[文書名] 鈴木善幸内閣総理大臣のバンコクにおける政策演説(バンコク・スピーチ)
プレム総理大臣閣下,並びにご列席の皆様
1.私が総理となって最初の外国訪問である東南アジア歴訪の旅もほぼ終りに近づきました。
厳寒の東京を飛び立って,フィリピンのマニラに第一歩を印して以来10日間,私は,東南アジア諸国連合(ASEAN)各国の指導者の方々と胸襟を開いて語り合い,また,各国の国民が経済の発展に,生活の向上に,真剣に努力しておられる姿を目のあたりにすることができました。
旅の終わりにあたり,本日,ASEANの重要な一員であり,また,わが国との交流の歴史も長いここタイ国において,誠意と友情にあふれるプレム総理大臣閣下のご出席のもと,所信を述べる機会を与えられましたことは,私にとって非常な喜びであります。
タイ国は,インドシナ半島の西南に位置し,毎日の生活圏が,いわば戦場に隣接する中で,政治的安全を全うし,民生の向上と経済開発をすすめておられますが,私は,タイ国民の国民的努力に深い敬意を表するものであります。
一昨日私及び妻は,英邁かつ仁慈あふれる国王陛下並びに王妃陛下に拝謁を賜わり深く感激いたしました。
2.ご列席の皆様
皆様もご承知のとおり,今日,世界はきわめて流動的な様相を呈しております。第2次大戦後形成された秩序は1970年代に入って大きな試練に見舞われており,国際社会は新たな秩序を模索していると言えましょう。
1967年,あたかもこのことを予測するかのように,東南アジア5カ国は,まさにこのバンコクの地で,各国の連帯による地域の平和と発展を求めて,ASEANの設立を宣言されました。
その当初において,人種,言語,宗教,文化をかくも異にするこれらの国々が,果して有効な地域協力を行いうるものかと危ぶむ声があったのは事実であります。
しかしながら,ASEAN諸国は,この困難に挑戦し10年余の間に,国情のちがいを越えて,よくその連帯を強めてこられました。議論を尽し,相互理解につとめ,常により高い目標の実現に向けて着実に,かつ理性的に努力してこられました。
私は,この努力,すなわち「ASEANの挑戦」こそ,今日ASEAN諸国が,国際緊張の激化の中で,地域の平和と安定を保ち,また引き続く世界経済の不況下に,年年高い成長率を達成しつつ,経済と国民生活を大きく改善し,国際的地位を高めてこられた最大の要因であると思います。
私がこのたび,総理就任以来最初の外国訪問にあたって,ASEAN諸国を訪れることにいたしましたのは,同じアジア・太平洋地域に位置する国家として,わが国が,この地域の平和と安定を重視しているためばかりでなく,異質なものの間に連帯を強めようとするこのASEANのねばり強い努力が,国際社会の未来の秩序を構築するにあたって,世界が範とするに足るものであると考えたからにほかなりません。このたびの訪問は,この私の考えを確信に変えるものでありました。
各国を歴訪いたしまして,私が最も心強く感じましたのは,各国ともに,旺盛な自主自立の精神が湧きあがっているということであります。各国首脳が,国民の一体性(ナショナル・アイデンティティー)や国の強靱性(ナショナル・レジリアンス)を説かれるとき,私は,その基盤に,この自主自立の精神があることを感得いたしました。それはまさに,この百年来,政治,経済,社会の近代化を願望するすべてのアジア諸国を衝き動かして来た原動力であります。私はASEAN各国にひとしくみなぎっているこの精神が,各国間の政治的紐帯の緊密化を実現するテコとなっている事実及び,これによって達成されたASEANの連帯と幾多の業績が,各国の自主自立の精神を強化し,高揚させているダイナミズムにも深い感銘を覚えたのであります。
いま世界には,アフガニスタン,カンボディアの例にも見るごとく,直接武力を行使して他国の国民を意のままにしようとする動きも復活してきました。また中近東地域,ポーランド,「アフリカの角」など,世界を見渡すと,国家間の紛争や国内政情の不安定がしばしば発生するような事態に進みつつあります。
このような動きと対比して,私は,ASEAN各国が保っている平和と安定に今更ながら敬服の念を抱くものであります。石油価格の高騰,世界景気の停滞がもたらした経済運営の困難を,勤勉ならびに時宜を得た政策により克服し,同時に所得配分の公平化などの社会政策に着々と取組もうとしているこれら諸国の現実はまさに一陣の涼風とも言えましょう。
3.プレム総理大臣閣下,並びにご列席の皆様
私は,今日,世界のGNPの1割,世界貿易の1割を占めるにいたったわが国が,国際平和の維持と世界経済の発展のため,その国力にふさわしい貢献を求められていることをよく承知いたしております。国際社会に対するこの責任をいかに果すかは,80年代におけるわが国の重大な課題であります。アジアの一員としてのわが国が,まず,アジアの平和と繁栄のために努力しなければならぬことは言うまでもありません。
この点に関連してまず申し述べたいのは,わが国が軍事大国への道を選ばないとの決意は不変であるということであります。確かに,昨今の厳しい国際情勢の推移に照らし,自らの安全を確保するという見地から,わが国としても自衛力の増強に努めております。また,国民の安全保障問題に対する関心にも高まりが見られます。
しかしながら,わが国としては「わが国の国防の基本はあくまでも専守防衛である」との方針を堅持します。これはわが国として過去の選択の重大な誤りに深く思いを致した結果であります。日本が他国を脅かすような軍事大国にはならないということは,わが国の国民の総意であり,何びとといえどもこれを覆すことはできません。わが国に対して国際社会における軍事的役割を期待することは誤りであり,またわが国の軍事大国化への憂慮は,全く当を得たものではありません。
今後,わが国に期待されることは,わが国の国際的地位にふさわしい平和の為の政治的役割であります。私は,後に述べますように,農村,エネルギー,人造り,中小企業の分野における国際協力に取組むとともに,わが国の政治的役割のあり方について真剣に考え,わが国の国際的責務を誠実に果たしてまいりたいと思っております。
4.わが国としてアジアの平和と繁栄に貢献する途はまず,わが国とアジア諸国との友好協力関係を強化することであると信じます。なかんずく,ASEAN諸国との友好関係を深めることはわが国対外政策の基本の一つであり,その協力関係は,政治,経済,文化等,広範な分野において,日一日と深まりを見せております。
わが国は,政府開発援助を1978年以来3年間に倍増するという中期目標をかかげ,その拡充に努力してまいりましたが,昨年,目標をかなり上回ってこれを達成いたしました。そのうち,ASEAN5カ国に対する協力の規模は,他の地域に対するものを大きく上回っており,わが国がASEAN諸国における経済の発展と民生の安定のため実質的に貢献していることをご理解いただけるものと信じます。わが国は,本年,政府開発援助の新たな中期目標を設定するとともに,今後ともその量,質両面における拡充をはかり,東南アジア地域の安定と発展にひきつづき寄与していく考えであります。
では,今後ASEAN地域への経済協力を推進するにあたり,いかなる分野に重点を置くべきでありましょうか。私は,ここに,次の重要な要素をあげたいと思います。
まず第1は,農村の開発及び農業の振興についてであります。私は,農業の発展と農民の生活の安定と向上なくしては,一国の経済体質の強化は望めぬものと考えております。
われわれは,農業をなおざりにして重工業化を急いだために経済運営が破綻し,国民生活に不安定をもたらした例を知っております。更に,近代化即工業化の合言葉の下に展開された工業化政策が,数年後には見直され,農業生産の拡大が近代化の重要な柱であることが再認識された例もあります。また,農業生産が不十分なために,国民の創意と勤勉の結果,孜々として取得した外貨が食糧の輸入にあたら支出されている現実も散見します。わが国には,「急がば回れ」という諺がありますが,近代化への大道は,先ずその国の農業と農民生活の基盤整備から着手することにあると言えましょう。
もとより,経済社会開発のプライオリティーは,各国の自主性に任せられるべきであります。わが国としては,ASEAN各国から求められるならば,例えば農村の灌漑,排水施設,道路,電化等の基盤整備,地域保健衛生,医療等の生活環境整備,さらに農業技術の導入による農業生産性の向上などを通じて,協力を進めたいと思います。このような考えについてASEAN諸国の賛同が得られれば,私は早急に政府レベルの協議を開始し,力を合わせて農業の振興及び農村開発を推進することを提案したいと思います。
第2に,エネルギー開発についてであります。第2次石油危機以降,エネルギー開発は焦眉の急務となりました。わが国としては,石油,石炭,天然ガス開発,水力発電等在来型エネルギーのうち,政府ベースの協力になじむものについては,今後とも従来の協力を拡充してまいります。一方,豊かな太陽と広い未開墾地に恵まれているASEAN諸国においては,太陽熱,地熱,バイオマス等の「新・再生可能エネルギー」開発の可能性も高く,ASEANの要望も高まっていると承知しております。私は,この分野においても,今後ASEAN諸国との協力を進めていきたいと思っております。
第3に,かかる農村・農業開発,エネルギー開発や,更には,工業化を進めるにあたっては,これ等の開発の担い手を育成する「人造り」の推進が不可欠であります。特にASEAN諸国は近年目ざましい経済発展を遂げており,今後「人造り」の必要性は一層高まっていくと思われますので私は現在ASEAN「人造り」プロジェクトの構想を抱いております。
この構想の基本的枠組はASEAN各国の賛同を得て,各国に一つずつASEAN「人造り」センターを設定し,各国のセンターはASEAN域内に開放され,これに対し,わが方は応分の無償資金協力と技術協力を行うというものであります。
他方わが国も沖縄に国際協力事業団(JICA)の業務の一環としてセンターを設置しASEAN向けの研修,ASEANとの人的交流をはかる他,これらの各国プロジェクトとのリエゾン・オフィスの機能を与えること等を考えております。
いずれにせよこの構想については早急にASEAN各国の政府関係者との会議を開き具体化していくことを提案したく考えており,また,この構想全体に1億ドル程度の協力を考えております。
第4は,中小企業の振興であります。ASEAN諸国は総じて多くの人口を擁し,一方で豊富な労働の供給が可能であると同時に,他方で,多数の潜在的失業者を抱えるという社会問題にも直面しています。このような事情に照らし,主として消費財を生産する労働集約的な中小企業群を地道に育成することこそ,各国の社会の安定に資すると同時に,大規模工業プロジェクトたる基礎資材産業との補完関係が形成されることにより国民経済の有機的発展に連がるものと考えます。わが国としてはかかる観点からわが国の中小企業施策の経験と蓄積をASEAN協力の中で生かしてまいりたいと思います。
更にASEAN諸国の工業化への真摯な努力に対してわが国がこれまで同様,引き続き協力していくことは勿論であります。当面の急務は,「ASEAN工業プロジェクト」に対する総額10億ドルの資金協力を1日も早く実施に移すことであると考えます。この点インドネシア及びマレイシアの工業プロジェクトが今般わが方の資金協力を得て実施に移されることとなったことは誠に喜ばしいと考えます。また残るプロジェクトについても早期の実現のため協力していく所存であります。
以上わが国のASEAN諸国に対する経済協力について申し述べた次第ですが,このような政府レベルの協力と並んで私は民間レベルの協力関係の重要性を特に強調したいと思います。日本経済の発展は民間部門の創意と活力なしでは語れないことでありますし,日本・ASEAN関係においても,従来以上に民間同士の交流と協力が前進するよう,関係者を指導,奨励してまいりたいと思います。
5.経済面の協力関係とともに,今後ASEAN諸国の人々との文化,学術面における協力関係を一層推進させていかなければなりません。その一環として私は,ここに学術協力に関する新規事業として,ASEAN地域に関する研究振興計画を提案したいと思います。これは,私が,「ASEANの挑戦」と呼んだ異質のものの結びつきの探求にあたり,その学術的ベースを深めることをめざすものであります。
幸いにして,ご賛同が得られるならば,私は実施についての具体的な検討を進めてまいりたいと思います。
6.ご列席の皆様
わが国とASEAN諸国は今日良好かつ緊密な関係にあります。これからの日本とASEANとは成熟(マチュア)した関係を目指すものであり,その将来は,一層大きな協力の可能性を秘めています。われわれの課題は,「ともに考え,ともに努力して」,この可能性を現実のものとすることにあると思います。相互の交流が深まるにつれ,立場の相違が明らかになるかも知れません。しかしながら,われわれはそれを心配する段階を過ぎました。親しい友人同士として,もはやわれわれは率直に自分の意見を言い合うことができるのであります。不断の対話と協議を重ねるならば,また,ともに考えて,ともに努力する経験を積み重ねるならば,いかなる問題も解決できるでありましょう。
アジア諸国の伝統文化の中には異質なものの間の矛盾や対立を巧みに調和統合させる知恵が内在しております。わが国にも古来”和をもって尊しとなす”の思想があり,私はこの和の思想がアジアにおける現代生活の中,国際関係の中にも息づいていると思います。
7.御列席の皆様
ここバンコクの東方約200キロの地点には,100万を超えるカンボディアの民衆が戦火と飢えに直面しております。
わが国とASEAN諸国の関係が「ともに考え,ともに努力する」というものであるならば,私としては,この席でインドシナ地域の平和の問題について言及しないわけには参りません。私は今回の旅行を通じ,このインドシナの問題について,ASEAN各国の首脳と等しく強い懸念と憂慮の念をもって語り合いました。
このような状況が何年も続くことはカンボディア民族にとって悲劇であるばかりでなく,またその周辺に及ぼす悪影響を考えると決して容認さるべきではないと信じます。
カンボディアに対するヴィエトナムの軍事介入は,東南アジア地域の恒久的平和と安定を求めるASEAN諸国の願望に暗雲を投げかけています。カンボディア問題を平和的に解決し,この地域が当面する最大の不安定要因を除去することは,国際社会全体の共通の願いであります。
カンボディアにおいて戦闘が続き,荒廃した国土で国民が飢えと病に苦しんでおり,安全と食糧を求めて数十万の難民が隣国に逃れるという不幸な事態はカンボディア人自身が作り出したものではなく,ヴィエトナムが軍事介入した結果に他なりません。
カンボディアに平和を回復し,問題を根本的に解決するためには,ヴィエトナム軍が撤退し,カンボディア国民が自らの将来を自由に選択できるような環境が作られなければなりません。
わが国は,ASEAN諸国の努力により国連総会に提出されたカンボディア情勢に関する決議を支持しました。それは,わが国が,カンボディアにおける全紛争当事者及びその他の関係者を参加せしめる国際会議において,外国軍隊の全面的撤退,国連監視下の自由選挙の実現について話し合うべきであるとの確信をASEAN諸国と共有するからであります。日本とASEANは他のこころざしを同じくする国々とともに,一致協力してこの未曽有の苦難に喘いでいるカンボディアに平和と安らぎを取り戻し,東南アジア地域全体の安定を確保するよう,国際世論に訴え,国連における決議は圧倒的多数で採択されたのであります。
わが国は,このような国際社会の圧倒的多数の訴えに応えて,国際連合が右決議の実現に向けて積極的に取り組むことを強く期待し,事務総長が会議召集のため早急に必要な措置をとることを要請するものであります。わが国は安保理事会の非常任理事国として事務総長のこのための努力に対し全面的に協力する用意があります。
私は,今こそ,ヴィエトナムが国際社会の呼びかけに積極的に応え,平和の回復のため話し合いの席につくことをこの場を借りて改めて訴えるものであります。
そして,インドシナ地域に恒久的な平和が実現した暁には,わが国としては,その復興のため,できるだけの協力を行う所存であります。
8.プレム総理大臣閣下,並びにご列席の皆様
私はASEAN5カ国が異質な国情を越えて素晴しい連帯の実を挙げ自助と協調により着実な国造りに努められていることをもって「ASEANの挑戦」という讃辞を呈しました。そしてわが国としてその「ASEANの挑戦」に協力することを誓いました。またそうすることがわが国の国際責任を果たす一つの重要な方策であるとも申しました。
日本の外交において,わが国は,軍事的影響力を行使する意思は毛頭ありません。わが国はその経済的力を平和な国際環境造りに一層役立たせたいと念願しており,同時に,国際の平和,なかんずくアジアの安定のための政治的役割を着実に担っていきたいと考えています。そのためには,経験の蓄積が必要でありましょうし,勇気と英知も求められます。この点についてもASEANとともに考え,ともに努力していきたいと思います。
私は,政治,経済共に調和のとれた東南アジアが安定し,発展することこそが,20世紀最後の20年を通じ世界に平和をもたらす一つの重要な鍵となるものと信じます。そしてその東南アジア,なかんずくASEAN諸国こそ「太平洋の時代」といわれる21世紀において世界経済の原動力として大きく飛躍するものと信じます。そして,その時もわが国は,ASEANにとって平和と発展を分ち合う良きパートナーであり続けたいと念願するものであります。