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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 早稲田大学における海部内閣総理大臣の記念講演

[場所] 早稲田大学大隈講堂
[年月日] 1989年10月22日
[出典] 海部内閣総理大臣演説集,618−632頁.
[備考] 
[全文]

西原総長初め学校の関係者の皆さま,お集まりいただいている先輩校友の皆さん,きょうは私もこうして発言の機会を与えていただきまして,本当にありがたいことでございます。

先ほど来,恒例のホームカミングデーがこの会場で行われておりました。私も昭和二十九年卒業組のホームカミングデーのときは,ここでお話をさせていただき,またこの会場は私にとっては雄弁会の学生の頃は何回も登壇いたしましたし,同時にまた,先ほどお話があったように,ある弁論大会の講評のときに,当時の雄弁会長の先生が「海部の前に海部なし,海部の後に海部なし」とおっしゃったと言うんです。物議をかもしまして,「『前に』というのは『失礼千万だ』ということで済むかもしれないが,『後になし』とは何事であるか」と言って,私の友人や後輩が皆ここで,「後のわれわれの可能性の芽まで摘んでもらっては困る」と言って物議をかもしたことを私は懐かしく思い出しながらお話を聞いておりました。

そして,昭和三十五年の衆議院選挙のときに,私が国会議員として最年少で当選できたというときに,その物議をかもした仲間たちは皆電話をかけてきて,「よかったなあ,おめでとう」と言ってくれました。ただ私の電話を切ってから,「海部が代議士になれるならば,俺も必ずなろう」とみんなが決意を燃やしたといいますから,その意味では私は早稲田大学の人材輩出に大いに貢献をしてきた男であると,このようにも考えているものでもございますが,しかし,夢はさらに一層ふくらんでいると思います。「海部が総理大臣になれるならば,俺もなれるだろう」と仲間たちは皆思っているのではないでしょうか。

考えてみると,三十二年前にわれらが大先輩の石橋湛山先生はこの早稲田に来て総理としてご挨拶なさいました。昨年はまた竹下総理大臣がご挨拶をなさいました。私はきょうこうしてお招きをいただき,本当に汗顔の至りでございます。「先輩はありがたいもので」と言うべきか,「厳しいもので」と言うべきか。私が学生の頃,内閣総理大臣杯というものを受けたときの委員長が新井先輩でございました。お言葉を噛みしめながら,いまみずからの置かれている立場や,学生時代のことを懐かしく思い出しました。

皆さん,昭和二十七年,早稲田大学事件というのがありまして,例の警官隊が乱入して大変な騒ぎになったときであります。私も夜遅くまで校庭に残って,仲間と一緒に「警官帰れ」「警官帰れ」と言って声を嗄らしていた一人でありましたが,あのとき,川崎秀二代議士や,石田博英代議士や先輩の代議士が来られて,「感情的になるな」「暴力を振るうな」,「話し合いできちっとしろ」と,いろいろお諭しを受けたことを覚えております。そして,「早稲田大学の校歌を歌って帰れ」と言われて,帰ったことも思い出します。

また,北九州で大変な水害が起こったのがたしかその翌年だったと思いますけれども,われわれ雄弁会が,新宿の駅前で通行人の皆さんに,「北九州の災害を救いましょう」と募金活動の街頭演説をやったときに,「俺も少し時間が余ったから協力してやろう」と巨体を揺す振りながら駆けつけてきて,ともに募金活動に参加してくださったのが浅沼稲次郎先輩でありました。

また,立会演説会なんかをやりますと,各党の代表の政治家がおいでいただいていは,帰りには必ず,「暇な者はついて来い」と,金城庵とか,三朝庵とか,そば屋の二階へつれていっていただいて,一杯のそばをご馳走になり,そして一時間,二時間,いろいろな政治のお話を聞くことができる。目の前に国会議員が来て学生といろいろ話をしながら,「お前たち,どう思うか」と言って聞いてくださった,あのときの感激というものはいまも鮮やかに覚えております。そして私がこの早稲田大学在中に自分の志をたてて,できうるならば政治家になりたいという確固たる気持ちを固めたのは,その学生時代のことでした。当時,私がいろいろ調べた中で,大隈重信侯の建学の理想に,「早稲田大学は学問の独立を全うし,学問の活用を主として,独創の研鑽に努め,その成果を実際に応用するにある。大いなる理想は,東西文明の調和・融合であり,世界平和の実現である」と,建学の精神の中にきちっと出ているわけであります。

私は,この言葉を聞いたときに,本当に大きな感動を覚えたことを思い起こしております。そして早稲田大学で良き師,良き先輩,良き友人達にたくさん出会うことができたのも私にとっては大変幸せなことでございました。

当時,ややもするとマルクス主義にかぶれまして,一見格好のいい,過激な発言をこういう壇上などでしていたわれわれ雄弁会員を前にして,「革命による破壊は社会を幸せにはしない。資本と労働は対立ではなく,協調でいかなければならない。学問を身につけ,学問により技術を革新して生産性を向上させることが真の人間の幸せである」と,技術革新論をいつもわれわれに説かれたのが雄弁会会長の時子山先生であったことも,私には大きな大きな教育的な効果でございました。

友人達が私の選挙のときに手弁当,ボランティアで手伝ってくれる,このことの感謝は横に置きまして,きょうここへ来るために,ほんの数日前の新聞に早稲田大学の校友大会の日に海部俊樹が招かれてお話をするという記事が出ましたら,それを読んで心配をして,「早稲田へ行ったら,ぜひこれだけは話したらどうだ」「こういうことは訴えたらどうだ」と,仲間の何人,先輩方の何人かからそういった注意の手紙がきたり,電話もかかってまいりました。涙が出るくらい嬉しい,ありがたいというのは,こういったときに人間が感ずる心と心の触れ合いではないでしょうか。私は良き師と出会い,良き友と出会ったこと,これを本当に感謝しております。

いまここへ入って来るときも,二階で学生の皆さんが演奏していらっしゃる。私は早稲田大学の校歌の中に,「あれ見よ かしこの常盤の森は 心のふるさと われらが母校」というあの一節がとても好きであります。そして,「集まり散じて人は変れど 仰ぐは同じき 理想の光」というのは,私も,そして皆さんも,共に声高らかに合唱するときに,早稲田に学んだ者の喜びを共通に感じ,[[undef12]]早稲田のこの精神を受け継いでいかなきゃならん[[undef12]]という責任を感ずる大いなる一節ではないでしょうか。私はこのことを肝に命じて,精いっぱい,力いっぱいの努力をすることを校友の皆さんの前で心から誓うものであります。

皆さん,ことし平成元年は干支でいいますと,己巳(つちのとみ)という年になっております。己巳というのはどんな年かというと,万物が実を結び,新しい芽が吹き出す年だと言われますし,あるいは大変大きな,劇的な変化の起こる年だとも言われております。

ちょうど六十年前の己巳の年の前後何があったか。これは言うまでもなく,世界大恐慌がございました。その前百二十年前の己巳の頃は何であったか。これは明治維新−日本の新しい開国の夜明けであったわけであります。そうすれば,いまの己巳は何が大きな,劇的な変化かということであります。

私は,最近もあるところで「十九世紀世紀末展」というようなタイトルの行事があるのを見て,時代が変わったのだから,世の中が変わったのだから,いまを世紀末と受け取らないで,そして単に昭和から平成へと呼び方が変わったというだけに受け取らないで,一つの偉大な時代が終わりを告げ,新しい世界の大きな潮流が始まった年なのだというふうに受けとめていかなければならないと思っているわけであります。

脱線するようですけれども,「いま大きな時代の移り変わりだ」ということについては,この間,サッチャー首相が来日されたときに,食事をしながらいろいろなお話をしているとき,同じような認識に立ったことを思い出します。

十九世紀に英国の国運が最も隆昌したときはビクトリア女王の治政の時代であったと言われます。そしてそれは,まあ偶然の一致でしょうけれども,一八五七年から一九〇一年までの六十四年間であったと言われます。そしてビクトリア女王がお亡くなりになった年に昭和天皇が誕生されて,そして昭和天皇は即位以来昭和六十四年のことしまで,同じ六十四年という期間陛下として責任を果たしてこられました。

いろいろなことがございました。歴史の上で反省をしなければならない,そして苦難の思い出を残した戦争の体験もありました。しかし,その後の日本が昭和の時代に果たしてきた仕事の中で,今日のこの明るい社会,平和な国,豊かな暮らしというものを,日本がこの昭和の間に築き上げてきたということを,いま世界の人々は刮目をして見ているわけでありますから,サッチャー首相のみならず,ことし昭和から平成に変わったということは,日本にとっても,新しい新しい大きな時代のひとつの曲がり角ではないかと,こういう評価が出てくると思います。

私はこの時代の大きな移り変わりを,ひたすらに豊かさを求める時代は終わりを告げ,社会には公正を,そして心の豊かな生きがいのある世の中をつくっていくように,日本の政治も方向を変えていかなければならない大きな節目であると感じ取っているのであります。

そして何よりももっともっと大きな変化がいろいろ目の前にきております。時間の許す限り,それを順を追って私なりの言葉でご説明させていただきたいと思います。

まず私自身,そして自由民主党自身のことを申し上げなければなりません。新井先輩も先ほどおっしゃったように,自由民主党が結党以来の難局であればこそ,従来の派閥の数の論理というものは総裁選挙の上で姿を消しました。ですから,従来の変化がなかったならば私はこうして選ばれることがなかったろうと率直に思います。けれども,結党以来の危機だ,自由民主党は生まれ変わらなければならない。

この間の参議院議員の選挙の結果,わが党は厳しい批判を受けました。率直に申し上げますが,リクルート事件に端を発した政治不信というものが,党に対して体質の改善と生まれ変わりを厳しく求められたことは間違いございません。前国会で,国会に寄付の禁止や政治資金規制法の一部改正案を党が提出いたしましたのも,政治改革への第一歩であります。

私は自由民主党の政治改革推進本部の行動隊長という立場で,この政治改革の法案づくりや長い目で見た政治改革の大綱づくりに取り組んで一生懸命全国を遊説して歩きました。そして,来るべき高齢化社会を迎えて,一般のサラリーマンの皆さんの重税感を考えて,税をもっと公平な,もっと安いものにしなければならないと考えて,税制改革も政治改革とともに一生懸命訴えました。

簡単に骨子だけ申し上げますと,高齢化社会というものは,世界歴史初めてのスピードでもう目の前にきているわけです。時間がありませんから簡単に事実だけを申しますと,ことしのお年寄りの日には,満百歳以上の方が三千七十八名となりました。私が国会議員に当選した頃,池田内閣が敬老の日をスタートさせましたが,たしか昭和三十八年,満百歳以上の方は百五十三名であったということを思い返しますと,大変なスピードで高齢化社会でございます。

二〇一〇年になると,働く人々三人で一人のお年寄りを支えていかなければならないということがわかっておりますから,いまのままの税制の仕組みで,いまのままのご負担を中堅サラリーマンにお願いしている直接税,間接税の比率でまいりますと,二〇一〇年になると,税の負担率は確実にいまの二倍になるわけであります。それは重税感を通り越して大変な不公平になりますから,いまから社会に必要な費用は,すべての方が薄く,広く,公平に負担をしてもらうという税制に変えていかなければなりません。そのためには減税もしなければなりません。ひずみやゆがみをたくさん指摘された物品税も変えなければなりません。参議院の選挙のときは,私もそういったことを一生懸命訴えて回りましたけれども,顧みますと,理路整然と票を失っていったというのが,われわれの心からなる反省でございます。

ですから政治というものは,国民の皆さんの声をうんと大切にしながら,同時にわれわれの気持ちも率直に申し上げなければならない,大変なものなんだなあということをつくづく思うのです。

皆さん,そういうときだからこそ,私が総理が選ばれましたけれども,衆議院では内閣総理大臣に指名するという決定をいただきましたが,参議院では,残念ながら別のお方でありました。そうして日本の政治始まって以来初めて憲法六十七条の規定に従って総理大臣に就任させていただきましたが,実に四十二年ぶりのことだそうでございます。

昭和生まれの者が総理大臣になったのは初めてのことだと新聞は書いてくださいました。組閣に当たって,女性の閣僚を一内閣で二人誕生させましたが,これは私がいささか自分の気持ちを述べて,いろいろな我を張って,民間人からの女性の入閣というのも初めてのことでございました。初めて尽くしのことが続きましたけれども,私は国民の立場に立って,消費者の立場に立って,真の男女平等というものを考えながら,いろいろなご意見を聞いて,バランスのある政策努力をしていかなければならないと私が心に決めたからでありました。

幸いいま,前半は調子良くやっているというお褒めの言葉をいただいておりますけれども,油断をしてはいけませんし,これからがいよいよ厳しい毎日毎日が訪れてくると思います。

皆さん方のこういうご激励やお励ましをいただきながら,民意を尊重する政治の大道を歩いていかなければならない。そのためには政治改革ももちろんいたします。税制改革が定着できるように思い切って見直しをいたしまして,なぜご批判を受け,なぜ反発を受けたかということを率直に反省をして,同時に最近,新聞の世論調査などを見てみますと,「見直しをしなさい」という国民の声や,そして「見直しに期待をする」というご激励が出てきていること等を率直に踏まえ,いま各界の皆さんのご意見を承っておりますので,それをきちっとまとめて,私のほうからも率直に言うべきことは言わせていただいて,廃止ではなく,税制全体の改革を定着させていただきたいと思っております。

けれども,それを乗り越えて今度は高齢化社会がくるわけです。経験したことのないような新しい社会がくるわけです。都市と農村との格差の是正をしませんと,私が理想とする公正な社会というものはなかなか生まれてまいりません。東京の中だけを眺めても,一軒の家を自分の生涯のうちに持ちたいという夢は,だんだん,だんだん遠くなって,絶望的になってきております。これは土地のこの数年間の高騰というものが庶民の夢を奪っていると言っても言い過ぎではありません。

私は土地の持っている公共性というものについて各界の国民の皆さんの合意をいただきたいと思います。同時に,土地は遊ばせておいたり,投機の対象にするものであってはいけないということを,きちっと皆さんの合意をいただきながら,そのような政策を進めていきたいと思っております。土地基本法を国会に提出しておりますから,与野党のご議論を通じて,この法案を一日も早く通していただいて,土地にまつわる不公正感を少しでも,一刻も早く縮小していくような努力をしていかなければならないと心に決めております。これが第一であります。

それから地方との関係で見ますと,大ざっぱな分け方をして,地方が農村,都市が都市,サラリーマンの世界というような荒っぽい分け方だけをしても,私が国会に当選した頃は,農業基本法という法律が中・長期の目的として審議され,できた頃でした。都市と農村の格差を是正しよう,都市と農村の現金所得を同じようにしていこうというのが,簡単に言うとあの農業基本法の願いでありました。

いま数字的な結果だけ見ますと,全農村と全サラリーマンの平均所得というものは,数字の上ではトントン,もしくは農村のほうが少し上回るというような結果が出てきます。しかし,農村の実態は第二種兼業農家で,農外所得に頼る部分が非常に多いところがたくさんであり,農村には後継者の姿がだんだん少なくなって,六十歳以上の方だけで農業をやっていらっしゃる。後継者が欲しいんだという悲痛な声が農家からも出てきております。その戸数が,概算六十一万戸あるということです。農業の問題を考えるときには,これらのことで若い人々が魅力を持ち,農業の将来に希望を持つような,そんな農業にするにはどうしなければならないのか。

いま農林省で長期計画を作制中といいますが,私は最初に申し上げたように,「都市には住宅を,地方には雇用と文化を」,これを定着させる実際の政策努力を続けなければならないと思います。

地方に対しては,竹下先輩が「ふるさと創生」で地方に夢を与え,立ち上がれと呼びかけた。それに応えて,地方では活性化の芽が,どうしたら活性化するかと考え始めている大きな動きがいろいろなところで見られます。

私が内閣をつくってから,地方活性化に関する懇談会をつくって,せっかくこの芽を大事にしながら,どのようにして地方を活力あるものにしていくのか,そこに文化も入れ,雇用も入れ,地方の特色も入れ,本当に心のふるさとがそれぞれの地方に芽生えていくようにすることが,国土の健全なる発展であって,公正な日本の国内社会をつくるための大きな理想だとも思うのです。

また皆さん,福祉社会は日本型の福祉社会でなければならないと私も国会で答弁をしております。欧米先進国を視察しますと,「高負担・高福祉」,大変たくさんな負担を求めております。

アメリカは民間,そして自助努力中心でありますから,日本よりもむしろ負担率の低いところでの福祉でありますけれども,まとまった全体の国民的な規模の医療保険の制度とか福祉の制度は日本と比べて自助努力に任されているところがあります。どちらがいいか。

わが国にはわが国の文化,伝統,家族主義や,人間と人間との心のつながりを大切にするような,そんなところを中心にした日本型の福祉でいかなければならないと思うのです。

そして私は,二十一世紀を目指す懇談会で,二十一世紀はどのような社会があるべき社会の姿かということを,近く民間の有識者のご意見も聞きながら,私自身の意見も申し上げてまとめ上げていきたいと思っておりますけれども,もうちょっと先を見ると,いま日本は長命社会になってきました。先に申し上げたように,平均年齢がどんどん高くなってきます。人生八十年時代だと,こう言います。

どうぞ進歩的な早稲田大学の校友の皆さん,六十歳で還暦,六十五歳で敬老会,おじいさま,おばあさまお体を大切に,お暇がありましたらゲートボールをどうぞ,などということは早稲田大学の校友会からはちょっと横へ出していただいて,還暦は八十歳,敬老会は九十歳,ゲートボールの正会員は百歳,これくらいの大きな物差しでやっていきませんとこの長命社会には合わないことになってくるのです。

そうであるなれば,今度は人類最初に猛烈なスピードで当面しているこの福祉社会,長命社会にどうするのか。予防医学をやると言います。学問の研鑽で人間が長命になっても,元気で頑張っていただけるような社会になるならば,いままでのように消極的な,病気になったら手当します,所得がなくなったら年金を差し上げますだけじゃなくて,「俺は元気だ。俺は所得もある。蓄えもある。国の世話にはならなくても俺はそういったことはやっていけるんだ。けれど何か俺の心は満たされておらんぞ」という方があったときに,新しい長命化時代を迎えて,新人生生活設計計画といいますか,消極的な将来の夢ではなくて,そういう積極的な将来に対する長命社会を本当の長寿社会に切り換えていくための,内容のこもった,総合的な政策を打ち立てて世に問うていかなければならないのが,われわれの大きな責務だと考えております。

皆さん,時間の関係で言うことができなくなりましたが,もう一つ簡単にテーマだけ言わせてください。数分超過しますが,総長,お許しいただきたいと思います。

第一は,これからの変化の最たるものは,地球的規模でものを考えなければならないということでございます。ソ連のペレストロイカとは何でしょうか。ポーランドやハンガリーで起こっている,もう人民共和国という名前もやめる,共産主義よさようなら,そして自由化,民主化を求める運動というのは何でありましょうか。中国の解放・改革路線もそうであります。

最近,東ドイツから西ドイツへ万を超える数の人々が移動しております。われわれがアジアで使っている難民という感覚とはまるっきり質の違ったものであります。テレビでご覧になればわかるように,自動車に乗り,豊かなものを着,お腹いっぱい食べて,しかも腕に技術や職を持っている人々が何万人と国境を越えて移動するのです。それはただ一つ,自由を求めての移動であったということでございます。

ことしの世界の一番大きな劇的な変化は,まさにその荒っぽく分けた東西関係の枠組みの中で,従来,社会主義諸国と言われた東側陣営の中で基本的な変化が起こりつつあるということではないでしょうか。

わが国でも,かつて非同盟,非武装,中立で何十年という選挙を戦ってこられた野党第一党が,この頃は自衛隊を当面認める,日米安保条約は当面認める,この頃は「西側の一員だ」とまでおっしゃるわけでありますから,この流れは地球的規模の流れであって,私はそのこと自体は,われわれのきょうまでの「自由と民主主義を守れ」という主張が正しかったということが,内外で認められつつあるということですから,これは非常に嬉しいことだと思います。

けれども,じゃ西側と言われる自由陣営の中には何かないだろうか。経済摩擦,貿易不均衡という問題が横たわっております。

日本はおかげさまで,物価は横ばいをしております。私はこの間,高原経済企画庁長官に,「物価は横ばいだと言って喜んでもらっても困るから,これがさらに一歩前進して,物価は一ポイントでも,内外価格差の是正をしたり,流通改善をやったり,思いきった努力をして,下がるような努力も大きな目標としてこの際考えてやってください」と,このことを指示をいたしました。

そして,そうやることが日本の国内生活を質的に高めていくことになる。GNPが世界で一番になったとか,あるいは個人の生活がこうなったとか,数字をいくら言ったってだめであります。みんなの腹の底から「なるほど,本当に良くなったなあ」と思っていただくこと,数字よりも実感というものが,ズバリ本音を言うと,それは選挙のときだって投票行動に現れるのです。だから,そういったことを,本音を語り,本音を聞きながら,対話の中で政治をやっていかなければなりません。

私は,最近痛ましい映像を次々にわれわれに見せているあのサンフランシスコに日米首脳会談のときはまず行きました。サンフランシスコの犠牲者,被災者の皆さんには心からご冥福を祈り,心からご同情を申し上げます。私はブッシュ大統領にはお見舞電報を打つとともに,「ご要請があれば,できる限りのご協力,対応を準備いたします」と申し上げてあります。

そのサンフランシスコへなぜ最初の日に行ったかというと,それは言うべきことをやっぱり言わなければなりません。そのためには,いままで経験したことの全くないワシントンへいきなり行きいきなりブッシュ大統領と会って,今度の首脳会談は「初めは一対一ですよ」ということを言われましたから,技術的な問題,あるいはそのときのいろいろな手だての問題で,言うべきことが言えなかったらいけないと思って,まずアメリカに着いたら,私の気持ちというものをアメリカの皆さんに率直に申し上げておこうと思ったのが,サンフランシスコの私の講演でございました。

私は,日本とアメリカが食い違った点だけをことさらにあばき合って,ここが違う,ここが違うということを言い合うのは,いまの場合としてはいいことではないと思います。そして西側にある一番大きな問題は,貿易不均衡の問題ではありますけれども,これを直ちに管理主義や保護主義に持っていくようなことは,自由陣営としては大変なマイナスになるわけでありますから,日本はみずからやるねきことはします,反省すべきことは反省しながら努力もしていくけれども,できることとできないことがあるということもどうぞわかってください,そして管理主義だけは絶対やっちゃいけない,ということも申し上げました。

これは皆さん,率直に言うと,日本の国の国技はお相撲であります。パッと勝負がついて,それで皆さんは納得してくださる。アメリカ国民の愛するスポーツのボクシングというのは,三分ファイとして一分休み,それを十五回も繰り返して,途中でダウンしても十数えるうち待っていて,起き上がったら,さあもう一回やろうというのですから,ここにはやっぱり明らかに違いもある。パッと散る桜の花がいいというのと,咲き誇るバラの花がいいというのとは,これは違うのです。けれども,そういう文化や伝統を踏まえて,そういったものを考えながらも,なお人間の自由と民主主義の価値は大切だと認め合っている人々がいたら,仲良く力を合わせて前進していくのが今日ほど大切なことはないのです。

しかもアメリカは,歴史も文化も伝統も,言葉も違う,国も違う人々が集まってきて,そしてアメリカ合衆国として建国をし,そこに自由と民主主義の花を咲かせたという大いなる先駆者でありますから,少々の違いだけを上げつらって,木を見て森を見ないような議論はやめて,信頼関係に基づいて,世界の平和と安定のために汗を流す努力を,それぞれの持ち分に応じてやっていこうではありませんかということを,私は主張してきたわけであります。そういうことによって,せっかく全体に認められつつある日本の立場,日本の責任というものを果たしていかなければなりません。

皆さん,いまや地球というものは,世界地図を眺める平面的な発想では解決できません。地球儀という丸い物体を頭に描きながらお考えいただかないと解決はできません。その証拠に,最近数年間の大きなテーマである「地球環境を守れ」という問題は,東西関係も南北関係もありません。すべてを包む地球温暖化問題の危機や,すべてに降り注ぐ雨が酸性雨となって森林を破壊する問題。水や空気には国境はないのです。ですから,この問題と真剣に取り組んでいこうと思ったら,地球的規模の解決が必要です。麻薬の問題だって,覚醒剤の問題だって,同じことだと思います。

日本はこれらの問題について,できるだけ解決しなければならないということを思いながら,私は過日の所信表明演説の草稿を練っておりましたが,そのときふっと思い出したのが,われらが創設者大隈老侯は,「東西文明を融合し調和させて,世界の平和を目指す」と言われたけれども,あの言葉を今日的に当てはめてみると,こういう動きであり,こういうことであり,私が汗を流そうとしている,その志である外交努力をすることはきっと間違いないのだという信念を私自身も持つわけであります。皆さん,そういうことでこれからも一生懸命頑張っていく決意でございます。

私が総理に就任して,最初に総理大臣官邸に来ていただいた訪問客は,西原総長でございましたそのとき総長が私に持ってきてくださったおみやげは,五巻からなる大隈老侯の書物であり,一枚の色紙でありました。色紙は西原先生の筆で書かれていて,「悩み迷うことあれば,議会政治の精神,議会政治の創始者大隈老侯の精神に帰ればいい」とありました。首相執務室にそれを置いてあります。私はものに迷ったならば,原理原則に帰ろう,大隈老侯の精神に帰ろう,こう決意をいたしました。

老侯の本をいただきましたが,何せ五冊でありますから,早稲田大学出版局によるこんな本ですから,新聞の私の毎日の来客欄を見ていただくと,その本がまだ読んでないということは,どうぞお許しをいただきたいと思うのです。

けれども,一巻だけ途中に附箋の入っているところがあったのです。ここだけ読めということかなと思って,そこだけ開いたのです。大隈老侯は,「樹は上のほうから枯れてくる。上のほうから枯れ始めたら,そこに薬をかけても,その木は助からない。根っこに水をやることだ。根っことは国民のことである。政治家は国民と接触し,国民と語り,国民の声を聞き,根っことの風通しをよくしろ。それが木が甦る根本だ」ということがそのところに書いてありました。

私はそれを読んで,民主政治の基本というものはそこにあると感じます。所信表明演説の中で,政治への信頼回復を訴える中で,民主主義の原点に立ち返って,政治を国民の皆さんに開かれた明解なものにしてまいります。私は,国民の皆さんそれぞれが毎日の生活の中で何を感じていられるのか,その声にできる限り耳を傾けます。私もまたみずからの信ずるところを率直に国民の皆さんに語って,対話を重ねてまいります。清新の気に貫かれた信頼の政治こそ,私の理想とする政治の姿であります,と教えられた。そして大隈老侯が語られたその精神を,私なりにもう一回かみしめ,もう一回咀嚼し,私の言葉で,私の信念として所信表明の中に入れさせていただいたのは,そのことでございました。私はそのとおり実行していくつもりであります。そして暇があれば,それを少しずつでも繰り返してきたつもりであります。

いろいろご批判はあろうかと思いますが,体育の日には国立競技場に行きました。体力テストを一緒になって受けてきました。四十代前半の体力だと言って大変喜びましたけれども,しかしそれよりも,あの待ち時間の間にあそこにいた人々がみんな私に語りかけてくれたこと,私が語ったこと,あの競技場の中でのやりとりは,スポーツを愛する多くの国民の皆さんの率直な声として,私という樹の根っこにずいぶん水が入ったと思います。

ある日曜日,スーパーマーケットへ見に行ってサンマを買いました。買ったら,「海部さん,消費税はやめてくださらない」という声がきました。「ああ,こちらへ来てください。もっとそれを話しましょう。わかってもらいたいことがあるんだ。きてください」と言ったら,その方はいらっしゃらなかったが,そばにいた数名の方々からいろいろ,もっとこうしてほしい,もっとああしてほしい,最後は年金だ,教育だというお話まで際限なく広がっていきました。お話を聞いてまいりました。大変いい参考になりました。

私は来月から,今度私自身が地方覇出て行って,「対話集会」と銘打ってスタートさせたいと思っております。そうして国民の皆さんの声を聞き,「根っこと政治の風通しをよくしていけ」という大隈老侯の考え方を,私の政治行動の中に実践として現していかなければならないと思っております。

早稲田大学に学び,そして早稲田大学に育った,この大きな喜びをかみしめながら,先輩や友人の温かい,差し伸べられた手にすがりながら,言葉に耳を傾けながら,私も精いっぱい,力いっぱいの政治行動を続けてまいりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。