしていることをお約束したい。

 想像してみてほしい。20年後、日本に対する中国の影響は非常に大きくなる。観光業ひとつとっても、学生からリタイア組まで、中国からの旅行者が日本の観光業界の最大の顧客になり、京都などの街を一杯にし、東京のタクシー運転手も、英語ではなく中国語を話すようになるだろう。中国は日本経済における最大の投資者となり、東京で取引される株式のかなりの部分が中国の手にかかることになるだろう。今は、日本の会社は、投資家のマーケティングを主としてニューヨークで行うが、じきに、まず上海に行くようになるのではないだろうか。

 実は、アジアの歴史的文脈を考えれば、これらのシナリオは特に目新しい話でもなければ驚きでもない。中国は多くの人々がいうように新たに世界の大国として登場してきたのではなく、その歴史的に有する優位性を再度主張しているにすぎないのである。私が望むことは、もはや帝国のための場所はないことを中国が認識することである。むしろ、今日の世界における指針は、グローバルな相互依存とそこから生まれる国際調和なのである。

 中国の歴史は、極端に振れた歴史のひとつである。1842年、清朝がアヘン戦争で負けて西側の列強の支配下に入ったとき一方の極端に振れた。1949年に、毛沢東が大躍進政策、文化大革命という今では誤りであったと見なされている政策に突き進んだとき、もう一方の極端に振れた。最近に至るまで、中国では、ヴィジョンと現実、実像と理想の姿とのバランスをとる余裕がなかったのである。

 非常に重要なことに、中国は日本の過去の失敗の経験から学ぶことができる。日本は「海千山千」の国なのである。日本は、20世紀の間に極端なナショナリズムを2度経験した。1964年、東京オリンピック開幕の直前に起こった、日本の十代の若者が当時のエドウィン・O・ライシャワー駐日大使を刺したのは多くを物語る事件であった。当時、日本は、米国の国力と影響力を前にして感情的になっていた。北京の指導者達は、このような日本の経験から教訓を学んで、ナショナリズムの高まりをよりうまく処理することができるだろう。1960年代及び70年代に日本を苦しめた環境汚染の問題も、中国が、日本の成功から影響を受けるのと同じくらい、日本の誤りからも学んでほしいと願う分野である。

 軍事的プレゼンスについては、日本は、アジアに備わった安定化装置である。米国と日本は、世界で最も長い期間にわたって安全保障パートナーシップを結んでいる。それは透明性が高く、二つの民主主義国の間の関係である。米国と日本がそれぞれ単独に行動するのであれば、疑いを抱く人もいるだろうが、両者が一緒に行動することにより、誤解の余地はなくなる。中国と他のアジア諸国は、今後とも日米が共同で提供する、地域に組み込まれた安定化装置(ビルト・イン・スタビライザー)を頼っていくことができる。これは、北京においても利用可能な公共財なのである。よって、私は、中国の防衛支出を十分に公開することを要請したい。中国は、これがまだ不透明であることを認めており、また、この10年間で3倍になっているものである。

 最後に、日本の戦後の歩みについて考えたい。私は、日本は、例外はいくつかあるものの、基本的に自らをオープンにし、そして近隣諸国に仲間として接してきたと自信を持って言えると思う。自らを「技術屋」だと自負している者として、私は、日本が近隣諸国に対し示してきたこのような態度を「P2P」あるいは「PEER TO PEER」の関係と称してきた。

 私は、こうした考えが広く、特に中国の人々の間で共鳴を呼んでもらえたらと思っている。このため、私は、外務省の同僚たちに、複数年にわたる学生交流のプログラムを創設するように要請した。この計画は、中国の将来に対する私のビジョンのように、極めて前向きなものである。

 私は、日本の若者に中国を温かい目で見てくれることを強く望んでいる。中国の成長は、誰の利益をも妨げるものではない。我々の新たなプログラムは、何千人もの日中の高校生の交流を促進し、これらの若い大使達が互いの国の一般家庭に滞在し相互理解の種を植えるものである。このプログラムが成功すれば、20年後には、日本の男女は中国について自ら直に得た知識をもって、自分の最も親しい友のひとりとして中国人をとらえるようになるだろう。そしてさらに多くの中国人も、日本について同じように感じるようになるだろう。