[文書名] 故佐藤栄作国民葬儀における三木内閣総理大臣の追悼の辞
元内閣総理大臣従一位大勲位故佐藤榮作君の国民葬儀が執り行われるにあたり、僅んで御霊前に追悼の辞を捧げます。
あれほど頑健であった君は、去る五月十九日夕刻、突然に倒れ、以来、十余日、国の内外をあげて君の回復への祈りも甲斐なく、去る六月三日未明、遂に君は不帰の客となられました。巨星は逝いて{逝にゆとルビ}遂に還らないのであります。
私は今、八年の昔、君が吉田元内閣総理大臣の御霊前に追悼の辞を捧げられたその同じ場所にたって、君に永遠のお別れを申し上げなければならないのであります。偉大なるものを失った、いい知れぬ悲しみとむなしさを禁ずることができません。
君は、明治三十四年三月、山口県田布施町{たぶせまちとルビ}に生まれ、長じて第五高等学校を経て東京帝国大学法学部に進み、大正十三年鉄道省に入られました。
昭和二十二年には、運輸次官として国鉄争議の収拾等に手腕を発揮され、翌二十三年、乞われて当時の吉田内閣の官房長官となり、政治家としての第一歩を踏み出されました。爾来、内閣及び党の要職を歴任され、幾多の輝かしい功績を挙げられ巨大なる足跡を残されました。
君は昭和三十九年十一月、転換期の重要課題が内外に山積する重大な時期に内閣総理大臣の重責を担い、昭和四十七年七月まで七年八か月の長さにわたって国政を担当されました。
その間、「自由を守り、平和に徹する」との基本方針を堅持しつつ、流動する世界情勢の中にあって、自由と平和の内外政策を推進されました。
君の強力な指導による長期安定政権下にあって、我が国民生活はめざましく向上し、我が国の国際的地位もまた著しく高まりました。
国民の悲願であった沖縄の返還をはじめとして日韓外交関係の正常化、日米友好関係の堅持その他、幅ひろい平和友好外交の推進は、「非核三原則」の堅持とともに、世界平和の促進に大きく寄与しました。
特に、平和理の交渉によって沖縄返還の実現をみたことは、世界史的にみて、極めて高く評価されるものであり、君の不滅の功績であります。
これらの功績は、ノーベル平和賞授与の大きな理由になりました。君はノーベル平和賞受賞という歴史に残る大業績をもって、平和日本の名を世界に高からしめてくれました。君の名は永遠に平和日本の金字塔に刻まれるでありましょう。
時代は、自由と平和を守るために、ますます大きな努力を傾けることを求めています。
われわれが今、一番必要としていることは、君があの沖縄返還で示されたようなすさまじいまでの気魄であり、信念であります。祖国と同胞を思う溢るるばかりの愛国の至情と献身なのであります。
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって、戦後は終わらない。」という君の発言とその実現のために心血が注がれた事実は、我が国の永遠に忘れ得ないところであります。
こうした実績を踏まえて、これからさらに一そう世界と日本をつなぐ太いパイプ役になって頂きたいと念願していた矢先の急逝でありました。日本にとっても世界にとっても、まことに大きな損失であり、痛惜の極みであります。
君は信念の人、剛直の人、時に孤高の人と言われました。君は、内閣総理大臣として、あらゆる苦難を一身に負い、あらゆる批判に耐え、強い統率力と不屈の信念をもって、ただひたすら祖国のために心を砕かれました。
その反面において、君は田布施{たぶせとルビ}の町に合った少年の日の純真な心を秘めた、優しい、人間味豊かな人でありました。
君倒るるの報に接した一小学生は、「おじさん死んではいけません。おばさんがかわいそうです。」と手紙を書きました。
国民のこうした祈りも空しく、君は長逝して、再び相まみえることはできません。
君を失った御遺族の悲しみの深さはお察しするに余りあります。ここに心からなるお悔みを申し上げます。
私は、君が遺した数々の業績を踏まえ、偉大なる政治家としての君の至誠を心にきざみ、我が国が内外に当面する諸問題の解決に心魂を傾ける決意であります。
それこそ、後に残された者の責任であり、君の御霊に対するせめてもの慰めとなるものと信じます。
ここに国民のみなさまとともに君の生前の功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りいたします。
佐藤さん、どうか安らかに眠って下さい。