データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 青年経済人東京会議式典における竹下内閣総理大臣の挨拶

[場所] 
[年月日] 1988年7月23日
[出典] 竹下演説集,362−376頁.
[備考] 
[全文]

 記念講演にお招きいただきましたことを、心からお礼を申し上げます。何回かこの会合には参加いたしたことがございますが、内閣総理大臣としてはもとより初めてのことでございます。昨年の十一月六日に内閣総理大臣に指名をいただきましてから、今日が二百六十一日目になります。したがって、戦後短い内閣として私の大学の先輩であります石橋湛山先生の六十五日の記録は更新した訳でございますけれども、これから一日、一日を大事に皆さん方と一緒に歩みたいと、このように考えておるところでございます。

 当面の政治問題

 さて、当面の政治問題についてお話をして、幾ばくか皆様方がその地域にあってそれぞれの活動をなさるに当たって、利することがあるとすれば幸い、これにすぐるものはありません。

 振り返って見ますと、私自身も戦後直ちに青年運動に身を投じた訳でございますが、当時はまだ日本青年会議所は設立以前の状態でありました。言ってみれば、その地域にたまたま住んでおる学歴、職業、すべて違っても、おおよそ同じ年代にあるということだけで、網羅的、羅列的、地域青年運動というものが発生してきた訳であります。

 そして、それがインタレストグループとなりまして、あるいは4Hクラブとか、あるいはそれぞれの同好会とか、こういう姿で、それぞれの分野で発展してまいりましたが、JCが出来ましてから、これが新しいその地域活動の活力として、それぞれの地方で活発な仕事をやってまいるようになって、今日に至った訳であります。

 したがって、当時のJCの皆さん方も、既に六十歳あるいは七十歳、ぼちぼちJCの出身者が勲一等になるようなほどにお年をお召しになった訳でありますが、それだけの長い伝統というものが、今日この盛会につながったというふうに考えるものであります。

 さて、私が内閣を組織いたしまして、まず内政問題で、これをどのように国会の中で議論を持ち込むべきかということで、出来るものが、いわゆる衆・参両院における土地対策特別委員会でありました。なかなか決め手のある問題でございませんけれども、その特別委員会でいろいろな角度から、政党、党派を超越しながら議論が交わされて、それが土地対策というものをお互いが関心を持ち、お互いそこに施策が及んでいくための環境を整備することには幾ばくか役に立ったではなかろうか、このように考えるものであります。

 さて、その後私はASEAN首脳会議に参りました。この首脳会議は、十年前、当時の福田内閣総理大臣が、ASEANの域外国として我が国のみが招待されたとき、心と心という表現をなされたのが、ASEAN首脳会議の一つの伝統的な言葉として定着をしておる訳であります。

 ASEANに参りまして、十年前はもとより、今日大変我が国に対する期待感の大きさというものをしみじみと感じました。私は治安関係についていささか心配する向きもござし{前1文字ママ}ましたけれども、やはりその国に行ったならば、その国の治安当局に委ねるべきだ、こういう考えで、いわば丸腰で参った訳でありますが、そのことがまた大変好評な面もございました。これからの長いASEANとの友好関係のために、小さいことでございますが、幾ばくか役立ったとすれば幸いであると思うのであります。

 さて、昨年末予算編成が行われた訳であります。私は長い間大蔵大臣を務めさせていただいておりました。しかし、長いと言いましても、これまた戦後大蔵大臣の在任期間といたしましては、池田勇人先生に十一日間残念ながら及ぶことが出来なかった訳であります。しかしその間、言ってみれば行財政路線というものをひたすら突っ走って参りました。皆さん方にあるいは痛みを分かち合ってもらったり、また地方自治体の皆さん方にもいろいろご協力をいただきながら進めてまいりました。

 しかし、結論からして、あの行財政改革というものが始まった当時の政策そのものを今日実行しておったといたしますならば、今よりおおむね十三兆一千億ほどよけいかかっておったという計算が出てくる訳であります。

 しかし、国民の皆さん方の協力によりまして、何としても一方また行政改革が進められてまいりました。行政改革とは天の声であると、こういう背景に支えられまして、今年度予算編成に当たっては、正にそれの生み出した果実ともいうべき、いわゆるNTT株等の売却代金を予算編成に活用することが出来た訳であります。

 一方、皆さん方のこれまたお陰で、自然増収も多くありました。私は大蔵大臣時代に、自然増収についてよく一%は誤差のうち、こういうことを申しておったのであります。おおむねその範囲内に、税収見積りと決算が狂わないように考えてみましたけれども、昭和五十九年、例えば焼酎ブームというようなときに、先ずこの見積りが大変狂ったような経験もいたしておりますが、今次は幸いにして、大変な歳入見積り違いでございますけれども、これが上の方へ違った訳でございますから、そういうことに恵まれて、結局、昭和六十五年赤字公債依存体質からの脱却と、そして内外の要請に応えた、いわゆる内需指導型の予算編成というものを両立させ得たということは、大変国民の皆様方に感謝すべきであると思っておる次第であります。

 さて、その後、隣国、韓国におきまして、初めて平和的手段によって、盧泰愚大統領が誕生した。その祝賀会にまいりました。普通の人、普通の人というお言葉でありました。

 しかし、ふと私考えてみましたら、普通の人と言っても、盧泰愚大統領は陸軍大将でありますし、私は帝国陸軍、最末期の陸軍少尉でございますから、私の方がもっと普通の人ではないかなあと、こういうことを申しましたところ、昔からあの国に高等普通学校という学校があったそうでございます。したがって、言ってみれば高等普通の人というところなのかなと、こういうことで友好を結んでまいりました。

 先般韓国における国会選挙がございましたが、盧泰愚大統領の口から率直に、必ずしも与党が過半数を取るに至らなかったけれども、これこそ正に民主化への試練であると、この言葉は良しと私は感じた次第であります。

 さて、その後米国、カナダを訪問をいたしました。米国におきましては、友好関係の個人的関係を確立することはもとよりのことでありますが、私が特に主張したかったのは、これだけの大きな関係にありますならば、当然のこととしていろいろな摩擦は出てくるものであります。しかし、それらは日本がけしからぬ、アメリ力がけしからぬ、そういうことではなくて、双方の共同作業でこれを解決すべきであるということの確認でありました。特に、そのとき申しました一つ公共事業への参入問題、二つ目に科学技術協定、三つ目に牛肉・かんきつ問題。これらが最近解決しておりますことはよかったなあと感じておるところであります。

 カナダは当然のこと、今年度のサミット開催国でございましたので、これに表敬をいたしました。

 私としてはサミットには今年を含めまして六回参加しております。しかし、過去五回は、もとより大蔵大臣としてでございますので、したがって首脳としては初めてのサミットでございますから、個人的関係の確立という意味において、私自身日程を選びまして、二回に分けて国連特別総会をもその間にはさみヨーロッパを訪問した次第であります。

 私は、こうした一連の外交の終わりとして、先般オーストラリアを訪問いたしました。オーストラリア二百周年という記念すべきときであります。と同時に、アジアにおける言わば有力なる先進国であり、友好国であります。しかし、この訪問は私なりに、やっぱり時差のないところは楽だなという感じを深くいたしました。地図をごらんになれば、正に真っ直ぐ下へ下りればいい訳でございますから、だから十年前、まだ私の県に飛行場がないときは、夜行列車で帰ったものでございますが、ちょうど夜行列車に乗って帰ったと同じように、夜行でこちらへ帰ってまいりました。

 世界に貢献する日本

 この一年で七回の外国訪問の機会をとらえ、私なりに世界に貢献する日本ということを打ち出すために三つのことを申し上げてきた訳であります。一つは、ロンドンで打ち出しました文化交流の問題であります。二つ目には、国連総会の際打ち出しました、平和への協力の問題であります。そして、サミットの際に打ち出しました、いわゆる経済協力ODAの拡充強化の問題であります。

 まず、文化交流から申してみましても、私どもの言わば同僚、そしてあるいは十年下ぐらいまでの世代、これは例をフルブライトの留学生にとってみますと、六千人の諸君がフルブライトの留学生として、当時アメリ力へ渡っております。今、日本でも二万三千人の外国からの留学生がいらっしゃいます。中曽根前総理が、何としても二十一世紀には十万人の留学生を受け入れるだけのことはしなきゃならぬ。そこでこれらに対して、皆さん方の関係者にもご協力をいただいて、もちろん国費留学生の数を増やしていくのも結構であります。

 しかし、私費留学生の方などは、言ってみれば大企業の独身寮等で、我が国の若い方々と一緒に生活する中で、本当に留学の成果というものが、正にその後における日本とその国との友好関係の大きなはずみになるような結果をもたらしていかなければならないということであります。

 そしてまた、私はZ計画と申しておりますが、例えばイギリスから大学を卒業した皆さん方を日本へお呼びいたしまして、おおむね二年間程度、外人さんたちにも日本語に習熟してもらうと同時に、日本の高等学校へ英語の先生として働いていただいておる制度を一層活用して、ドイツ語、フランス語等にも、これを広げていかなければならないと思っておるところであります。

 さらには、私は日中友好十周年を記念して、この八月末中国へ参りますが、敦煌へ参ることにいたしました。敦煌なんて言わなければよかったなと、随分そのことで中国の政府当局に、まだ大型ジェット機が入らないがゆえに、いろんな特別機を用意してもらうとかご迷惑をかけたなと思っておりますが、これはシルクロードを通じて、東西文化というものが融合して、そして日本には日本の独特の文化というものが今日立派に成長するに至っておるということを考えますときに、そうした遺跡保存等、あらゆる文化面における協力を積極的に行っていかなければならないということが、文化交流面における協力の一つであります。

 二番目の平和への協力という問題でございますが、この問題は何としましても、例えばペルシャ湾の問題一つ考えましても、先日ペルシャ湾から油を運んでいただいておる船員の皆様方ご夫妻を私は慰労いたしました。本当に掃海艇を出してほしいと言われても、我が国の憲法諸制度の問題から、それに応ずることは出来ません。

 したがって、軍事面ではなくして、国際連合を中心とする、あらゆる平和面への資金的な協力をいたすのはもとよりのこと、あるいは交通、医療等、人の面をも含めた協力を行っていくということを明らかにいたしておるのであります。アフガン問題、そしていい方向が見えてまいりましたイラン・イラク問題等、我が国がそうした戦後復興に果たさなければならない役割というものの重大性を痛感いたしておる訳であります。

 三番目は、経済協力の問題でございます。五百億ドル以上、これからの五年間にいたしましょう、こういうことでございます。私は、先日古い書類に目を通してみました。皆さん方はご記憶には必ずしもなかろうと思いますが、少なくとも昭和二十年、二十一年から二十六年ぐらいの間、いわゆるガリオア・エロア基金というものがありました。そのガリオア・エロアによって留学生を受け入れてもらったり、そして皆さん方の幼少時における粉ミルク等は、ガリオア・エロアの援助物資であった訳であります。

 今でこそ、世界最大の援助国とも言われ、世界最大の債権国とも言われます。そのガリオア・エロアの計算をしてみましたら、実にそれが十五億ドルになる訳であります。これは昭和二十一年から二十六年までの五か年間で十五億ドルといたしましても、その十五億ドルというのは、当時の我が国のGNPの言ってみれば四パーセントに当たるものであります。そうすると、それを今の我が国のGNPに当てはめてみたならば、十五兆円程度五年間援助を受けておったということになる訳であります。

 皆さん方の同僚も既に国会にいらっしゃいます。今、衆議院が五百十二名、明治生まれの人は二十八名いらっしゃいます。昭和二十年八月十五日以後生まれられた方が、既に二十四名を数えております。大体明治と戦後がとんとん、こういうことであります。戦後生まれの諸君を見ますと、私は六十三キロしかありませんが、大体七十キロ、八十キロの堂々たる体格であります。ああ、この人たちこそ、正にガリオア・エロアの粉ミルクで育った人だな、こう思っておりますが、その人たちはガリオア・エロアの粉ミルクよりもむしろ成長してから、いわば給食ミルクに対して余りいい感じでなかったというところの印象が、あるいは強いかもしらん。しかし、そうした正に被援助国であった時代を想起しなければならないと思います。

 これもまた、余り知られておりませんが、まだ世界銀行に一億一千万ドルほど借金が残っております。私が大蔵大臣のときに、当時のクローセン世銀総裁に、返しましょうか、こう申しました。それは、三百六十円のときに借りたものでございますから、今返せば大変楽に返せるということになる訳でございますが、そのときクローセンさんが、いや日本という最大優良企業に金を貸しているというのが世界銀行の偉大なる誇りであるから、まだ当分返さないでくれと、こういうお話でありました。変わりも変わったものだと思います。

 あの世銀融資というものがあったから、当時の池田大蔵大臣が一生懸命アメリカへ行ってらっしゃる。今日は課長にさえ会えなかったといった時代もあったそうでございます。それによって新幹線が出来、東名・名神高速道路が出来、製鉄所が出来、発電所が出来、黒四ダム等が出来ておる訳であります。

 したがって、私どもはそうしたことにも思いをいたしたときに、当然のこととして、これは我が国が国際社会に果たさなければならない役割、これを痛感しなければならないと思うのであります。

 さて、そういう国際国家としての世界に貢献する三つの方途について申し述べ、これからこれを正に具体化していかなければならないわけであります。私どもがそれだけの国際協力がやれるようになったことこそ、決しておごってはなりませんが、同時に、そういうことにまで、みんなが協力して、日本人の勤勉さというものと叡智というものが、かくあらしめたりということを思うときに、やはり先輩の皆さん方に感謝をしなければならないと私はいつも自分に言い聞かせておるところであります。

 税制改革への決意

 そこで一連の外遊計画を終えまして、いよいよ内政のシーズンあるいは税制国会をやり遂げなければならない臨時国会の召集ということになりました。

 今、国会は開会式は行われましたが、必ずしも順調に審議が進んでおるとは申せません。国会とは審議をする場であります。しかし、私は今、行政府の長たる立場にありますので、国会運営そのものに対してコメントをしようとは思いません。いずれ六十三年度所得減税を皮切りに、税制改革への議論が深まっていくことを確信をいたしておるものであります。

 税制そのものを振り返ってみますと、昭和五十四年、当時も私は大蔵大臣でありましたが、大平内閣の当時であります。いわゆる一般消費税(仮称)というものが、国民の理解と協力を得るに至らなかったという結論が出ました。

 そこで、各党の税関係の専門家の皆様方がお寄りになって、いわゆる財政再建に関する決議というものをお作りになった訳であります。この文言は、国民福祉充実のためには安定した財源が必要である。しかしながら、いわゆる一般消費税(仮称)は、その仕組み、構造等について、国民の理解を得るに至らなかった。よって、財政再建はその手法によらず、まず行政改革を行い、歳出の節減、合理化を行い、更には税制の抜本改正を行って、これに当たるべきであるという決議であります。今、その道をたどってきて、正に十年というときを迎えるに至りました。

 そしてまた、その間いろんな苦労をしながら、昨年の国会においていわゆる売上税というものが廃案になってきた訳であります。しかし、私はこの昭和五十四年以来、いろいろ議論をしてきた税制改革というものによって、やはり今の税制そのものを改革する必要があるということは、国民の皆様方のコンセンサスになったのではなかろうかと思っております。

 この問題について、私自身コロンビア大学の関係者の一人でございますが、シャウプ博士というコロンビア大学の若い先生、と申しましても私が二十数歳のときの四十ぐらいの先生でございますから、既に八十歳でございますが、いわゆるシャウプ税制ということが今日まで続いておる訳であります。なるほどシャウプ税制を見ましても、当初は大体直接税と間接税の比率と言えば、間接税の五十五、直接税の四十五、それから五分五分になり、六分四分になり、そして七分三分になり、こうずっと変化をしております。

 もとより総合課税主義であり、そしてシャウプ勧告の本文そのものは、所得税中心主義的な税制でありますが、まあ最初のころは、言わば所得税を納める人の数が大変少ない貧しい時代であったからということも言えるでありましょう。そして間接税というものは、おおざっぱに言って酒、たばこに限られておりました。それが諸々の今度は物品税によって、今、食管というものの状態が出現をいたしておる訳であります。

 そこで、これからの高齢化社会ということを考えれば、やはり広く薄くそういう時代に備えていくという必要性を否定する者はおりません。これをもし現行税制そのままで行きますならば、全く言わば税制そのものが所得税に偏っている。言ってみれば、特定の稼得能力のある者がすべての高齢化社会における社会保障等もすべて賄っていかなければならないという重圧感というものを受けるということは、これは計算するまでもないことであります。

 私は、今度の税制論議に当たりまして考えております。税というものは、結局は絶対というものはないと思います。しかし、少なくともシャワプ勧告に基づいて四十年間続いたこの税制を改革し、二十一世紀に向かって、なるほどと大多数の国民の皆様方に承知していただけるような税体系を構築しなければならないと思っておるのであります。

 間接税の持つ懸念というものは確かにございます。私は、先般の国会で、間接税の持つ六つの懸念というものを発表いたしました。

 一つは、いわゆる所得税を払わない方々にとっては、正に間接税、消費税そのものが増税ではないかという議論であります。これに対しては、税だけでそれに対応する訳にはいかない。例えば、予算歳出の中において、場合によっては生活保護水準等が年々上がっておりますが、そうした歳出、社会保障、福祉政策の中でカバーすべきものであろうと申しております。

 二番目は、若いサラリーマンにとっては増税になるのではないか、という懸念であります。元来税というものは、生涯のライフサイクルの下に立って構築されるべきであるという意見もございます。すなわち独身で、個々にお母さんを扶養している方がいらっしゃる、そういう個別の問題は別として、独身者がたまたま扶養家族もなければ、ある時期ある種の税を納め、そして伴侶を求め、子供さんが出来て、そしてそのときにはまた控除額等によって、税の重圧が減っていって、そして最後に言わば物を生産しない、消費するだけの我々も次第にいずれ高齢化したら入っていかなきゃならぬ、その際における長いライフサイクルの中に税制というものは構築すべきであるという議論は、確かに正しい議論でありますが、しかし当面、比較的独身層の低所得のサラリーマンの皆様方に対しては、課税最低限を引き上げるというようなことで、この懸念も中和出来るものと思っております。

 三番目は、大体中堅層に対して、すなわち、ちょうど子供が学校に行くようになったりする出費の最も多い時期に対する減税の効果が余計に及ぶべきではないか。中堅層は一体どうなるんだという懸念であります、これに対しましては、私は大蔵大臣当時、教育減税ということについて、いつもいろんな疑問を感じておったことがございました。

 と申しますのは、今や正に九四・五パーセントの方が高等学校へ行っておるにいたしましても、たまたま中学校だけで働いていらして、九十数万円の年収で、ちゃんとわずかでも所得税を納めていらっしゃる、そういう人から見れば、おれより出来の悪いあのうちのおやじさんが何で教育減税の恩典に浴するんだろうかという、いささかの矛盾も感ずるだろう。

 したがって教育の問題は、これは税制でやるべきものではなくて、歳出でやるべきものだということを主張してまいりました。

 しかし、やっぱりいろいろ知恵があるものでございます。今度の税制改正は、いろいろご議論いただいて、結局十六歳から二十二歳の扶養家族の場合には、これを割増し控除をするという制度であります。ちょうど高等学校から大学卒業される間の年齢の扶養控除の割増しということは、教育的な臭いも十分感じ取ることが出来ますし、また私は余り教育というと、浪人しておった期間はどうなるのかとか、いろいろな議論も出るでございましょうが、十六歳から二十二歳というのはなるほどなと、ちょうど育ち盛りだから…。そうしたらある人が、ははあ、これは教育減税ではなく、大飯食らい減税でございますかと、こんなお話もございましたが、これらが中堅層に対する消費税のほかの税、すなわち所得税の税率構造の中にこれを中和していくという方法と相成った訳であります。

 さらに四つ目の懸念は、インフレになるんじゃないか、こういうことでございます。しかし、今ほどインフレなき持続的成長をしている国は世界にないほどの今日であります。それのみでなく、この転嫁は一回限りであるという原則を見極めなければなりません。それもいろいろな非課税品目等を計算しますと、まあ一・一パーセントぐらいが消費者物価の上昇につながるのかなあと思います。

 さらには、いっべん消費税を入れると、簡単に今度はどんどん税率が上げられるんじゃないか。これだけ苦心して今考えておる問題、そんなに国会で税率引き上げなどというものが容易に出来るものではありません。

 もっともヨーロッパの歴史を見れば、絶えず上げるときには、所得税を減税しながら上げていったという傾向、それにも注意を払いながら、やはりこの問題について安易なる税率の引き上げ等が考えられてはなりません。

 さらに、今度は消費者というよりも、納税を代ってしていただく、すなわち皆さんの多くがそういう関係者であろうかと思います。これらの皆さん方から見れば、何だか大変に面倒くさくなるんじゃないか。確かに理論としては、ヨーロッパのインボイス方式というのが、より合理性が高いという議論もありますが、これには簡易納税制度等をもって応えていこう。

 そういうふうに六つの懸念に対して、それぞれこれから国会の場を通じて、議論していかなければならない課題であります。

 さらに今一つ、これから議論しなきゃならない問題は、あるいは今最も議論されておる問題は、第七の懸念とでも申しましょうか、いわゆる転嫁が出来るだろうかという問題意識であります。これに対して、独禁法等の運用、あるいは法改正、そしてまたそれとは別の便乗値上げがないようにとか、そうした施策に対しては、正に今後の国会の議論を通じながら、国民の皆様方に明らかにしていきたいというふうに思う訳であります。

 私は、これから税制論議をするに当たりましては、自らに言い聞かせておるのは、感情や感傷でもって、これを議論してはならないということであります。あくまでも二十一世紀、あえて二十一世紀と申しますのは、私は大正十三年生まれであります。いわば大正二けたであります。政治家という生活の中で、私が身をもって感じましたのは、明治と大正一けた生まれというのは、これは大変稀有壮大でございます。

 何としても、あるいはアダム・スミスの『国富論』であったかもしらん、あるいは五大強国、三大強国、言ってみればやっぱり世界の中で冠たる日本としての気宇広大な素地の中に自らが生き抜かれて来た方が、明治、大正一けたの人であろうと思います。ところが、大正二けたの私、今日のパンフレットを見せていただきますと、明日は、安倍幹事長同じく大正十三年、渡辺政調会長大正十二年、同じような世代の者が皆さん方にご挨拶する計画になっておりますが、どうしてもこの二けたというのは、戦前をある程度子供心に知り、戦中を知り、そしてお互いみんな最後戦死に至らざる年齢になって兵籍にも参加しております。

 したがって、本当にキャラメル一個五銭のときから、五円のときから、そうした言ってみれば通貨の価値の変化にも生きてきております。戦後の超インフレの中にも生きてきております。したがって、現状に対して自分の体を合わせていく、そういう調和性というものは大正二けたの私どもにおいては、その人生体験の中に血となり、肉となっておるかと思います。

 ところが、昭和一けたをどこまで入れるか問題です。まだ昭和一けたの総理大臣は出ておりませんから、当たり障りがあってもいけませんが、少なくとも昭和二けたの皆さんということになりますと、正に物心つくや日本は経済大国であります。そして、今日世界に冠たる経済力を持ったこの日本であります。

 したがって、皆さん方には気宇広大性が、その環境の中に血となり、肉となっておる訳です。言ってみれば、明治、大正一けたのあの気宇広大性、もっと角度の変わった二十一世紀へ向かっての気宇広大性の、しょせん私どもはそのつなぎの役に過ぎないではないか。そうなれば、そのつなぎの役目というものは、民族悠久の歴史の中にあって、それは一コマにすぎないであろうと思うんです。

 少なくとも物の豊かさのみでなく、言ってみれば地域づくり、国づくり、そういう基となる租税の中においても、二十一世紀を展望した安定した税体系の構築というものを次世代に送っていくことこそ、私どもの世代に課せられた使命ではなかろうかということを、自らの心に言い聞かせておるところであります。

 皆さん、本当にこれからの国会は、大変な審議を深めなければいけない国会になろうかと思います。私は審議しつつ理解を求め、理解を求めながら審議をしていく、こうした国会に臨もうと思っておるところであります。感情や感傷だけで税制度を議論してはいけません。また、具体的に言えば、おれとあいつと比べた議論をするだけではいけません。また、私どもの方も、国民の皆様方の代表に対し、あるいは国民の皆様方に機会を得て直接に、こんな基礎的なことも知らないのかというような態度で接するような気持であってはならないと思っております。

 本当に、昔から新税はすべて悪税なりと言われております。しかし、また言い古された言葉の中に、税制は慣れてしまえばそれまでということを言う人もございます。しかし、その慣れというものが、いわば獣偏に申すと書いたような狎れではなく、本当に二十一世紀をながめて、なるほどと国民の皆様方が実感で感じていただけるような税制というものを打ち立てて、次世代へ送っていくことが、民族悠久の歴史の中における私どもに課せられた使命であると思う次第であります、

 皆さん、私はふるさと論に触れようと思っておりましたが、時間がまいりました。このことにつきましては、皆さん方が一番肌でもってご存じの問題だと思います。第四次全国総合開発計画に基づきまして、一極集中から地方分散へ、そしてその地方分散も、各省庁がメニューを作って、この中に適用するものがあったら補助金を出しますというようなものではなく、皆さん方が中心になって、歴史とか、文化とか、伝統とか、そういうものを背景に待ちながら、皆さん方が描かれた青写真に対して、中央政府はどうしてこれにお手伝いが出来るかと、そういう考え方からの「ふるさと創生」というものを考えていかなければなりません。

 日本中あるいは世界も、みんなこれから一定のところで生まれ育ち、働き死んでいくという環境には必ずしもありません。しかし、どこに生まれても、そこで学んだところが、ああ、こここそ我らがふるさとだという意識が出来るような、地域づくり、ふるさとづくりというものを、皆さん方の今の世代の活力によって、下から積み上げた形で創生されていくことを心からお願いして、竹下登のお話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。