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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 「故岸 信介」内閣・自由民主党合同葬儀における中曽根内閣総理大臣の追悼の辞

[場所] 
[年月日] 1987年9月17日
[出典] 中曽根内閣総理大臣演説集,126−129頁.
[備考] 
[全文]

 本日ここに、正二位大勲位、元内閣総理大臣、自由民主党最高顧問、故岸 信介先生の内閣・自由民主党による合同葬儀が執り行われるに当たり、謹んで御霊前に追悼の辞を捧げます。

 岸先生。まことに長い間、日本のため、世界のためにお尽くしいただき御苦労様でございました。ここに、ありしながらの温容を仰ぎ見つつ、内閣総理大臣、自由民主党総裁として心からお礼を申し上げ、お名残り尽きぬお別れを申し上げます。

 先生は山口県に御出生になり、幼少のころより俊秀の誉れ高く、長じて農商務省、商工省に勤務されるや夙に頭角を現わされ、将来国家をになう人材として嘱望されました。しかし、昭和十六年、東条内閣の商工大臣に就任せられて以来、戦争の前途を憂慮され、国を愛し平和を求める至情を貫こうと苦悩の時代を送られました。その後、先生は、決然として東条内閣を打倒し、終戦を促進されました。敗戦、被占領の時にあっては、A級戦犯容疑で巣鴨刑務所に拘置され、明日の命も保証されない運命の日々を送られました。起訴を免がれ、やがて、公職追放解除になるや、市井の一国民として日本再建の回天の事業を志され、後に政治活動に身命を賭されるに至ったのであります。当時は、太平洋戦争での敗戦、占領軍の進駐という厳しい現実の流れの中で国民の多くが誇りと自信を失わんとしていた時期であり、先生の大目標は、自主憲法を制定し、日本国民が独立国民としての矜持を堂々と持ち、正しい民主主義と民族主義の下に、日本復興の歯車を回し始めさせることにありました。

 この大目的のため手掛けられたのは、まさに保守合同の実現でありました。この偉業の達成によって、保守の岩盤は一体的に強固になり、政局は諸外国に比べて安定し、今日の日本の平和と経済発展の基礎が築かれたのであります。

 ついで先生は、鳩山内閣を助けて、日ソの和平と正常化の交渉を成功させ、シベリア等に抑留されていた同胞の帰還と日本の国連加盟を実現し、日本が今日の国際的地位を獲得する端緒を開かれました。

 その後昭和三十二年二月から三年五か月にわたり、先生は内閣総理大臣の重責を担われ、現職総理大臣として初めて東南アジア諸国を歴訪し、賠償問題の処理を手掛け、アジアに生き、アジア諸国と共生し協力しあう今日の日本の礎石を据えられました。当時私は、この東南アジア諸国歴訪に随行し、ネール首相を始めアジアの指導者との感激的対面の場を目のあたりに見たのであります。

 また先生は、内政にあっては、岸政治のバックボーンをなした憲法問題の解決に取り組まれ、内閣の諮問機関としての憲法調査会を設立し、国の基本に関する国民的検討と合意の形成の途を開かれました。さらに、国民皆保険皆年金を実現し、最低賃金制度を確立するなど、民生の充実向上に力を注がれました。

 しかし、何と言っても、先生の偉業の中の最たるものは、日米安全保障条約の改正を敢然として手掛けられ、筆舌に尽くせない艱難辛苦を突破され、政権の運命をかけてこれを達成されたことであります。このことによって、日米両国の関係は対等を回復し、平和と自由と民主主義に立脚する両国の友好と協力の関係は、子々孫々にわたって強固に構築され、世界政治における日本の路線は確立されました。そのことはまさしく今日の日本を形成する基礎となったのであります。この御功績は、戦後の日本歴史の上に不滅のものとして伝えられるところであります。

 由来、大きな志を遂げんとする政治家には、毀誉褒貶はつきものであります。また、真の政治家は、その時代時代の宿命を背負って行動し、時流におもねず、国家百年の大計を自己一身の犠牲において敢行し、その評価を後世の史家に託して消え去って行くものであります。思うに、岸先生ほど、時代の浪に洗われつつも、その局面局面において自己の信念に忠実であり、自己の信念を全うせんとした政治家は近来少ないと言えましょう。政治家が、自己の所信に忠実に生きようとすればするほど毀誉褒貶はますます多く、かつ、大きくなるのは当然であります。しかし、さらに時代が経過すれば、それはかえってその政治家のスケールの大きさ、底力の強さを示すものとなるのであります。先生との永訣のときに当たり、先生の人生に思いを致し、このような政治家としての大きさと信念の強さをしみじみ感ずるものであります。その中心を貫くものは、先生の強烈な人類愛と愛国心であったと確信いたします。

 岸先生。戦後政治のあの困難の時期に、先生が国の将来を見通し、不屈の信念をもって推進された幾多の政策は、三十年の歳月を経て、平和国家日本、経済大国日本の基盤として大きく結実いたしました。先生は、政治家として自らが心血を注いだ政策の大きな成果を目のあたりにされたのであります。このことを思うとき、先生をお送りする私どもの大きな悲しみも、いささか慰められるのを覚える次第であります。

 先生は、総理を辞められた後も、時流に超然として、かつ、大局的な立場に立たれて、我が国の政治の在り方について御所見を示されるなど、国政の指導者として日常を過ごしておられました。

 平常、先生は、少壮のころ「カミソリ岸」と言われたその鋭鋒を包み蔵して、万人と別け隔てなくおつきあいになり、自己を隠さず、言うべきことは妥協せず、しかも他人の言葉には注意深く耳を傾けられ、淡々として酒脱、しかも人情に厚く、人間愛に溢れる方でありました。

 私は、長年にわたり、偉大なる政治家、尊敬すべき先達としての先生の聲咳に接しえたことの幸せを今改めて噛みしめ、先生の御恩情に対し、心から感謝申し上げる次第であります。

 現代日本にあって、先生の御逝去は、まさに言葉通り「巨星墜つ」との感を皆ひとしく分かち合うことと思います。しかしながら、先生の政治に対する御尽瘁と、国家、人類に対する奉仕の理念は、長き将来にわたって脈々として実現されて行くものと確信いたします。

 ここに先生とお別れするに当たり、その御功績を鑽仰し、心から御冥福をお祈り申し上げて、弔辞といたします。