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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 麻生外務大臣演説:日本にとって中南米の意味を問う‐新時代のパートナーシップを育てるとき

[場所] 東京(経団連会館)
[年月日] 2007年7月6日
[出典] 外務省
[備考] 
[全文]

●中南米へ行ってみたい

 外務大臣の麻生太郎です。

 日本経団連の皆様には、わたくしども外務省の仕事に常日頃よりご協力をくださいまして、まことに有難うございます。本日は、貴重な機会を頂戴いたしました。また、ご多用中にもかかわりませず、多数のご参集を賜りました。御手洗冨士夫会長、佐々木幹夫・中南米地域委員長はじめ、皆々様に、厚く御礼を申し上げます。

 初めに本日、中南米についてスピーチを致します訳を申し上げておきます。

 今年の夏わたくしは、ブラジルとメキシコを訪問したいと考えております。ことにブラジルでは、FEALAC、Forum for East Asia - Latin America Cooperationというのですが、東アジア・ラテンアメリカ協力フォーラムの、第三回外相会合に出席したいと思っています。

 そこでこの際、日本にとって中南米とはという問題を少し突き詰めて考えておくのもよかろうと思いまして、この場をお借りすることに致しました。

 世界にはいろんな所がありますが、中でも中南米がどれだけ面白い場所か、という話をまず致します。わたくしども、中南米をエキサイティングだと思う理由は次の二つです。

 その一は、中南米が今や、歴史的な転換期にあることです。その二は、中南米くらい、我が国の官民が挙げて営々と、一種の「含み資産」を積み上げてきた地域もほかにないということです。

 そういう中南米に向かって我が国外交が投げ込む球は、直球、ストレートです。

 すなわち第一に、経済関係の強化。第二に、中南米各国は今、社会的公正を広めていくことを最大の課題として取り組んでおりますから、その努力を助けること。

 そして第三が、中南米というのはサンフランシスコ平和条約を結んだ頃以来、日本を熱く支持してくれる国の多いところですので、今後は国際舞台で、もっと一緒にやっていこうという、以上の三つです。

 この三つを通じ、中南米と我が国と、お互い頼れるパートナーになってまいりたい‐。これが、本日の結論となるはずであります。

●日本の戦後と、「近かった」ブラジル

 あれはわたくし、経営者になりたての頃でありました。実家の会社が当時ブラジルに進出し、多角化を図っておりまして、責任者だったわたくし自身、サンパウロのホテルに長逗留していたことがあります。

 あの時分、1950年代末から1960年代一杯、日本ではマンボやルンバ、タンゴやチャチャチャがやたらと流行りました。これは偶然ではなかったのでありまして、中南米、ことにブラジルは、あのころの日本にとって今よりはるかに近い存在でした。

 当時のアジア経済は、未だ全く離陸を遂げておりません。我が国の賠償について言うと、インドネシア向けが終わったのが、1970年、フィリピン向けは1976年でした。日本企業にとってアジアには、まだなんとなく、大手を振って歩きにくい雰囲気もありました。

 そこへ行くと、日系人が大勢いるブラジルでは、対日感情が悪くない。ハーマン・カーンなどが当時、ブラジルについてやたらと強気の論を張っていたという事情もありました。ハーマン・カーンというのは、日本とインドの台頭を予言したアメリカの未来学者です。

 1960年前後はそんな背景のもと、ブラジル向けにいろいろと、「ナショナル・プロジェクト」を実施した時代です。これは当時の呼称で、閣議了解つきの大型海外投資案件を、そう呼んだものでした。

 わたくしの会社もそんな折、鉄鋼や繊維の大手がブラジルに行く後を追いかけて、ブラジルへ行きました。しかし結局1970年代の後半までに、ほかの会社も大体そうでしたが、撤収致します。

 以来四半世紀あまり、日本とブラジル、日本と中南米は、極めて疎遠な時期を過ごしたように思います。先方は、年率1000%を超すハイパーインフレと債務危機、その後は厳しい経済改革を続けました。当方はというと「失われた十年」で、中南米どころでない時期でした。

 ところが双方とも今、問題をほとんど解決致しました。我が国にとって、中南米との絆を固め直すときぞ、ようやく至れりであります。

 ちなみに、我が国外交の体力如何は、地球の裏側で真っ先に表れます。日本外交力の敏感なる先行指標をなすのが、我が国・中南米外交のありようであると、わたくしの理解ではそうなります。

●中南米は中国と匹敵、インド二つ分

 ともかく皆さん、世界で伸びているのは中国やインドだけだなどと、思い込んでもらっては困ります。

 中南米各国では、近年ようやく財政収支が改善し、インフレ退治ができました。一次産品市場の大相場で、国際収支も劇的に良くなっております。どちらも、歴史始まって以来の現象です。

 GDPのサイズでは今面白いことに、韓国、ロシア、インド、それにASEAN全体が、ほぼ横一線です。大体、8000億から、9000億ドルです。

 ところがメキシコとブラジルが、それぞれこれに並んでいる。つまり中南米には、インドが二つある、あるいは、ASEANが二つあるのだと思ってください。また中南米全体では、ちょうど中国経済の規模に匹敵します。

 中南米はまず資源が豊富、今後は消費を伸ばすでしょうし、元々欧米諸国に地の利があります。日本からすれば、一次産品の供給源、製品の売り先、さらに生産基地として、いずれも重要ということになりますので、皆様もさぞや、中南米に関心をお持ちのことと存じます。

 わたくしは皆様の活動を、外務省に後押しさせるつもりです。経済協力をするにしても、日本と中南米の関係を強くする方向で、進めさせたいと思っております。

 後ですぐ触れますが、中南米はおおむね民主化を成し遂げました。指導者というのは大衆の支持を受けて出てくると、どこでもそうでありますが、まずは格差とか、分配政策を気にせざるを得ません。

 中南米の国々では今、そういう状態が始まったばかりでして、政府がとかく民間の経済活動を気にするようになっております。日本企業が進出するにつけても、相手国政府との折衝が重要になりますから、外務省に、一汗かかせねばなりません。

 現状ではご承知のとおり、メキシコ、チリと、我が国はEPAを結んでおります。申すまでもなく、これは皆さんがたのご支援のおかげです。

 このうちメキシコとのEPAは、2004年9月の締結以来かれこれ三年が経ちまして、今や大いに成果をあげております。

 2006年度の実績を2004年度の数字と比べますと、我が国からメキシコへの輸出は、5922億円だったのが1兆1341億円へ、91.5%伸びました。輸入を加えた貿易総額でも、伸び率76.3%です。

 日本からはメキシコに直接投資が相次ぎ、こちらは2.6倍です。日系家電メーカーがメキシコへ集中し、液晶テレビやプラズマテレビを実に年間1千万台、米国へ輸出しております。

 他方、チリという国は、経済の自由化と、政治の民主化に成功した優等生でして、銅やモリブデンはじめ、重要資源の供給源であります。

 そのチリとのEPAは、今年の3月、来日されたフォックスレイ外相との間で結びました。

 本日ここには、日本・チリ経済委員会の佐々木幹夫委員長がおいでです。ご支持をくださったおかげで、日本も資源の確保や、南米地域に対する進出拠点として大切なこの国と、EPAを結ぶことができました。御礼を申し上げます。

●「共益」を語れる時代

 それにつけても、中南米の発展には、わたくしどもの意をとりわけ強くさせるものがあります。

 1980年代に、軍政が軒並み民主主義に変わりました。その結果、今や多くの政権が、民意を反映する政治を定着させることと、市場経済のもと、安定した経済発展を図ることとの両立を目指し、両者の間に好循環を生もうとしております。意を強くさせるというのはまさしくこの点でありまして、世紀のドラマを見る感すら抱かせるものです。

 民意はほぼすべての国で、将来を決定づけるようになっております。官僚制の腐敗など、かつてに比べだいぶん減ったという話も聞こえてきます。

 とはいえわたくしも、大土地所有制による分配の不平等であるとか、積年の課題が残っているのを知らぬわけではありませんが、そういう問題の解決に手を貸したくとも、相手が軍政や内戦状態にある間は、我が国にできることは高が知れておりました。

 ボリビアや中米諸国といった、必要な国に天下晴れて、我が国から手を差し伸べられるようになったのはようやくこの20年くらいのことです。

 ボリビアというと、ファン・エボ・モラレス・アイマという大統領がおいでです。ボリビアでは初の、先住民出身の大統領です。農民組合の書記から駆け上がった方でして、まだ40代です。過激派であるという風評もありました。

 そこで今年の3月、日本にお呼びし会ってみたら、やはりこの人が、熱い情熱の持ち主なのです。「ウチは南米でもいちばん貧しい部類の国であるが、なんとか伸ばしたい」と、そう言われる。こういう指導者に、ガンバレ、日本は応援していくぞ、と言えるようになりました。

 わたくしはこれを、慶賀すべきことと思います。またこのような関わりを深めてこそ、中南米の経済成長を、我が国の活力に取り込む道も開けてくるはずであります。

 近頃では皆さんも、ブラジルがバイオ燃料大国になるというような明るい話を聞かれることが多いでしょう。日本と中南米が「共益」を語れる時代が、いよいよ本格的にやってまいりました。

 しかもそのための下地は、実はとっくにできております。それは、無名かつ無数の日本人・日系人が、たゆまぬ努力を続けた結果なのであって、そのことに触れないわけには参りません。

●ホンジュラスの算数と、「米百俵」

 実はこのスピーチを作る過程で、ほとほと感心したことがあります。

 皆さん、我が国は、ニカラグアとかペルー、ボリビアやグアテマラといった国々で、小学校、中学校を建てたり、増改築する仕事を続けておりますが、このこと自体、初耳だという方が多いでしょう。

 そこで伺いますが、我が国のODAが1995年からこっち、整備した学校の数はどれくらいだと思われますか。

 小中学校の数にして、1960、教室数では実に7861であります。これに職業訓練所や障害者施設の増改築を加えると、もっと増え、2356校、8964教室になります。

 一件ずつならささやかな協力が積もりに積もったものですが、2356とか8964という、この蓄積には正直、驚きました。

 入れ物としての校舎より、むしろもっと大事なのはどう教えるかです。そこで登場するのが、こういう場合やはり、JICA(国際協力機構)の人たちです。

 ところはホンジュラス。最貧国の一つです。

 この国に、1989年から2002{前4文字ママ}までの間、我が国各地の小学校から58人の先生が、青年海外協力隊員になって赴任しました。そして延べ2万人‐2千人ではありません‐の教師に、算数の教え方をコーチします。

 というのも中南米の貧しい国には、算数がネックになって、小学校をやめてしまう子供が少なくないのだそうであります。協力隊の隊員たちは、現地の教師と一緒になって、子供に算数を面白いと思わせる教え方を考えました。

 途中をはしょりますが、彼らは遂にホンジュラスで、算数の教科書をこしらえます。それが、唯一の国定教科書となるまでに至りました。

 JICAは2006年の4月から、ホンジュラスの教科書を、同じスペイン語を使う周辺の国々、グアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、ドミニカ共和国などに広めようとしております。

 日本人の先生が作った親しみやすい教科書が、子供たちの手から手に渡っている光景を、いっぺん目を閉じてご想像ください。

 そういう下地があってホンジュラスに行ったのが、「米百俵」の物語でした。

 越後長岡藩の「米百俵」という故事がありましょう。戊辰戦争に敗れ、食うや食わずの長岡藩に届いた恵みの米百俵。一時の空腹を満たすより、飢えを忍んでも売って資金に換え、若者の教育に注ぐ英断を下した武士の物語です。小泉サン(小泉純一郎前総理)が演説に使ったのを、ご記憶のことと思います。

 この話を、ホンジュラスの劇団がホンジュラス人俳優たちだけで芝居にして上演し、満場感動の嵐、役者と観客が相共に涙を流したというエピソードがあるのです。

 ドナルド・キーン訳の英語版台本をスペイン語に移したのは、当時の女性の文化大臣だったとか、我が方大使の活躍だとか、紀宮殿下がご覧になったとか、これを話していくとスピーチが終わりません。

 ともかく、教育こそは国の礎という日本の物語が、ホンジュラス人の心を打ちました。2003年のことで、算数プロジェクトが佳境にさしかかりつつあった時期のことです。

●日本人の善意鍛えた「道場」

 ホンジュラスという国、日本との貿易額などわずか160億円程度に過ぎません。しかしわたくしは、有難い国だったと思います。

 ホンジュラスには、1998年に大災害が見舞います。「ミッチ」という巨大ハリケーンで、人口740万人足らずの国に、死者7007、合計61万人以上の被災者をもたらしました。

 この時我が国は、自衛隊を送ります。6機の航空自衛隊C-130輸送機が太平洋を越え、物資を運びました。医師7人を含む陸上自衛隊員80人が、現地で活動しました。これは今でこそ、当たり前の景色です。しかし、緊急医療援助で自衛隊が国外に出たのは、この時こそが初めてでした。

 ホンジュラスの人たちは、感謝してくれました。自衛隊派遣からかれこれ10年、我々の大使が離任するときのことです。この人は勲章をもらい、ホンジュラス国会で答辞を述べたのですが、ハリケーン「ミッチ」に言及したその瞬間でした、「日本万歳!」‐。湧き上がった議員たちの歓声と拍手で、議場はどよめいたのであります。

 わたくし思うに、ホンジュラスは、「善意の道場」でありました。無名の日本人が善意を働こうとする、それを鍛錬してくれる現場であり、道場だったと申し上げたい。有難い国でした。

●「善意の含み資産」無駄にするな

 それにしても、と思いませんか。どうして香川県高松市のタダノは、自社製クレーンをチリ領イースター島に持ち込んで、例の巨像、モアイ像を再び地面へ立たせる仕事に、取り組んだりしたのでしょうか。

 カリブ海に浮かぶジャマイカの首都、キングストンというと、決して治安の良いところではありません。しかしどうしてここにも石本泰規(やすのり)さんという元協力隊員の日本人がいて、もう10年も、鉄棒や吊り輪、体操を、子供たち相手に教えているのでしょうか。

 中南米の随所に残る遺跡の数々にしても、これを最も詳しく調べてきたのは、なぜだか常に日本の研究者でした。

 キーワードは、やはり日本人男女が備えていた善意だと思います。それから、旺盛な好奇心であろうとも思います。

 これに加え、ブラジル140万、ペルー8万、中南米全体では155万人以上という日系人が、概して大いに尊敬を集めてきたという事情があります。

 あたかも来年は、ブラジル移住100周年です。これを両国で、官民あげて祝おうと、日伯交流年実行委員会の委員長をお引き受けくださった槍田松瑩(うつだ・しょうえい)三井物産社長を始め、皆様がたのお力添えを得ながら準備が進んでおります。

 ブラジル側も大いに熱心でして、わたくしはそのこと自体、日系人の皆さんがこの100年、信用と尊敬を勝ち得てこられた証拠であろうと思っております。

 このように見ますと我が国は、中南米各国において、何も「負債」をもっておりません。信用とか、感謝を得てまいりました。

 言い換えるなら、中南米とは、我が国が、ひたすら「善意の含み資産」だけを積み上げてきた地域の別名であります。

 この認識が、わたくしは我が国中南米外交の出発点にあるべきだと思います。すなわちもしこの含み資産を軽んじていくならば、徐々に目減りは避けられぬでありましょう。それは日本外交にとって、あまりに勿体ないではないか、ということです。

●気候変動問題で「共益」の追求へ

 もう一度、現実に目を向けてみます。そこにあるのは、民主主義が定着過程にある中南米地域の課題でありまして、国家相互の間、また一国内の人々の間で、深刻な格差をどう埋め、社会的公正をいかに実現していくかという難題です。ここがうまくいきませんと、西半球の安定と、持続的発展は望めないことになります。

 それは申すまでもなく、日本にとってのリスク要因になります。鉄鉱石からレアメタル、冷凍鶏肉、オレンジジュースから大豆まで、我が国は多くの資源を中南米に依存しているからです。

 だからこそ、日本はわたくしの言う含み資産を活用して、教育、産業技術、環境や防災といった得意分野で協力しながら、中南米地域全体の安定を目指して働くべきなのだと思います。

 しかも中南米の人々くらい、我々の働きを、感謝とともに受け止めてくれる人たちもおりません。そのせいでしょう、中南米の人々は、日本が国際社会を舞台に外交を進めるとき、いつも我が国を助けてくれます。すなわち日本と中南米を、国際舞台におけるパートナーにしてくれるのです。

 安倍晋三総理が5月に発表した「美しい星50」という提案にしても、これにすぐ賛同し、日本との間で環境と気候変動に関する独立した文書に署名してくれた最初の国が、実はカリブ地域にあるガイアナという国です。

 わたくしは、カリブ海やアマゾン、それにアンデスと豊かな自然に恵まれた中南米の国々と、山紫水明の我が日本は、気候変動問題で一緒にいろいろできるし、やるべきだと思っております。

 日本と中南米が、「共益」を語れる時代になったと申しました。気候変動、環境といった分野は文字通り、「共益」を目掛け、両者が国際的なパートナーシップを深めるべき分野であろうと思います。

●「ウジミナス学校」の遺産

 最後に、わたくしくらいの世代となると、「ウジミナス」の名に独特の郷愁を感じずにはいられません。

 経団連の石坂泰三、植村甲午郎といった経済人が大勢関わり、八幡、富士両製鉄以下、すべての鉄鋼メーカーを巻き込んで、ブラジルの地に一大製鉄所を造りあげた、戦後日本の記念碑的ナショナル・プロジェクトです。

 ‐時代は巡り、M&Aの嵐が吹き荒れる世の中を迎えました。新日本製鉄は、インドのMittal社に時価総額で抜き去られ、下手をすると、世界一を自他とも認める自動車用高張力鋼板の技術もろとも、買収の標的とされかねない事態に立ち至りました。

 このとき時価総額の増加、そして欧米自動車メーカーへの供給路確保という目的を追求し、新日鉄の三村明夫社長はある決断を下します。

 ‐それが、ブラジルのウジミナスと戦略を共有することだったわけです。

 と、ここまでは、新聞やテレビが伝えています。しかしわたくしの確信するところ、これまた新日鉄や日本の関係者がウジミナスとの間で営々と築いてきた、「含み資産」のゆえであろうと思います。

 1962年に第一号高炉の火入れをしたウジミナスが当初、Escola da Usiminas、すなわち「ウジミナス学校」と呼ばれたところにヒントがあります。

 関西大学の研究者が集めた証言によると、当時を知る日本人技術者に、こう言っている人がいるようです。

 「ブラジルで、しばしば私は聞かされたことでありますが、ブラジルにはずいぶんとアメリカとかいろんな国が技術移転をした。で、結局何も残らなかった。日本人は腰を落ちつけて長いこと付き合ってくれて、ついにおらが技術が出来上がった」

 米国の技術にしても少しは残ったはずでありますが、ここにわたくしは、汗まみれになりつつ、ブラジル人エンジニアたちと一緒になって働いた日本人技術者の姿が見えるように思います。

 鉄鋼業とはプラント管理におけるノウハウの集積ですから、八幡や富士から遠いブラジルへ赴任した日本人技術者たちは、良かれと思う一心で、技術移転に骨身を惜しまなかったのでしょう。だからこそブラジル人の目には、そこが工場であるというより、学校の如くに思えたに違いありません。

 そしてそこに、世代を超えて受け継がれる一つの物語が、紡がれていったのであろうと思います。

 時を経て新日鉄が敵対的買収を恐れねばならなくなったとき、三村社長の脳裏には、先輩たちの努力や、それを喜んだブラジル人技術者の善意の物語が、去来したに違いなかろうと思えます。ここに、三村さんたちも「善意の含み資産」を見た。そう言ってもいいと思うのですが、いかがでしょうか。

●中南米は幾重にも重要なパートナー

 三村社長は新日鉄の最新技術を移転しつつ、ウジミナスを世界有数の、負けない製鉄会社にしてゆくおつもりのようです。そのことを先般、三村さんがブラジルでルーラ大統領に直接伝えたところ、大統領は「ブラジルを信頼し、さらなる投資をしてくれることに大きな感動を覚える」とおっしゃっております。

 こういう良い話を、皆さんと一緒につくるところに、我が中南米外交がになう一つの使命があります。どうか、外務省を使ってやってください。スペイン語やポルトガル語に長けた連中に、腕を撫して待たせておきます。

 もう時間がなくなりました。今回は最初に三点、申し上げました。経済関係の強化、貧困や格差という地域の課題を解決する努力の後押し、それから国際社会の課題に対し、一緒に取り組むということです。

 ごく当たり前の課題であります。しかし皆さんには、この三つがひとつひとつ、日本と中南米の、長い付き合いに裏打ちされている事実をお分かりいただけたことと思います。

 わたくしは若い時分の記憶を手繰り寄せながら、今回新しい目で中南米を見直してみて、実に面白いところだったと改めて気づきました。恐らく皆様もご同様でしょう。日本にとって中南米とは、幾重にも重要なパートナーなのだと思います。