[文書名] 国政に関する公聴会における佐藤内閣総理大臣の演説
一日内閣という形で、国民のみなさんと直接話し合うことは、政府にとつて極めて有意義な機会であります。今年は当岐阜県において岐阜、愛知、三重、静岡四県の代表の方から、国政全般についていろいろお話をうかがつたわけでありますが、みなさんの意のあるところを体し、政治、行政の面に反映させていきたいと思います。
また折角の機会でありますので、二・三わたくしの所信を申し述べ、国民各位のご理解を得たいと考えます。
(再び国を守る気概について)
わたくしは、ちようど一年前の和歌山における一日内閣において、国の力というものはその国の国民性、経済力、科学的進歩、歴史的文化的伝統など、さまざまな要素の総合力であつて、核兵器を持つているか、持つていないかというような軍事的側面だけで規定できるものでない、と申しました。また、国民が自分の国は自分の手で守るのだという気概をもち、国民のよい伝統や美しい風土を次の世代に伝えていくという責任感をもつことによつて、世界の平和を維持していくため国際社会におけるわが国の発言力は一段と重みを増していくだろうと述べました。
あれからちようど一年経つていますが、わたくしはきようこの席で再び同じことを国民のみなさんに訴えたいと思います。
われわれ日本人は、現在極めて広汎な自由を享受しています。言論思想の自由、結社の自由、信仰の自由など基本的人権に関し日本には世界でも稀といつてよいほど自由があります。自由ということは、それに慣れてしまえば案外平凡なことで、ともすればそのありがたみが薄れてしまいがらです。
しかし、世界の国のなかには、この平凡な自由を求めて多くの犠牲を払い、苦悩している国民がいることを忘れてはならないと思います。現に最近東ヨーロツパの一角に起つたチェコ問題は、われわれ日本人にとつてもあらためて自由の貴さを教えてくれたものと思います。
チェコ国民の自由を求めて苦悩している姿には同情を禁じ得ません。チェコ国民はその長い歴史の中で、幾度か他国に侵略され、国民の声は抑圧され、悲惨な経験を重ねてきています。それにもかかわらず自由を求める叫び声を全く消してしまうことはできないことを、全世界にしめしてくれたものと考えざるをえません。
いずれにしても、今回のチェコ問題によつて世界の中には、国民の自由意思によつてその国の政治体制を選択し得ないでいる人々がいるという冷厳な事実がクローズ・アップされたということができるでしよう。言葉をかえていえば、共産主義体制のなかには真の自由は存在しないということであります。
われわれ日本国民は、現代の国際社会において自由主義陣営に属し、民主主義を大きな国是としています。この政治体制のもとにあつて、国民はすべて法のもとにおいて平等であり、基本的に自由を束縛されることはありません。このような幅の広い自由は世界の国々の中でもきわめてまれな例であります。いかに政治的な信条が違い、人生観や物の考え方が違つても現在の自由を放棄しようという日本人はいないに違いない。これこそ、国民的総意、つまりナショナル・コンセンサスであると信じます。
自由を守りぬくためには、まず国土が保全されなければならないし、国民生活が安全でなければなりません。国の安全を確保し、人間の自由を守るためには国民が自らの手で守るという気概がなければならないのは当然であります。また、独立国家として世界に伍してゆくための第一義的な条件として国民が常に自主防衛の重要さを認識する必要があります。
しかし、現在の複雑、多岐な国際社会において自主防衛という考え方は大きく二つにわけて考えなければなりません。
第一は意思の問題であります。国民が自分の国を守る意思、つまり大きな背骨が一本通つていなければ、経済的な発展も、文化的進歩も望めないでしよう。すなわち、国を守る気概ということは、あらゆる分野で世界に誇れることを創造していく根幹につながることであり、また言葉をかえていえば、国民的なプライドを持つということであります。
第二に、能力の問題があります。戦後われわれは平和国家として生き、経済的発展、文化の進歩によつて世界の中でかがやかしい地位をしめることを念願しています。そして、核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませないという原則を国民的総意としております。したがつて軍事的には国力相応の防衛体制をしき、その能力は必ずしも冷厳な国際情勢に対応し得るものではありません。その足りないところを日米安保体制によつて補つているわけであります。日米安保体制が最も賢明な国民的選択であつたことは戦後二十数年の平和と繁栄の歴史が実証していることは、みなさんすでにご承知の通りであります。
きようわたくしがこの席で再び国を守る気概についてみなさんのご理解を得ようとしていろゆえんは、以上のような基本的な考え方をはつきり認識していただくとともに、それが軍国主義に帰つたり、核武装することによつて国の威信を高めたりしようという考え方では毛頭ないということであります。
そして同時に国民が国を守る気概を持つということは、個人の自由を守るのだということにそのまま通じているということであります。個人の自由が守られ、自由な社会制度、自由な経済活動、自由な政治活動があつてこそはじめて進歩があるということであります。
(発想の転換)
わが国は、天然資源にとぼしく、それが国力の充実、経済の発展の面で大きなマイナスになつていた時代がありました。すくなくとも戦前はそれが国際通念でさえありました。
しかしながら今日では、天然資源が乏しいことが必ずしも経済発展を阻害する要因にはなつていないのであります。わが国の経済発展は、国民のすぐれた資質が資源の面におけるいろいろな問題点を克服した結果であり、技術革新と相まつて国際的に交通、輸送、通信手段が画期的な進歩を遂げたことに負うところが大きいのであります。
また、世界の一部には局地的な紛争はあつても、世界全体としては平和が維持されたことも大きな要因の一つであります。
わが国の国民総生産は、四十二年度において四十三兆二千六百三十七億円、約千二百億ドルで世界の第三位。一入当り国民所得は三十四万三千七百円、約九百五十ドルで世界の第二十一位であります。
国際的な学者の予測によりますと、わが国の経済力は二十年後、アメリカに次いで世界第二位になるといわれております。これは、現在の経済活動上の数字をもとにした予測であつて、それ以上になるか、それ以下にとどまるかわかりませんが、少なくとも理論上はそうなるというのであります。
つまり、わが国民の能力をもつてすれば、少なくとも相当に豊かな社会、世界一流の国家になることだけは間違いありません。しかし、そのためにはいろいろな変革や、技術革新を経なければならないはずであります。
わたくしがこのような話をするのは、現在が日本国民にとつて大きな転換期にきているということをいわんがためであります。
明治から太平洋戦争終結時までを一つのフシとし、戦後の二十数年を一つのフシとするならば、現在は二十一世紀に向つての一つのフシであり、出発点であるといわなければなりません。ということは、政治や経済や、社会各分野における対応の仕方についてわれわれの見方、考え方、つまり発想の方法をかなり変えていかなければならないと思うのであります。
まず政治の分野について申し上げます。わが国の府県制度は明治初年のままであり、この小さい島国を四十六に区切つてそれぞれの単位で政治があり、行政があります。
経済発展にともなう都市化。また都市化にともなつて発生する公害、交通難、住宅難。その逆現象としての過疎問題、これらがいずれも現在の府県単位による行政組織ではその根本的な解決をはかることはますます困難になるのではないでしようか。少なくとも、ブロック単位でものを考える習慣をつければ、案外解決の道があるのではないでしようか。政府が再三にわたつて府県合併法案を国会に提出しているのもこのような趣旨にもとづくものであります。国土の総合開発の重要性が国民全体に認識されはじめているのも現在の府県中心の考え方ではどうにもならなくなつているからだと思います。
わたくしが発想の転換を強調するゆえんも実はここにあるのであります。かつて日本人は島国根性が強すぎるということをよく指摘されました。戦後、国際的にはそういう批判を受けることはすくなくなりましたが、ここで、もう一歩すすめて、国内的にも島国根性をなくして日本列島全体を展望する考え方をとらなければ、真に近代国家として発展していくことはできなくなるおそれがあります。
これを成し遂げるためには、縄張り根性や惰性をすてて、政治家をはじめ国民全体が本当に勇気をもつて取り組まなければならない重要なテーマだとわたくしは考えています。
また経済の分野では国際的にすでに開放経済の時代に入つているし、これに対応するために企業の大型合併が行なわれていることは、すでにご承知のとおりであります。
さらに地域経済の面では、行政区域にかかわりなく実質的な経済単位が形成されつつある事実も見逃すわけにはいかないと思います。
次に電子計算機が予測するとおり、二十一世紀は果して日本人の世紀であるかどうかという問題であります。
今日の経済発展が明治いらいの教育の成果に負うことはいうまでもありません。単一民族、単一言語、そして狭い国土で集中的に国民教育の実をあげることができたわけですが、こんごこの巨大な民族の資源をさらに質的に高めることができれば、二十一世紀を日本人の世紀とすることも困難ではないでしよう。
いずれにしても国土の問題や、国民生活の問題については時代の進歩の度合いに見合つた発想をしていかなければならないということだけは異論のないところだと考えます。
古い皮袋の中に新しい酒をもるという西洋のことわざがありますが、古いよき伝統や習慣は残しながらつねに新しい手法を導入していくというのが近代政治の秘訣であり、発展の原動力だと考える次第であります。