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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 大隈重信生誕百五十年記念講演,「建学の精神を継承して,今こそ新しい早稲田百年の第一歩を」(竹下内閣総理大臣)

[場所] 早稲田大学大隈講堂
[年月日] 1988年3月13日
[出典] 竹下演説集,508−515頁.
[備考] 
[全文]

 建学の精神

 大隈重信侯のご生誕百五十年をお祝いする佳き日に当たり、同じ早稲田に学んだ先輩方や同窓の皆様そして在校生諸君に対し、一言ご挨拶を申し上げる機会に恵まれましたことは、私にとりまして、このうえない喜びであります。

 また、本日私の内閣総理大臣就任を、併せてお祝いいただきますことは身に余る光栄であり、衷心よりお礼を申し上げる次第でございます。

 私は昭和二十二年早稲田大学商学部を卒業いたしました。卒業以来すでに四十年を越えておりますが、その間、母校早稲用大学は年々隆盛の一途をたどり今日に至りました。

 まことにご同慶にたえない次第であります。

 これもひとえに西原総長はじめ教職員各位および学生諸君のたゆみないご努力の賜と存じます。それに加えて、私は全国に広がる三十五万校友の母校を愛する熱き思いに支えられた結果であろうと確信するものであります。

 なぜ、これほど早稲田は団結するのか、と世間では不思議に思っている人も決して少なくありませんが、それは「集まり散じて人は変われど」、大隈老侯以来百有余年にわたって、常に継承されてきた「進取の精神、学の独立」という建学の精神が、年代や世代を越えて、あらゆる早稲田人の中に脈々と息づいているからに他ならないと信じます。

 大隈精神の継承

 初代総長大隈重信侯は、すでにご承知のとおり、佐賀鍋島藩の武士の家庭に生を享け、幕末の動乱期に青春時代を送られました。

 当時の激しく厳しい時代を不屈の精神力で乗り越えて、新しい日本の建設に、いのちをかけられた偉大な政治家でありました。また、時代に先駆けた思想家であり、そして教育者でもあったのであります。

 明治三十一年と大正三年の二度にわたり、自から政権を担当されましたが、野にあっては明治十五年東京の西北、戸塚村ここ早稲田に「東京専門学校」を設立されました。

 それ以来、早稲田大学は一貫して「精神の独立は、学問の独立による自由精神の育成にある」との精神を堅持、継承しながら、幾多の難関を乗り越えて優秀な人材を世に送り続けてきたわけであります。まさに早稲田大学は「学問の独立」を全うすることをもって、建学の本旨としてきたと申すべきでありましょう。

 かつて、大隈老侯が学園の経営難や学生募集、教育確保の困難さに直面して「これを吾輩の三難」三つの難問であると嘆かれたことを思う時、今日の早稲田の隆盛は誠に隔世の感がいたすのであります。

 わずか八十七人の新人生で始まった「東京専門学校」に比べ、今日の四万人を超える学生数を擁する母校の姿を、大隈老侯はいかなる感慨をもって見守っておられることでしょうか。改めて先人のご苦労が偲ばれてなりません。

 稲門人脈

 今や卒業生は三十八万人を超え、現在一万数千人の校友が海外に雄飛してご活躍中とお聞きいたしております。

 私は、昨年十一月六日の政権担当以来、フィリピン、アメリ力、カナダ、大韓民国を相次いで訪問いたしましたが、いずれの国に参りましても、必ず稲門会の皆さんから実に心温まる歓迎を受け「世界に開く早稲田」という印象を深くいたしました。

 特に、政治の世界には、多くの校友が進出しており、誠に心強い限りであります。

 戦後の早稲田卒業生の中で国会へ出たのは、実は私が最初であります。

 ちょうど保守合同直後の昭和三十三年に行われた総選挙で初当選したわけでありますが、これを祝って後輩諸君が私のために大隈会館で祝賀会を開いてくれたことがありました。当時三十四歳で、私もまだ若かったものですから、かなり緊張しまして、それでも一生懸命演説いたしました。

 そのあと、会場の中を歩いておりますと、隅の方で何人か集まっております。何を話しているのだろうか、先程の私の演説に感心したのだろうかと思って近寄ってみますと、とんでもありません。

 「あの程度で国会議員になれるならオレたちにもやれるのじゃないか」と話し合っていたのであります。

 その当時、まだ大学生だったり、卒業後間もない後輩諸君がその後次々に国会へ進出してきました。

 海部俊樹君、小淵恵三君、藤波孝生君、西岡武夫君、渡部恒三君、松永光君、森喜朗君、河野洋平君、玉沢徳一郎君などの方々であります。そこで今、私はこう言うのであります。「あの時、私が素晴らしい演説をしていたら、君たちは自分の力で国会議員になるのは無理だと思ったにちがいない。私の演説があの程度であった、まずかったからお蔭で君たちも勇気づけられたではないか」。そう言うのであります。その点については、恐らく皆んなも感謝してくれているのではなかろうかと思います。

 現在、国会には与野党合わせて衆議院六十一人、参議院十七人、全部で七十八人もの早大出身者が活躍いたしております。しかも、衆議院の原議長と多賀谷副議長、参議院の藤田議長、こうして見ると国権の最高機関たるの長は皆早稲田出身であります。

 竹下は早稲田人脈でトクをしている、とマスコミでは時々評しておりますが、確かに早稲田同士は党派のワクを越えて、人間のつき合いができることも確かであります。

 十数年前までは、国会議員で一番団結しているのは、一に国鉄、二に早稲田と言われたということもあるでございましょうが、今では国鉄が分割され、JRになったからというばかりでなく、まさに早稲田の団結が断然トップと言われております。

 政界以外でも、財界、言論界、文学界、スポーツ界、あるいは科学、芸術から芸能に至るまで、広い分野に早稲田から多くの俊才が送り出されてきたことについては、今さら申し上げるまでもないことであります。

 青春時代

 私にとりまして、早稲田における日々は、まさに青春そのものでありました。その頃、私は和田伝の農民文学やいろいろの哲学書などを乱読しておりましたが、しかし、やっぱりなかでも尾崎士郎先生原作の「人生劇場」は、何度読んでも、その感激は変わることがありませんでした。ふるさとをあとにして上京し、早稲田に学び、多くの友人たちと、多感な学園生活を送る小説の主人公青成瓢吉のイメージに自らをダブらせて青春の夢を見たことも、実に懐しい思い出の一つであります。

 「やると思えば、どこまでやるさ、それが男の魂じゃないか…」

 この名文句を口ずさむ時、本日お集まりの多くの方々が、私と同じ熱き思いに包まれるのではないかと拝察いたすのであります。

 太平洋戦争が次第に激しさを増す昭和十七年十一月十日、私は、この大隈講堂に坐わり、満員の聴衆と共に、中野正剛先生の「天下一人を以って興る」と題する三時間に及ぶ大演説を聞きました。当時、早稲田第一高等学院の一学生であった私にとりまして、それは、きわめて感動的な、ひと時でありました。

 その後、私も学徒動員により、陸軍特別操縦見習士官として出征いたしました。

 やがて終戦。復員して我が家へ戻る途中、ひさしぶりに目にした山河は、すっかり荒れはてて見る影もない有様でした。

 その時、私は「よし、政治家になって二度と戦争が起こらないような、平和で豊かな国土をつくろう」と自分なりに固く心に誓ったものであります。それが政治家としてのいわば出発点であります。

 竹下政権の基本姿勢

 政界で活躍された稲門の先輩には、大隈老侯や中野正剛先生のほかにも多くの方々が思い浮かびます。

 大山郁夫先生、永井柳太郎先生、三木武吉先生、緒方竹虎先生、松村謙三先生、そして鈴木茂三郎先生、浅沼稲次郎先生といった方々でございます。

 また、早稲田の卒業生として初めて政権を担当されました石橋湛山先生は、多くの期待を集めながら、あいにく病に倒れ、二か月余りで惜しくも退陣されたのであります。

 しかし、石橋先生が早くから「日本に不足しているのは資源ではなく知恵だ」と言って示された見識は、今なお私たちの胸に生き続けております。

 先程も申し上げましたように、私は政権担当以来、アセアン首脳会議出席のためマニラを訪問し、早稲田とはお馴染みのアキノ大統領などアジア各国の首脳と、また、ワシントンではレーガン大統領、力ナダのトロントではマルルーニー首相、最近はソウルを訪れ、新しく大統領に選ばれた虜泰愚{ノテウとルビ}氏と胸襟を開いて話をしてまいりました。

 これら一連の首脳外交を通じて私が基本としたことは、まさに「世界に貢献する日本」という姿勢であります。

 従来、外交というものは、ややもすると自らの立場を主張して、そして相手の国から何を獲得するかということに重点が置かれてきましたが、これからの首脳外交のあり方は、現実を見直し、時代の先行きを見通すことは当然のことながら、世界の平和と人類の発展に役立つためには、如何にすればよいか、という共通の認識に立って、お互いパートナーシップを発揮することが求められていると痛切に感じておる次第であります。

 いわば東西南北、異なる文明の調和を図ること「東西古今の文化のうしほ」この調和を図ることこそ最も重要なことだと確信するものであります。

 戦後の日本は、国民の皆様の大変なご努力により、数字の上では、すでに世界一の豊かさを誇るに至りました。しかし、本来豊かさというもの、あるいは幸せ感というものは、単に物の尺度だけで測るべきものではなく、もっと心の尺度というものを当ててこそ、真の豊かさを実感できるようになるのではないか。むしろ、これこそ政治の基本に置くべきものであり、この点において、日頃私か唱えております「ふるさと創生」の政治もまた、心の豊かさをめざす国づくりを示したものであることは申すまでもないことであります。

 二十一世紀を目前にして、もう一つ大事なことは、教育面の充実、改革であると思います。その点、早稲田出身の議員さんの中に、いわゆる「文教族」が多いことは、誠に心強い限りであります。

 教育の改革は、非常に困難な問題を含んでおりますが、今後一億国民が力を合わせて取り組まなければならない重要な課題であります。青少年がのびのびと個性を伸ばすことができる教育環境の整備、また長寿社会を迎えて一生学べる生涯学習の充実など政府としても全力を尽くしていきたいと考えております。

 一方、各大学におかれましては、それぞれの特色、独自性を発揮して、国際的にも開かれた大学として外国とも活発な交流を広げていただきたいと存じます。我が早稲田大学はその方向を示しておられます。

 平和への願い

 繰り返しますが、今日、私たちにとって最も尊いものは平和であります。

 昨年来、米ソ両国の間で核軍縮が一歩前進したことは、大いに歓迎すべきことでありますが、一方において深刻な地域的紛争が跡を絶たないことも確かな事実であります。私たちは、この現実もしっかりと見据えながら対処していくべきであろうと思います。

 唯一の核被爆国国民である私たちにとって、平和と軍縮は言うまでもなく永遠のテーマであります。しかも戦後日本の繁栄というものが、幸い四十年にわたって、この国土を戦争の惨禍にさらすことなく、ひたすら経済発展に邁進できたお蔭であるという事実も忘れてはならないと思うのであります。それだけに、友好国の協力のもと、平和の実りを享受し、体験してきた私たち日本国民こそ、人類永遠の理想である世界の平和をめざして、その先頭に立つべきではないかと考える次第であります。

 自分の国のことだけを考えればよいという時代は、すでに過ぎ去りました。また貿易摩擦にしろ、国内の経済構造転換にしても、何んらかの外圧があるから改めなければならないという時代もすでに終わりました。

 これからは、国際社会の中で私たちが果たさなければならない責務というものを、たとえある種の痛みを分かち合いながらも、それを当然のこととして実行していかなければならない時代を迎えたと思うのであります。

 いわば、自主的な態度で内政、外交を積極的に展開しようとする日本の姿勢を確立することに尽きますが、これはそのまま、小野梓先生が言われたように「国の独立は国民の独立に基づく」という精神と軌を一にするものであります。

 そして、この延長線上に、今日最大の懸案ともいうべき、具体的には「税制改革」などがあるわけでございます。今後、国民の皆様のご理解とご協力をいただきながら、ぜひとも公平で簡素、かつ国際的にも時代にマッチした税制を確立したいと念願する次第であります。私自身、自らのすべてを捧げてこれらの難問解決に当たる決意であります。

 新しい出発

 先日、私は学生時代に戻ったような新たな感激を味わうことができました。それは、十六年ぶりに日本一の栄光に輝いた早大ラグビー部の諸君が首相官邸に私を訪ねてきてくれたことであります。

 今でもスポーツの試合などで早稲田が勝つと心はずませるOBが多いのは、かつてスポーツ王国の名を欲しいままにした早稲田への郷愁が、いつまでも心の片隅にあるからだと思います。最近は、入学試験もきわめてむずかしくなり、スポーツ界全体のレベルも非常に高くなりました。それだけ関係の皆様のご苦労も多いことと存じますが、今後とも、学問と運動の両面で一層の充実を図られますよう皆様方と一緒に切望してやまないところであります。

 昔、入学式の時、初めて校歌「都の西北」を聞いた、あの感激は今も忘れることができません。私にとり、お互いにとり、まさに「心のふるさと」という言葉そのものであります。

 学問においても、スポーツにおいても最も大事なことは、常に建学の精神に立脚して私学の独自性を発揮すると共に、同じ理想をめざして、日に新たに、世のため人のために尽くすことではないかと確信するものであります。

 本日の大隈侯生誕百五十年の祝賀を一つの大きな節目として、新しい早稲田百年の第一歩が力強く踏み出されんことを心から願ってやまない次第でございます。

 ご清聴誠にありがとうございました。