データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 税制改革懇談会における竹下内閣総理大臣の挨拶

[場所] 秋田キャッスルホテル
[年月日] 1988年10月16日
[出典] 竹下演説集,452−472頁.
[備考] 
[全文]

 開会に先立ちまして、今朝、出発直前、宮内庁長官と連絡をとりまして、天皇陛下、御平静の様子でございます。皆さん方とともにその御回癒を心からお祈りしたいと思います。

 今日こちらへまいりまして、ただいま知事さんともお話をしておりました。私は古くは昭和四十六年の参議院選挙でございましたか、あるいは知事さんの選挙、または市長さんの選挙、今日は市長さんと選挙用の写真を撮りました。ああ、もうあれから四年経ったのかなと、こんな感じを深くいたしたところでございます。

 と同時に、秋田へまいりますと、何としても、私、先般総理大臣にご指名いただきましてから九回目の外国訪問でソウルオリンピックの開会式にまいりました。そのソウルオリンピックでまさに万丈の気をはいてくれましたレスリングの佐藤、太田、これはご当地の出身でございますから、心から皆様方のご声援を感謝いたしますとともに、あの二人の金・銀メダリストに対しましては、国民全体を大変勇気づけてくれたということで、お互い感謝したいと思う次第でございます。

 今日は、このように多数の皆さん方とゆっくりお話する機会をいただきましたことを大変喜んでおります。

 さきほど申しましたように、私は内閣総理大臣就任以来、九回外遊をいたしました。ちょうどその日にちを計算しましたら五十九日でございますから、大体二月外国へいっておるということになる訳でございます。

 昨年の十一月六日に内閣総理大臣の指名をいただきました。したがって、石橋内閣の六十五日を越しまして、そして芦田、片山内閣を越しまして、一生懸命党員の皆さん方のご期待に応えようと思って毎日毎日、一日一日を大事にやっておるところでございます。

 一連の外国訪問で感じたこと

 この一連の外国訪問というもの、韓国の大統領選任式、それから先般のオリンピック、かつて近くて遠い国といわれた国は近くて近い国になった。それこそ善隣友好の輪が一層広まったと心から感謝しておるところであります。

 そして最初の訪問地はASEANでございます。これは日本国の総理大臣が域外の国からただ一つ参加をしておりますが、十年前、福田元総理がいらっしゃっておるこのASEAN首脳会議への参加でございました。ASEANの我が国に対する期待というものが大変進んできておると。福田先生がそのときハート・ツー・ハートということをおっしゃっております。心と心、なるほどもっともだなということを再確認をいたしました。

 それから、アメリカ、カナダを訪問いたしまして、日米首脳会議を行って、懸案でございました、これについてはまずビッグの懸案をそのときにお互いが確認をしました。公共事業の参入問題であり、そして科学技術協力であり、皆さん方に関係の深い牛肉・オレンジ問題でありました。それが話し合いのなかにおきまして、いま、ことごとく決着をみた訳でございますが、ここで大事なことは、いわゆる国内対策というもの、これをきちんとやらなければならぬというのが国民の皆様方の付託に応える一番大切な問題だというので、牛肉・かんきつ問題につきましても、先日国会でその国内対策の柱ともなるべき事項についての趣旨説明が行われ、この臨時国会で来るべき自由化に備えてきちんとした、国民の皆様方にも安心していただける環境を作らなければならぬと思っております。

 その最中、でてきましたのがお米の問題でございます。かねてからいわゆるお米の問題というのは二国間で話し合うべき問題ではないと。飽くまでも我が国農業の基幹作物であり、と同時にこの水田というものの持ちますいわばダムの代わりの役割でありますとか、そういう治山、治水の役割、国土保全の役割、そして農村に今日まで伝統的に続いておる文化の根源と、そういった観点からして、この間題については、いまアメリ力の精米業者の人たちが提訴しておることが却下されることを期待し、これに対して働きかけをいたしておるところでございます。

 そしてカナダではトロントサミットが行われました。それまでの間、やはりヨーロッパ各地を歴訪して、私はサミットは実は六回出席いたしております。最初出席いたしましたのは、ご当地出身の佐々木通産大臣ともどものベネチア・サミットでございました。昭和五十五年です。佐々木さんの今度追悼録が出るというので、私もその当時を思い浮かべながら追悼文を書いております。それから始まりまして、長い間大蔵大臣をしておったものでございますが、ただ、首脳として参列するのは今度がはじめてでございます。事前にヨーロッパ各国の首脳と個人的信頼関係を積みあげるとともに、お互いの意思疎通をしてまいった訳であります。そこで、外交問題を一口に申しますならば、世界に貢献する日本、こういうことであろうと思うのであります。

 私、今日こちらへまいりますにあたりまして、昔、まだ学制改革が行われ、みんなで新制中学、新制中学といっておる時代でございますが、新制中学の先生がたりないということで英語の先生と社会科の先生をやっておりました。英語の方は余り自信がございませんでして、校長先生に相談しましたら、まあこの辺は山村だからDDTとPTAの区別だけは教えるようにと。いまにして私に教わった生徒には申し訳ないことだと思っています。

 社会科の方は将来総理大臣になろうと思っておった訳では必ずしもございませんけれども、よく本を開いてみましたら私がいまの地方交付税、それこそ佐々木知事さんなどが衆知を絞ってお作りになった税制でございますが、その前の平衡交付金制度というような説明をしていたんですが、その本がちょっと出てまいりました。

 その当時の生活の目標をみますと、戦争によって大変疲弊したと。何とか昭和七年程度の生活水準までに返したい、こういうことが昭和二十三年、二十四年、このころの教科書には書いてあります。しかし、幸いに連続指導を受けておるから、何とかそれまでにはあと五か年のうちには返さなければいかぬと、こんなことが書かれておる訳でございます。しかし、そのころ日本はアメリカの一人あたり所得の三十八分の一とか、あるいはひどい統計では六十分の一とかいわれておったのが、円高の関係の下にございまして、今年はアメリカの一人あたり所得を日本の一人あたり所得が越しておる訳でございます。

 私は数字を覚える趣味がございまして、かつては一人あたり所得の一番高い国はアラブ首長国連邦だと。人口が百二十万、そしてその次がナウルという国で、あれは人口八千人、そしてその次がクェートで百四十万。さあその次は何だ。これは当時で申しますとやっぱりスイス、これが五百二十万でございました。そしてアメリカが続いて西ドイツやフランスだと、こんな話をしておりましたが、為替レートの計算をしてみますと、スイスと日本が大体同じというようなことであります。そういう変化というものを感じながら、したがって日本だけのリスクで国際社会に貢献することは出来ないというのは当然のことでございます。

 そこで、その協力をするには三つの柱を立てようというので、一つは平和に対する協力であると。国際連合というのがございます。国際連合の加盟国は百五十九。この百五十九の国際連合の加盟国、ところがあそこは分担金が人口の一人あたり所得に比例していると。投票権は一応一票十万人とこういうことでございますから、したがってだんだん国連に対する期待感というのが、とにかく先進国がたびたびやっつけられるような決議ばかり行われるではないかと。日本は飽くまでも国連中心に訴えていますけれども、そういうような雰囲気が少し漂い過ぎている。

 したがって、この間題につきましては、国連とは一体何だろうと。ところが最近国際連合が平和に対する協力ということで、事務総長さんが各国の代表、日本は安保の理事国になっておりますが、イラン・イラクの戦争はどうしてやめさせるか。一応ストップしたんです。今交渉中であとどうするか。アフガニスタンからソ連もこれは撤兵すべきだと。これも八割方で、あとどうするか。あるいは中東和平の問題、そしてアジアでいいますと、いわゆるカンボジア問題というところに平和に対する国連の取り決めというものが非常に世界的に評価される訳です。

 したがって、協力をしなければならぬと。今まではどちらかといえば特別拠出金と申しまして、お金の協力はしてまいりました。しかし、これからは人を派遣しようと。もちろんこれは我が国の方針からいたしまして、軍事的な協力をする訳にはいきません。したがって、平和への協力、それは最初は選挙の監視から始まると。選挙の監視はだれがいいだろう。日本で大体選挙違反を最も経験した人がいいじゃないかというような話がありました。あるいは戦後復興の経験は日本が一番ございますから、そしてあのころの職業供給基地であった秋田県の人がいいんじゃないかとか、あるいは木材提供県であった秋田県の人がいいじゃないかとか、いろいろな人を出すということで、いま、外務官僚の若い諸君をそれぞれ派遣することによって平和に対する協力を行っていこうというものであります。

 二番目は文化協力でございます。これは要するに文化というものは、だんだん世界共通の認識となってきた訳で、やはり文化というのは平和を基礎にしておることであります。東西文化を巧みに融合調和した我が国でございます。したがって、世界の文化に協力をしていかなければならない。その経験を大事にしましょうと。

 そして、ふと私日米首脳会談のときに気が付きましたのは、私のほかに外務省の北村審議官、この人は力ナダ大使に最近任命しました。それからもう一人は行天財務官という大蔵省の方。この北村君などはガリオアの留学生で、そして行天君はフルブライトの留学生でありました。何とこの留学生というのが六千人当時アメリカへまいりまして、この人たちがいまや我々の知恵袋になってくれているんだなということをしみじみ感じてまいりました。なかんずくASEANを中心とするところの我が国の留学生対策というようなものを充実していかなければならないと。中曾根前総理は二十一世紀には何とそれを十万人にすると、こうおっしゃっております。いま、二万三千人ぐらいでございますから、十万人はこの伸び率でいきますと、容易になり得る数でございます。しかし、せっかく日本で勉強された皆さんがいやしくも反日感情を抱くような形であってはならない。したがって、いらっしゃる前に日本語の習得をしてもらったり、いらっしゃるときにちゃんと通関が出来たり、いらしてから今度は、いろいろな企業の方が独身寮を提供してくださいましたが、その独身寮へ入って、一緒に日本の若い人と日常活動をしながら円滑に進める。そして帰ってからもその後の世界情勢、日本の情勢等をいつでもお知らせするように、そういう文化協力の柱として立てなきゃいかぬのではないか。すなわち留学生対策と言えば、来る前、来る時、来てから、帰ってからという点の柱の立て方で協力していく。

 三番目は、これは申すまでもなく、我が国は経済大国でございます。これも数字の上で申しますと、日本はガリオア・エロア基金というものが、古い方は覚えていらっしゃると思います。これをざっと計算しましたら当時のお金で二十億ドルでございます。昭和二十一年から昭和二十六年まで、これはアメリカからの一方的な援助でございます。その援助物資を売り払った代金を積んだりいたしまして、それが日本の産業復興のためのいわゆる傾斜した産業政策の資金としての役割を果たしております。

 また、ガリオア・エロアの中でいわゆる粉ミルク、これがだんだんぜいたくになりまして、学校給食で粉ミルクが出ますと、そっと捨てるというような時代もございましたが、国会議員の先生、衆議院で五百十二名おりまして、明治生まれの先生が二十八名いらっしゃいますが、昭和二十年八月十五日以後に生まれた先生が二十四名いらっしゃる。ふと彼らの顔を見て、ああ、この人たちはガリオア・エロアの粉ミルクで育った人だな。それにしてはおれよりも体は大きいし、一体どういうことだろうなと、こう思った訳でございます。そういう二十億ドルというお金を、いまの貨幣計算にはなかなか出来ませんけれども、要するにその六年間の日本のGNPの四パーセントにあたる。そうすると今のGNPがよく三百六十五兆といわれます。大変覚えやすうございますね。三百六十五日と一緒でございますから、今年は覚えやすうございます。その三百六十五兆の四パーセントといいますと十四、十五兆円、いまと比較にはなりませんけれども、それを援助していたんです。ダム、製鉄所、新幹線、高速道路、それらは世界銀行からお金を借りていたんです。

 私が大蔵大臣のときにIMF世銀の議長をしておりました。そのときに日本には一億ドルほど、まだ新幹線なんかの借金が残っていた。それで返そうかと申しましたら、三百六十五円で借りたものでございますが、百三十、百四十円で返せばいい訳でございますから、すぐにでも返そうかと申しましたら、世銀の総裁さんが、いや、竹下さん、日本という優良会社に金を貸しておるということが世界銀行の誇りであるから、どうか当分借りておってくれぬかと、こんな話がございました。大変世の中変わったものだなと思いました。

 話は少し長くなりましたが、かつて被援助国であった我が国、世界の人口はいま五十一億人になっております。大体一分近くで一人ずつ地球の人口というのは増えているということを考えてみました場合に、やはり世界に果たすべき経済協力の役割というもの、これは援助するということよりも、そのことがひいては日本のためにもアジアのためにも、そして世界全体のためにも平和と繁栄のために役立つという考え方、これが経済協力ということで、三つの柱を立ててございます。

 何分私が総裁になります当時から、よく竹下は外交に弱い、外交に弱いといわれております。あれはありがたいことでございました。そうなるとみんなで外交に失敗させてはいかぬという訳で一生懸命教えてくれますので、これはありがたいことだと思っておりますが、内政は大蔵大臣を、本当は池田勇人先生よりも十一日間私は少ないんですけれども、大変長くやったものですから、内政に強い、内政に強いと思っておるところで失敗してはならぬぞよと、こう自戒しておるところでございます。

 バランスの良い税制へ

 さて、一連の外交のお話をいたしましたが、今国会は申すまでもなくこれは税制改革ということで召集した国会でございます。そこで、税の歴史というものを私なりにひもといてみますと、税というのはどこで出来たんだろうかと。原始時代を振り返ってみますと、外敵からの侵略を防止するための労役負担でございます。あるいは外敵からというよりももっと前は野獣から我々の暮らしを守るための労役負担でございます。秋田県にはライオンはおりませんが、クマがでるからひとつ交代交代で見張りに立とうではないかと。これがやっばり{前4文字ママ}労役に伴う租税負担だったと思います。そうするとだんだん分業化してきまして、私は一生懸命その間お米を作っているから、あんたはとにかく張り番してくれと。その代わりおれは米を出すからと。こういうことから労役負担から物納になり、そして進化していわば国民みんなの共通した経費というものを租税で賄おうと。これが税の歴史の根源とでもいうべきものだと思うのでございます。

 そこで、その税金というものをまた考えてまいりますと、初歩的な社会主義国家、これは全部間接税でございます。それはそうです。物の値段の中にすべて公定価格というものがございます。そして製造業はすべて国有企業でございます。したがって物の値段の中に社会共通の経費、道路を付けたり、いろいろやる経費はその物の値段の中に入っておりますから、いってみれば負担しておるものは消費者でありまして、すべてがまずは間接税からはじまる訳でございます。

 ところが、その間にみんな何もかも一緒だということでは人間、努力と報酬が一致しなければならぬと。努力した者はよけい報酬がとれるようにしなければならぬというので所得税の思想というのがそこへ入っていく訳でございます。そうなるとやはりよけい所得のある人は負担を少し余計にしていくというので、いわゆる応能主義、能力に応じた租税負担というものが歴史的に生じてくる訳でございます。消費税というのは応益主義でございます。すなわち昔ならばうちわであおいでおったものを扇風機というものによって、あるいはクーラーで凉を求めておる。そういう利益に応じて負担するのがどちらかといえば消費税でございます。その所得の多寡、能力によって負担していくのが、どちらかといえば応能負担の直接税、こういうふうに区別することが出米るであろうと思う訳でございます。

 なるほどなと思いますのは、よくいわれます昭和九年から十一年までの税制というのが日本はよく議論されます。私は好きなものでございますから、そういう勉強をときどきいたしておりますが、そのころはどうかと申しますと、所得税が大体全体の税金の一〇パーセント程度でございます。それから法人税が大体全体の税金の七、八パーセントということでございます。

 いまはどうかと申しますと、皆さん方、子供さんなんかから質問がありましてお答えになりますときにお知りになっておいてお得になるのではないかと思いますのは、おおざっぱに所得税は四割弱だよと。三六、三七パーセントというところ、若干の変動はあります。そして法人税が三〇パーセント強だよ、それで大ざっぱに七〇パーセント、こういうことになりますが、昭和八年から十一年の平均をいたしますと、大ざっぱに一〇パーセントぐらいが所得税、そして法人税が七、八パーセント。それでは一体何が多かったんですかといえば、それは申すまでもなく酒・たばこが両方で大体三〇パーセント程度でございます。そしてもう一つは、古い方は皆覚えていらっしゃいますが、私ども子供のころに、あのうちには白砂糖があるそうだ、こんなことをいっておりました。確かに砂糖消費税というのが実にいまの法人税の比重と同じぐらいの比重でございます。そして関税、輸入品は皆ぜいたくだ、だから輸入品には税金を掛ける。

 したがって、大体大ざっぱに申しますと、六十五が間接税、そして三十五が直接税と、これは戦前のお話でございます。そして戦争直後は、皆さんも経験なさった方がたくさんいらっしゃると思いますが、財産税というものがありましたり、財政ががらっと変わる訳です。そして税制は、それまでは政府が、あるいは自治体の長の方が賦課される。これに税を賦課するということで、やはり民主主義になってから申告にしようではないか、こういうのが昭和二十三年ぐらいから申告という言葉が国民の皆さん方の中にいろいろ説明されるようになった訳でございます。

 昭和二十一年ごろは財政ももうちょっと違いますが、そこでやはり税金というのは応能主義と。結構まだ酒なんかは三割ぐらい税制の数を保っていた訳でございますが、やはり可能な限り応能主義をここにもう少し入れていこうというので、総合課税を柱とした所得税金はシャウプさん、今度日本にいらっしゃいます。もう八十五歳でございますが、当時は四十五歳ぐらいの青年学者でございました。

 この方が日本にいらして今日のシャウプ税制というのが形づくられた訳でございます。シャウプ税制は所得税。ただ、所得税の累進度というのはみんな案外忘れておりますが、シャウプ勧告のときは八段階、それがだんだん上がってまいりまして十九段階が長らく続いて今後の特定で六段階になり、新しく五段階にしようという訳でございます。

 それにはいろいろな理由があった訳でございますが、とにかくそのシャウプ税制による、俗に言われるキャピタル・ゲイン、キャピタル・ゲインと申しますのは株式だけかと思われがちでございますが、土地であれ株式であれ、譲渡で得た所得をキャピタル・ゲインという訳でございます。

 だんだん税金の勉強を皆さんがなされるようになりますと、この間も所得税法上における所得というもの、これはここにございますが、十ございまして、一つは利子所得、配当所得、不動産所得、家賃ですね。それから譲渡所得、売った場合の所得、それから勤労所得、だからこれらは資産性の所得と申しましょう。それで勤労所得に入りまして、給与所得、それから事業所得、ご商売などをなさっている方、これは勤労性の所得。それで六つありまして、あと四つだけちょっと別立てになっておりますのは、これもご承知のようにいまでは退職所得というのがございます。退職金をもらったときにその年の月給で一緒になった税金がかかるということは不合理だというので、これは別立てになっております。

 それから山林所得、この辺は山をお持ちの方は多いと思いますが、これはコストが幾らかかったか。七〇年もかかるとなかなか難しゅうございますから、したがって、これも別立てになっております。それから一次所得。悲しいことですが、生命保険をかけておった子供が亡くなったと、一時所得。あるいは雑所得、私どもは本業は国会議員でございますが、テレビなんかに出ますと出演料をもらえます。講演料をもらいます。これらは雑所得。

 この所得の十種類ということがある訳でございますが、そういう中の譲渡所得というようなものにつきましては、これはシャウプ勧告のときには原則課税であった。ところが、どうしてもそれが事態としてつかめなくて、昭和二十八年にこれが原則非課税に変わっておる。非課税になってそのうち五十万株以下、三十回とかいろいろな仕組みが出来てまいりましたが、やっぱり今度はこれは原則課税に返そうやということで、しかし、総合所得とすると、これはなかなかカードを作らなければ永久に出来ない。国民一人あたり背番号というのもなかなか出来ないというので、この源泉分離でございますとか申告分離でございますとかいう制度がございますが、いずれにしても不公平是正という観点から、この譲渡所得については原則非課税から原則課税へと、株式の譲渡所得についてもと、こういう変更をしていかなければならないのではないか。

 それからシャウプさんの八段階は別として、その後十九段階にもなりました今度は減税の方でございますが、あれは十九段階になった理由は、本当は物すごい日本が高度成長期にありましたから、毎年どんどん上がりますと、上がるたびに、どすんと上の税率の刻みに入っていく。したがって、なだらかに上がるようにというので増やしたもののようでございます。アメリカは二段階で、それは平等である。だから平等という意見もございます。二百万円の人が一割で二十万、五百万の人か一割で五十万、ちゃんと同じ一割であっても額が違うんだから応能主義じゃないか、能力に応じているんじゃないか、こういう議論もございますが、やはり二段階は残しておこう。だから日本はこの間の改正で六段階、今度はこれを五段階までにしようと。

 すなわち上の段階で税が重くなってくるというのは、何か上の段階は悪いことだという印象を与えていると。やっぱり人間は努力と報酬の一致というのをこい願いながら進めていかなければならぬと。こんなことでいろいろな改正がございますが、いずれにしろ先ほどらい村田先生からもお話がありましたように、いまのような経済状態が比較的落ち着いているときこそ、この税制というのはやり遂げていかなければならないことだと思う訳でございます。

 そこで私はこの消費税に関して六つの懸念ということを最初申しました。六つの心配があるということでございます。一つは何であるか。これは私は所得税を納めておりません。そうすると物価が三パーセント、消費税が付いただけ上がっていきます。私個人にとっては増税になります。こういう基本的な心配でございます。

 元来、間接税というものは、松下幸之助さんがハイライトをお吸いになりましても、また浮浪者の方がお吸いになりましても、所得によってたばこの値段が違う訳ではございませんから、そういう意味における逆進性はある訳でございます。

 また、別の意味において選択の自由がきくではないか。だからこれほど公平な税制はないという議論ももちろんございます。しかし、そこでこの間題につきましては、これは税制だけで考えるよりも、例えば、生活保護費というのもあり得る。すなわち在宅福祉の点については歳出の方で考えましょうと。ちょうだいする方でなく、出す方で考えましょうと。だから第一番の懸念は、これは大体解消出来るのではないかということです。

 二番目は若い人が、おれたちは大体増税なんだという感じであろうと思います。本来日本の給与体系というのは、皆さん方も常日ごろお感じになっていると思いますが、いわゆる年齢給でございます。初任給は安くて、だんだん上がっていくと。年齢給でないのは県会の先生、市会の先生、国会の先生もいらっしゃいますが、これは年齢給ではございません。

 私、この間一番若い人と一番上の人と比べましたら六十歳違いました。これは六十歳違って、おれと孫の給与が一緒とは何事だと、先輩の方が冗談におっしゃっておりました。ただ、能力給というのがあります。あの人はこういう能力があるから幾らでお願いしようと。

 そうしますと本来ライフサイクル全体、人生設計全体から申しますと、本当は若いときにむしろある程度支払いする。奥さんをもらって、扶養家族ができて控除される。そして子供ができ、二人目ができ、そしてだんだん控除されながら、いわば扶養家族で、出費が重なる時期に税か下がっていくというのが、全体のライフサイクルからすればそれが真当ではないか、こういう議論がありました。それももっともです。

 したがって、そういう全体の人生設計からいえば、そういう議論もございますけれども、いや、今度はやっぱりそれはいけないから課税最低限をあげることによって、ここまでは所得税はお納めにならなくて結構ですよということを挙げることによってそれもカバーすると。しかし、もう一つライフサイクルからいったときに、中堅の一番働き盛りのところが住宅ローンも必要だし、第一学校へ行く子供がいるころだし、これが一番大体重税感が大きいのではないか。現実に一番重税感の多いのはこの辺りでございます。

 そこで、毎年よく教育減税という言葉が使われます。これぐらい実際耳触りのいい言葉はないんです。しかし、明治、大正の我々から見ますと、おれよりも出来が悪かったのに、おれはこうして一生懸命に働いて、いまで言えば年間九十四万まではいいとしまして、それから所得税を払っているんだと。出来の悪い息子の親父さんが、何でそれで減税になるんだというような話でございます。ところが、自民党というのはその点知恵のある政党です。だから、こうして並んでいる人は知恵者の固まりです。

 私いつも思うのでございますが、それは本当に小さな、十六歳から二十二歳までの扶養家族がある場合には、割増し控除をやろうではないか。これは長いこと我々が議論しておって、なかなかそこへ結論が到達しなかった。そうすると、たまたまそれはまさに教育を受けられる年齢だと。そしてまた育ち盛りともいえる。そうしたらだれかが、竹下君は面白いことを考える、これは大めし食らい減税だという訳です。ちょうど飯を食う年頃だという意味でございましょう。

 いずれにせよそういうところで一番中堅の人が、子供の教育費等がかかる時代にいわば減税の効果が及ぶような仕組みが今日とってある訳でございます。なるほどよくしたものだなと。そして奥様の専業主婦控除、それがまたパートにお出になった場合の率も、無税のあれがかかっている訳です。計算をして二兆四千億差引き減税という総体としての案になる訳でございます。

 なるほどその三つはわかった。というのは結果は消費者が負担している訳でございますから、税金を税務署に持っていく人は消費者ではないんです。これは事業者なんです。これは後で話しましょう。

 それから四番目、そんなこといったってインフレになるじゃないか、こういう懸念ですね。確かに物価が上がる。ところが、いままでの物品税でなくなっていくものもございますから、差引き一・一パーセントないし一・一パーセントぐらいが物価に影響する。ただし、これは一遍きりです。それがいまのようにインフレのない安定した時代に、このご懸念は解消できます。

 五番目、率が上がるんじゃないか。最初は三パーセント、しかしそのうち率は上がるんじゃないかという懸念があります。それは確かにヨーロッパを見ますと、やっぱり所得税を減らしつつ間接税を増やしていったと。間接税を単独で上げたことはもちろんございません。所得税の減税をしながら消費税率を上げたことも下げたこともございますが、税制の歩みがそういうふうになっていることは事実でございます。これほど議論してやった三パーセント、国会というものの議決を得なければなりませんから、私どもがそれをすぐあげて提案するなんていうことは、これは考えもできないかというふうに思います。

 六つ目の懸念、今度は事業者の方です。この間接税というのは、税を負担しているのは消費者、国民です。それを取り継ぐのが事業者でございますから、その事業者の方が手続が面倒じゃないか、こういう議論が起きる訳でございます。去年の売上税のときにはインボイス方式か何か聞き慣れない言葉があって、前段階税額控除方式なんていうのは舌をかむようで難しい。今度は多少の理屈はございますけれども、簡易納税方式を考えますと。そして三千万円以下は対象になりませんよということで、この簡易課税方式。本当いいますと、いままでの物品税のやり方より複雑でないようにやる訳でございますから、何分日本人は一般的な消費税というものに慣れておりません。したがって、何かそういう不安な懸念がありますが、これは何とか簡素化いたしましょうというので懸念を拭い去っていこうと。

 そうしますと今度は七つ目の懸念というのが出てきた訳です。これが事業者でいえば、転嫁できますから、これです。

 ヨーロッパの大蔵大臣諸君と話をしますと、転嫁の問題をいいますと、けげんな顔をします。消費税が定着しておりますから、この消費税というのは転嫁する税金なんですから、転嫁ができる、できぬというような議論を我々はしたこともないと。なるほど、いい意味において慣れればそれが慣習としてあたり前だという観念になればその心配はなくなるのでございます。

 そこで、この七つ目の懸念というのが、質問でも一番多く出てまいります。これは一つ一ついろいろな問題がございます。中小企業に限っては独禁法の適用除外をして、そういう価格の決め方とか、あるいは掲示の仕方とか、相談してもいいようにしようと。また裏で便乗値上げがあってはいけませんね。したがって、これに対しては徹底的な監視をしようと。具体的な転嫁の問題をやはり国民の皆さん方の、世界で一番知識水準といいますか、学歴水準の高い、文盲率の低い日本人でございますけれども、やはり初めてのことはだれも知らないのでございますから、それは懇切丁寧に相談しながらやっていくと。

 そして七つ目の懸念のお話をしておりましたら、この間社会党の加藤万吉さん、地方財政の専門家の方ですが、八つ目の懸念とおっしゃいました。すなわち、この新しい税金によって地方財政が不足することになりはしないですかと。これも立派な質問です。これはいわば消費税の譲与税と、そして交付税にこれを入れることで遺漏なきようにいたしますと。消費税に代わっていくものもございますし、それはこういう方法でやりますと。この懸念はやはり地方団体を担当しておられる皆さん方としては、地方の住民の方にも説明していかなければなりませんから、一度は質問をしていただいて、そしてそれに対する懇切なお答えというものでより安心なものにしていこうではないか、こういう感じがいたす訳でございます。

 カナールさんという税制学者が申しておる文献を読んでみますと、税というのは旧法はすべて良税にして新法はすべて悪税であると。慣れてきたものはこれがあたり前と思って、新税はすべて悪税であると。しかし、その新税も習熟することによって、これまた良税に変化してくる、こういうことをいっています。

 確かに、税というものはそんなものかなという感じを私自身も持ち得る訳でございます。国民共通の経費、そして今日はいろいろなお話をいたしましたが、天からお金が降ってくることは断じてございません。受益者も国民であり、負担するのもまた国民であります。したがって、その負担をどこでするんだということになります。その負担は結局物を消費する段階、利益を受ける段階で負担する。いわば自分の得た所得の段階で負担する。

 もう一つは資産というものがございます。この資産というのは、担保価値はありますけれども、売ってからでないと本当は所得税にはならない訳です。だから、資産確認を適正化し、そして社会共通の経費というものをいずれかによって負担する、そのほどよいその国々のいわば所得の平準化、そういうあり方のなかに立って、ほどよいバランスをとっていこうではないかというのが私は税金の本質であろうと思う訳であります。

 戦後経済の発展と行財政改革

 昭和五十四年、このときに大平先生がいわゆる一般消費税というものを考えられた。これは基本的には薄く広く、とにかく消費税を入れようという考え方でございます。それは財政再建のためであります。

 私は、その後大蔵大臣を拝命し、そのときには野党の皆さん方も専門家の皆さんもやっぱり福祉目的税的考えがあったと思います。国民福祉充実のためには安定した財源が必要である。しかしながら、いわゆる一般消費税は、その仕組み、構造等について国民の理解を得るには至らなかった。よって、これからはまず行政改革を行おう。そして歳出の節減、合理化をやろう。そのうえで税制の抜本改正を行って、これにあたるべきである。こういう決議なんです。

 あのときはやはり財政再建という考え方、そして五十九年ぐらいに何か福祉目的税的なことをおいおい考えていったことがございます。それはやはりあのときは財政再建というのは必要だったんです。

 簡単に申しますと、昭和二十年、戦争が終わった。昭和二十一年の国の予算というのは一千億ちょっとです。いまは五十何兆円です。そして当時精一杯の五年間だった。ところが昭和二十五年、悲しいことでございますけれども、朝鮮戦争が起こって、いわば特需景気が日本に訪れて、それからの十年間、食うに精一杯から我々の暮らしの中に変化がでてきた。

 エンゲル係数というのを見ますと、昭和二十五年までは食べるための支出が大体七〇パーセント近いんです。それから変化が出て、三種の神器が国民の暮らしの中に入ってきた。電気洗濯機、白黒テレビ、そして冷蔵庫です。

 私、この間、上海へちょっと寄ったら、上海の家庭でも三割近く冷蔵庫が入るようになったという話でした。ああ、いつかきた道という感じを深くいたした訳でございます。

 そして十年間、前進の時代が続き、それから繁栄の時代に入ると。何しろ油代は二ドルでした。厳密にいえば一ドル七十五セントから二ドル三十五セントで十二年間キープした。その石油をじゃぶじゃぶ買いまして、ひた走りに走って高度経済成長、繁栄の時代に入った。三種の神器は国民の生活の中ですべて充実し、新たに3Cの時代がおこった。カー、クーラー、カラーテレビという時代であります。そしてちょうどそのころ東京オリンピックがあったんです。IMF世銀総会があり、OECDで日本も先進国の仲間入りをしたのが昭和三十九年、一九六四年です。

 ふと韓国をみますと、今年オリンピックがあった。そしておととし、さきおととし、私が大蔵大臣のときにIMF世銀総会があったんです。そして三種の神器は既に行きわたり、まさに3Cの時代に韓国が入っていらっしゃる訳です。ああ、これもいつか来た道と、こういう感じを私は抱いた訳でございます。

 その後、初めて公債発行をやるんですけれども、発行しないで流れちゃった。昭和四十年です。それは直ちに不況を解消して、しかし、公債政策が間違いでは必ずしもなかったんです。公債を発行出来るというのは、公債を発行しても国民の皆様方が買ってくれなければいけない訳です。日本人は貯蓄率が高いから、とにかく、昭和四十年以降は公債発行をしてもそれを国民の皆様方が間接的であれ直接的であれ、間接的といえば銀行なら銀行でお預けになっているその銀行がまとめて買うにしても本人が買うにしても、いわば公債政策というのはそれはときに借金として賄うと。それがあったからあのドルショックも石油ショックも切り抜けたんです。

 石油ショックのときなんか二ドルの原油が倍倍で二十六ドルとかになる。大変だった。しかし、今は仮りに十五、十六ドルと考えましても、昔の考えになれば、為替レートを考えれば五ドル原油ぐらいでございましょうか、そういう状態でございますが、あのときも為替レートが変わった。三百六十円という固定相場から、昭和四十六年八月十五日です。アメリ力の十四日です。私、内閣官房長官でした。ニクソン大統領から佐藤総理に電話が掛かった。明日からドルの兌換制はこれを停止する。恥ずかしながら私も何のことか分からなかった。あのころ「恥ずかしながら」という言葉がありまして、あの横井さんがお帰りになったころです。

 恥ずかしながら分からなかったが、幸いに国会でも余り質問がなかった。実は、お尋ねになる方もわからなかった。ある私の尊敬するお亡くなりになりました国会の先輩が、おい、官房長官、官房長官、せっしゃは明治の人間だ。聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥と心得る。そこで一時の恥をしのんで聞くが、君は円高になるというが、千円にはいつなるかと、こういう話だったんですが、大体あべこべでございますね。

 そういう時代のとにかく公債発行によってこれを克服することはできたんです。しかし、その公債がたまり過ぎた。そこでこれもまたブキャナンというノーベル賞をもらった経済学者ですが、その人の言葉を借りますと、ケインズの経済学というものは、少数の秀才によってこれは考えられると。しかし、議会制民主主義とは多数の、しかも議会関係者の選挙を受けた人で考えなければならない。

 そうするとどうしても理屈どおりにはいかないと。しかし、考えなければいかぬのは、例えばいまの借金はだれが返すか。理論的には六十年かかって返す訳でございますから、そうするとこれは孫、ひ孫にツケを回しながら今日の利益を得ておるという状態だけに、やっぱり健全財政になるまでには時間をかけても戻さなければいけない。

 それの第一目標として赤字公債発行だけは昭和六十五年までにやめなさいよということなんです。幸いにそれはやめられる可能性が大変強くなってきた。そしてあとの借金を徐々に減らしていく。しかし、そういう議会制民主主義の中には少数の秀才によってすべてが片付く訳ではない。そしてその借金を返すのは、金のない人だから、それはあてにしないことが多い。ただし、日本の国会ではないと、書いてある訳です。その後の方は私か書いた訳でございますけれども。

 したがって、その借金政策というものにはおのずからの節度があるわけであります。また、円高が起こったわけでありますが、円高というのは、その国のお金の力を上げたのでございますから、もっと胸を張りなさいと言い続けてまいりました。それこそ本当に輸出産業のところへ行きますと、国賊が来たような感じで、怨嗟のまなこでみられたような気もします。ただ成田の空港へ立っているとみんなが外国旅行でございますから、ありがとうございますというような顔をしていらっしゃいますから、いずれにしてもあの円高時代というのも克服してきた。それは公債政策というのも私は間違いじゃなかったと思います。

 そして行政改革も思いもかけなかったことができました。五十五年のときには思いにはかけておったが分散はできなかった国鉄が民営分割になったんですから。そうしたら途端に黒字がでる。これまた不思議なことでございます。まだいま最終的に何千人になりますか、余った方々がいらっしゃいます。余剰人員なんていっちゃいけません。余った方々、そういう方がいらっしゃいまして、そのなかでおれはこのままがいいという人もいらっしゃるかもしれませんけれども、これらもいろいろ工夫してまいりましょう。そうしてNTTの株は売れるようになった。行政改革もやりました。まだこれからやらなきゃなりません。同時にけちけち財政もやった。

 そこで税制の改革をしようという五十四年の決議の趣旨にも私は沿っておると思う訳であります。だから、どんな非難を受けましょうとも、だれかがやらなければならぬ訳ですから、それは竹下登、それこそ日本海側の島根県から出た総理大臣でございますので、大体一人あたり県民所得は秋田県よりちょっと下、青森県よりちょっと上と、こういうところでございましょう。

 したがって、この問題について私の政治生命を賭けなければならない。そうしたらそれこそこの問題を国民の理解を得て、審議しながら理解を求め、理解を求めつつ審議しなければならぬ。税制だけは不公平というものには二種類あります。情緒的不公平、そして理論的不公平、それらの問題も解消しながら、だから感情とか感傷に走っちゃいけない。またこっちもあんた、こんなことが分からないかというような態度で臨んではならない。したがって、審議しつつ理解を求め、理解を求めながら審議を進めてこの税制をやらなければならないと考えております。

 手づくりでふるさとの青写真を

 そこでせっかく第四次全国総合開発計画ができておって、私は「ふるさと創生」を唱えております。これはハイカラな言葉でも何でもある{前1文字ママ}ません。読んでごらんになりますと、カラオケ等でお歌いになる歌の七割が大体ふるさとを歌ったものでございます。これは間違いない、計算してみたものでございます。そしてふるさとにはいろんなものがあります。

 辻留のご主人で、調理師の名人と私は対談をしました。その方が申されるには、ふるさととは母親のおみおつけの味でございます。朝、目が覚めるとプーンとそのにおいがする、それがふるさとです。しかも、そのみそは信州の味噌で二年以上寝せたものでなければいかぬと、この人はそうおっしゃいました。そういう見方もあります。

 そして、まずは保育所、幼稚園、自分の交際範囲からふるさとというものは広がっていく訳でございます。そうしたら向井千秋さんという宇宙飛行士で、いまNASAで訓練していらっしゃる人が、竹下さん、あなたのふるさとも分かります。私はそのうち宇宙船に乗り込もうと思っていま訓練を受けています。アメリカもソ連も日本も一緒に宇宙飛行したなら、何で緑が美しい地球の上にイラン・イラク戦争だとか核実験があるのだろうかと。しょせん帰るのはあそこしかない、地球、ふるさと、ああ、信州の二年以上寝せた味噌から地球まで、ふるさとというのはいいものだなと、こう思いながら、みんなで参加したふるさとの青写真というもの。この道路網、それこそ横断道路であり、日本海道路であり、高速道路体系、そして飛行場問題、そういう基礎的な問題を整えると同時に、その上に立ってみんなで考えた手づくりのふるさとの青写真というものを、少なくともこれからお互い、外国へ行く暇も出来る、子供さんやお孫さん、みんなが秋田に住むとは思えません。

 しかし、どこにあろうと生まれ育ってよかったなというほのぼのとした幸せというものを感ずるようなふるさとというものをみんなで描こう。そういう明るい二十一世紀への展望に向かって、その基礎となるこの税制改革。ああ、消費税ができてよかったなという人も実際いるんです。それだけのものであっても、地道な明るい将来を展望していくときに、この基礎づくりにいまや全身全霊を捧げてきた、このように思います。

 時間超過をいたしましたことをおわびをして、ご清聴を心から感謝し、私の話を終わります。