データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 社会経済国民会議における竹下内閣総理大臣の挨拶

[場所] 
[年月日] 1988年3月24日
[出典] 竹下演説集,338−349頁.
[備考] 
[全文]

 ただいま、稲葉議長からご紹介を受けました。私は昨年の十一月六日に内閣総理大臣の指名を受けまして、まだ百四十日というホヤホヤでございます。先例もあるようでございますので、先輩の皆さま方の前でご挨拶をする機会をいただきましたことを大変光栄に感じておる次第であります。

 昭和四十八年十一月十二日に「国民会議のしるべ」と題しまして設立宣言が書かれております。ところが、この設立宣言を読んでみますと、今この宣言そのものがやはり不変、変わらざる価値を持っておるという感じが強くいたした次第であります。

 国民会議は労使、学識経験者、消費者団体など国民各界各層の代表により構成されている機関です。日本の経済社会が直面している多くの困難な課題を国民的コンセンサスをもって打開し、新しい成長と活力ある福祉社会を実現するのが国民会議の目的であります。

 そのように書かれ、また、このころから物の豊かさだけでなく、心の豊かさが論じられ、それがこれらの文章になっておるということを感じさせていただきました。そして、国民会議五原則を見ましても大体全部今にも当てはまることだな、という感を深くいたした次第であります。

 さて、施政方針演説をするわけでもございませんので、私なりに今日はどのようなお話をしていいか、若干戸惑ったわけでございます。

 高度経済成長への道

 私がいつも申し上げておりますのは、昭和二十年、一九四五年でございます。これで戦争が終わりまして、一九四〇年代後半はどんなものだったかなあ、と思ってみますとまさに食うに精一杯だったと思います。

 憲法が改正され、教育改革がなされ、さらにはある意味において、民主主義の根本的な大きなできことであった農地解放等がなされましたが、これはもとより占領下のできごとでありました。

 試みに昭和二十五年予算をちょっとひもといてみましたら、まだ全体の予算が六千六百十四億円の時、歳出の中に終戦処理費などがあり、一六・五パーセントを占めておる時代でもあったわけであります。ところが、一九五〇年、これは朝鮮動乱が一つのきっかけになったと思います。いわば、日本の前進の時代が始まっていくわけであります。

 したがって、四〇年代後半の国会の議論を読んでみますと、エンゲル係数…。すなわち食べるためにいくらお金を使っているかが国会議論の中心になっております。

 これは決して税制のPRのために申し上げるわけではございませんが、昭和二十三年に一つだけおもしろい予算委員会の速記緑がございます。取引高税を入れようという時でございます。時の野党の青年代議士が現原健三郎議長でありまして、答弁にお立ちになっていらっしゃいますのが、当時の労働大臣の加藤勘十先生でございます。

 これを読んでみますと、原さんが「取引高税というものは、百万長者も貧乏人も同じように税の負担をする。これは税の、いわば所得の再配分の思想に反する。大臣はいかに思うか」。大臣が答えて日く、「いや、それよりもやはり勤労所得の減税がより必要ではないか」。なんだか、攻守所を代えておるようなこともございました。言ってみれば、これは本当に食うに精一杯という時代であったな、という感じがいたすわけであります。

 一九五〇年代に入りました十年間の象徴的なものは、電気洗濯機、冷蔵庫、白黒テレビ等に象徴されますところの「三種の神器」が国民生活に入ってきた時代であると思われます。

 今日は中国の方もいらっしゃっているそうでございますが、昨年、私か上海にまいりまして、ちょうど冷蔵庫の普及率等をみましたら、大体日本の一九五〇年代後半ぐらいという感じがいたしておりました。いずれにせよ、前進の時代に入りますのが五〇年代ではなかったかなと思っております。

 私自身、昔英語の先生をしておりました。戦争中の学生でございましたから、英語が達者であろうはずはございません。したがって、校長先生にどの程度教えたらいいかということを聞きましたら、「この辺は田舎だから、DDTとPTAの区別だけははっきりわかるように」と、こういうことでございました。

 先日あるところでその話をいたしましたら、全然お笑いになりませんでした(笑)。というのは、なるほどDDTがなくなった以後にお生まれになった若い方々が対象であったからであります。

 したがって、前進の時代はやはりDDTのなくなる時代とも言えるのではなかろうかなと思います。

 かくして、一九六〇年代に入りますと、これはまさにけんらん豪華たる繁栄の時代とも言えるのではないかと思います。象徴的なのは、石油の値段が一ドル七十五セントから二ドル三十五セントの間で十二年間ぐらい経過をしております。その安い石油をジャブジャブ買いながら、ひた走りに走った高度経済成長への道、ということが言えるのではなかろうかと思うわけであります。

 その真ん中にありましたのが、一九六四年のオリンピック、これにすべて象徴されるのではなかろうかと思うわけでございます。オリンピックの時のいろいろな資料をみてみますと、まず昭和三十九年でございますが、「三種の神器」は大体終わりまして、そして新しく「三Cの時代」でございます。カー、クーラー、カラーテレビという時代でございます。

 国際通貨基金、すなわちIMFと世銀の総会が東京でございました。東海道新幹線が開業し、そして確かに貿易収支が継続的な黒字に転換したのもこの年でございます。どうしたことか、日本国有鉄道の単年度収支が赤字に転落したのが三十九年でございます。三十八年までは黒字であったというわけであります。そして、OECDに加盟をいたしまして、いわば先進国の仲間入りをしたということであります。

 したがって、一九六四年のオリンピックの年は、一つの期を画する偉大な時期であったと思うわけであります。

 ただ、翌年の昭和四十年になりますが、初めて二千億の公債発行を行うわけであります。昭和三十九年までは公債はまだ発行していなかったということが言えるわけであります。昭和四十年、戦後最大の不況と言われたときに公債発行が行われたわけでございます。この四十年は、一般会計の歳出はまだ三兆七千億でございます。

 その後十年間で、建設国債だけでございましたが九兆八千億ぐらいになりました。そして、昭和五十年から、いろいろな影響を受けて赤字公債の発行にはじめて踏み切りました。赤字公債発行が昭和六十五年予算で終わるような、先明かりが若干見えてまいりましたが、経済界のいろいろな推移がうかがえると今考えているところでございます。

 しかし、私はこういうことに興味を持っておりましたので、韓国で今年オリンピックが行われるというので、日本の一九六四年のオリンピック当時といろいろ比べてみました。

 GNPでみますと、日本の場合、当時は一人当たりにして八百二十一ドルでございます。四十一年に一千ドルになっております。インフレ率等の問題もございますので計算が難しいわけでございますけれど、当時のアメリ力の大体二四パーセント、四分の一程度であった。韓国の場合を今日アメリカを一万七千ドルぐらいで計算しますと、二千二百八十八ドルでございますから一三パーセント程度です。

 だから、あの時の日本よりは、ちょっとまだ格差があるにしましても、今のNICs諸国の経済の伸び等からしまして、やはりこのことが国民全体をエンカレッジすることになったら、相当な経済躍進の一つの契機になるのではないかとみておるところでございます。

 いっペん大阪で昭和三十九年の話をしておりました時に、「いや三十九年でもう一つあなたは忘れていることがある」「なんですか」と聞いたら、「阪神タイガースが優勝した年だ」というお話がございました。そこまでは私の統計学の資料にもなかったわけでございます。

 「七六、五抜きの四三二一」

 さて、けんらん豪華たる繁栄の時代という経過をたどった一九六〇年代から、今度は七〇年代に入ってくるわけであります。まさに、当会議が結成されるような状態になったときでございます。

 七〇年代は振り返ってみますとこれは名付けようのない、「不確実性の時代」ということばがあったわけでございます。一番最初起きたのが一九七一年、すなわち昭和四十六年のドルショックではなかったかと思うのであります。

 私はちょうど佐藤内閣の内閣官房長官をいたしておりました。当時ニクソン大統領からご連絡がありまして、「ドルの兌換性はこれを停止する」ということでございました。

 私自身何のことか、いきなり新聞記者会見をいたしても答える能力を持っておりませんでした。東京銀行の柏木さんが当時大蔵省の顧問でございましたので、いろいろ外国へ電報を打っていただいたりしながら、その時々の新聞記者会見等にも間に合わせておりました。思いのほか質問は国会でも新聞記者会見でも少なかったわけでございます。答える私もわからないが、聞くほうもわからなかったのではなかろうかと思っております。

 ある国会の長老が「君はしきりに円高になると言うが、いつになったら千円になるか、そのときだけはちゃんと教えてくれ」ということをいわれましたので、そういう時代からみれば隔世の感がございます。

 そういう混乱の時代の後、当会議ができます七三年当時、いわゆる狂乱物価、第一次石油ショックということになっていくわけであります。

 その際、他の国々よりも早く石油ショックなりドルショックなりを卒業していったのは、もとより今日お集まりの皆さん方のご努力でありますが、いま一つは公債を発行できる能力があったとも言えるのではなかろうかと思います。すなわち、日本人の貯蓄力が、公債発行を支え得たということが言えるのではなかろうかと思うわけであります。したがって、他の国よりも早めに脱却することができました。

 そうして一九八〇年代にいたりますと、国際国家ということが感じられるようになってくるわけであります。

 したがって、そのころ私自身が作業いたしましたものの一つに、経済計画がございました。それを作りました際、一番やさしい表現で説明することができないかと思いまして、わが国の経済見通しは「七六、五抜きの四三二一」だと言っておりました。

 すなわち、六ないし七パーセントの名目成長率、五がなくて四パーセントの実質成長率、三パーセントの消費者物価、二パーセントの失業率、一パーセントの消費者物価。得意げにそれを外国で話しましたら、通訳が困ってしまいまして「セブン・シックス・フォー・スリー・ツゥー・ワン、ウイズ・アウト・ファイブ」、これではちょっとユーモアな表現にはならなかったな、という反省もいたしております。

 しかし、今、新しい経済計画を練るに先だちまして、八〇年代に入ってからいろいろやってみますと、名目成長率七、六はもちろんありませんが、名目成長率と実質成長率が非常に近くなっている。すなわち、消費者物価の上昇率が一で、失業率二が二・七とか三のほうへ振れたかたちになって、そして卸売物価は一がゼロという感じです。円高と原油価格の値下がりが念頭になかったということになります。経済が進んでいく間に構造調整という問題が当然のこととして出てきて、今日にいたっておるわけでございます。

 構造調整を数字でみてみますと、石炭鉱業の一千万トン体制への移行、造船の八七年度設備の二〇パーセント程度の削減とか、あるいは高炉六社が従業員数八七年三月の約十四万人を九一年三月末に十万人体制にするとかを行うと同時に、新分野への進出とか多角的努力というようなものがありました。

 私は構造調整が外国からみた場合、日本はまあまあ比較的順調にやっておるな、という見方をしておるのではなかろうかと思うわけであります。

 しかし、一方私自身が昭和六十年九月二十二日のG5の参加者でございます。あの後を考えてみますと、新潟県の燕市の洋食器、あるいは愛知県瀬戸市の陶磁器とか、重厚長大のみでなくそうした点が現れました。そして炭鉱の閉山とか、あるいは造船所の倒産でありますとか、いろいろなかたちで影響が出てきておることは事実であります。

 したがって、今年度予算で「サチコ予算」と言っておりました。いわゆる産業別、地域別、それから高齢者雇用のサ・チ・コ。こういうように労働省のほうで呼んでいらっしゃったわけでございます。

 私自身も最近の数字を見ながら、地域別をつくづくと感じました一例だけを申し上げます。都道府県別の有効求人倍率を見てみましたら、一月の全国平均で実に全体が〇・八六。まさに有史以来でございます。

 そういう点は、非常によかったな、と思いながら都道府県別に見てみますと、実に栃木県は一・七八でございます。その他香川県が一・七七、一・六三の静岡とか、一・五一の群馬とか、一・五〇の山梨とか、一・三八の茨城とかずっとあるわけでございます。北海道が〇・一七でございます。これは季節調整しますと〇・三六ぐらいになる。これは単月のもので、ちょうど一月は雪の時期でございます。それにいたしましても、地域格差が構造調整の中に出た大きな数字でも実態が見えるな、ということを感じておる次第でございます。

 いろいろなことを申してみましても、自分の国だけでよかったという時代もかつてございました。しかし、今やアメリカと日本を合わせますならば、まさに世界のGNPの三分の一以上ということになります。果たさなければならない国際社会への役割は、ますます大きくなってくると思います。

 特に、米国の圧倒的経済力に支えられてきた従来の国際経済の枠組みが大きく変化して、米欧と共にわが国が世界のリーダーとしての自覚のもとに果たしていかなければならないと考えておるところであります。

 そういうことからいたしまして、今度の六月に行われますトロント・サミットというものを今勉強をいたしてみております。おそらくマクロ経済の問題については、今までと大きく変化した申し合わせがあるとは思えません。

 私はわずかの間にASEANを訪問したり、米国、カナダを訪問したり、韓国も訪問しましたが、これらの国々を訪問して感じるのは、一つは債務累積問題でございます。

 必要な経済政策協調

 これも多くは省略いたしますが、一番端的に「なるほど」と思うのは、ちょうど円借款の返済期がくるわけでございます。返済期のくるASEAN諸国の中には三百六十円計算の時代でもって、円をドルに換えてさらに現地通貨に換えて使ったものが、今度は元本を返しますのに倍以上返さなければいけない。何のための低利であったのか。計算できないような状態のところができてきております。

 これはサミット参加国の中でも日本が一番感じる問題でしょう。債務累積対策についていろいろな知恵を出してみておりますが、新たにそういう問題が為替レートの調整の中で起こってきた。返す側にとっては大変なことだと思います。

 日本は新幹線等のときにお借りしました世界銀行の借入金が一億ドル残っておりました。今は八千万ドルぐらいが残っております。これなどを返す時としては今は大変いい状態にあります。私が繰り上げ償還しようかとかつて言いましたら、世銀の総裁が「いや、日本という優良会社に優良債権があるから、これがあることによって、日本でまた資本調達ができるので、当分借りっぱなしにしておいてもらいたい」という陳情を逆に受けたことがございます。

 その逆の現象が債務累積問題の中にまた出てくる課題ではなかろうかな、と思うわけであります。

 それから、日米首脳会談のことに簡単に触れてみたいと思います。いろいろなお話は別といたしまして、経済政策の協調は、今は口だけでなく、為替調整は基本的には彼我のファンダメンタルズを正確に反映するためには、やはり政策調整が必要だという共通認識は先進国間で強まっていると感じました。

 それがゆえに、米国におかれましても、財政赤字削減のために種々な努力をしておられる。日本に対する責務といたしましては、内外共に内需の伸びということが言われておるわけであります。それによって、貿易黒字の縮小。昭和四十年までは赤字でありましたが、その後ずっと続いてきました貿易黒字の問題でございます。

 この問題につきましては、内需の予算は幸いにご協力を賜りまして、行政改革の一つの目玉として出してきました電電公社の民営に伴う株式の売り払い代金の活用によりまして、公共事業等当初予算で二〇パーセントぐらい増しの予算が組めました。一方、赤字公債を若干減らすことができて、数字の上では六十五年度赤字公債依存体質からの脱却も夢ではないというところにきました。

 別にそれを誇らしげに言う必要はないと思っていますが、内需の要請に応えつつも財政改革路線を形の上で堅持してきたということが一応言えるのではなかろうかな、と思っておるところであります。

 そういうことからいろいろな問題が出てくるわけでございます。これからもさらにお願いしなければならない、いわゆる国内における産業構造調整の推進と、それから個別対外摩擦の解決。製品輸入の拡大、これも数字の上では出てまいっております。それから、海外直接投資の円滑化等による国際分業体制の問題とか、こういう課題があるのではなかろうかと思う次第であります。

 私、このことに関しては大変皆さん方にご迷惑をおかけいたしておりますが、もとより時に痛みを伴う問題でございます。産業構造調整は一生懸命やっていかなければならないし、今日までのご努力に対して心から敬意を申し上げる次第でございます。

 個別摩擦対策の問題でございますが、この市場開放問題も含めまして、今、牛肉、オレンジ問題、それから、きょう小沢内閣官房副長官が出発いたしましたが、公共事業の市場参入問題等がございますけれど、ちょうど今微妙な段階でございますので、これについて触れることは差し控えさせていただきたいと思っております。

 資金還流等の促進についてもASEAN等に二十億ドルを上回る計画をもったわけでございます。ASEAN諸国と申しましても一億六千万を超すインドネシアもありますれば、三十四万ぐらいなプルネイもございます。一人当たり所得にいたしますと、二万ドルの国もあれば、二百ドルの国もある。

 ある意味ではバラエティに富んでおりますので、どういうかたちのものが最も効果的な資金還流になり、その国の向上に役立っていくかということについては、これからも皆さん方のお力をお借りしながらきめの細かい、現実に生きていく経済協力というものをやっていかなければならないと考えております。

 ハンバーガー本位制?

 ただ、私は今日はたまたま私と同年である宇佐美さんがお見えになっておりますが、いっペん議論をしたことがあります。それは私は世銀の借金のことなどが頭にあるものですから、「日本はやはり金利のついた金を借りたから一生懸命になって働いた。したがって、無償というよりもそういうのが本来のその国をエンカレッジするために役立つのだ」という一つの考え方を持っておりました。

 しかし、その考え方は全部われわれの振り返っての過去と同じように律していくのは、難しい問題であると思っております。

 したがって、私も宇佐美さんからそういう話を聞かされながら、海外経済協力、なかんずくODAの問題の整理をしなければいけませんので、いろいろ自分の心の中の整理のためにも数字を調べてみました。

 今、国会議員をみますと衆議院でございますが、五百十二名の中で、明治生まれの方が二十八名いらっしゃいます。それから昭和二十年八月十五日以後生まれの方が二十四名いらっしゃいます。そうすると、少なくとも国会議員の中の〇・五パーセントの方は、ガリオア、エロア、ユニセフの粉ミルクで今は七十キロ、八十キロの体重をしておるんだな。ガリオア、エロア、粉ミルク。それに六千人を越しますフルブライトの留学生。これは日本に大きな頭脳の援助をしてくれたと思うのであります。

 これはちょっと足してみますと、正確に計算しておりませんけれど、約十九億ドルぐらいになるわけであります。これを今の単価にすると相当のものだな。それの無償がなんぼか、返したのがなんぼかという計算までは、今日は実は間に合いませんでした。我々もそういう時代があったことを考えれば、ODAの質の問題については、私は宇佐美発言に屈伏する論理は十分にあるということを最近発見をいたした次第であります。

 そういうことで、今日まできておるわけであります。内需主導のもう一つ国内的にみた場合、数字の上で、たしか一ドル、百五十六円を超しましたときに、単純にアメリ力の一人当たり所得を超したと言ってみましたが、物質的な豊かさのほかの心の豊さというものが欠けておる。ここに一つの政治の重点を志向しなければならんというのが、詳細は省略いたしますが、私の「ふるさと創生」の目標も実はそこにあるわけでございます。

 と同時にいま一つ調べてみますと、物の豊さの中でも、単純な為替レートの計算はだれでもできますが、いろいろ経済審議会等でも勉強してもらったりしておりますが、いわゆる購買力平価の問題も分析してみなければならないではなかろうかなあ、と思ったわけであります。

 いろいろな計算があります。私は世界に共通する物の値段で何がいいのだろうかと思いました。一つは盲腸の手術は各国でどのくらい医療費がかかるか。盲腸は大体どこの国にもあって、どこの国でも手術がやれるだろうということを考えたり、農産物の中で面積を必要としないものと言えば卵でございます。日本で一番値段が上がっていないものは卵ですから、卵の値段で購買力平価を測ってみたらどうかなと言ってみました。これもなかなか難しいようでございます。

 最近一つ出た問題としまして、マクドナルドのハンバーガーが世界四十一か国で売られております。大体そこの国のものを使って、同じキログラムで商品を提供するわけですから、これを基準にやってみたらいいのではないかなと思いました。これはハンバーガーでございますから、肉質が多いわけでございますので、ちょっとこれでは購買力平価が日本の場合少し高すぎるようになるのではないかなという感じもいたします。

 昔、金本位制がありましたけれど、これからはハンバーガー本位制というようなことも勉強してみたらどうかなあ。冗談を言って申しわけありませんが、当面の勉強課題を披露したような形になってまいりました。

 大変饒舌に過ぎまして基本的なお話を申し上げる時間に事欠いたわけでございますが、どうぞこの会の始まったときの趣旨、それはそのまま今日にまた通用するご趣旨でもございます。

 これからも各方面の意見を集約して、私どもに対して政策の助言、あるいは鞭撻を賜れば幸いこれにすぐるものはありません。以上で私のお話を終わらせていただきます。

 ご清聴ありがとうございました。