データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 伊東における講演,公正で心豊かな社会の構築を理念に(海部内閣総理大臣)

[場所] 伊東
[年月日] 1991年9月7日
[出典] 海部演説集,671−684頁.
[備考] 
[全文]

 お話を始めるに先立ちまして、雲仙・普賢岳の被災者の皆さんに心からお見舞いを申し上げます。

 私ごとで恐縮ですが、顧みますと衆議院議員に志を立てて選挙を戦った年に、わがふるさと愛知県は、伊勢湾台風によって長期間水没災害を受けました。近くの学校やいろいろなところに選挙区の皆さんが集団で避難生活をされ、そこへ私がお見舞いに駆け回ったことなどを思い起こしますと、雲仙・普賢岳の被災者の皆さんには胸が痛む思いがいたします。一刻も早く、災害がおさまっていくことを心から願うものであります。私も視察に行ってまいりまして、政府としても今度の災害対策にあたっては、現行法規の中で出来る限りのことをまずやり、出来ないことは政令・省令を作り、規制の弾力的な運用等により対処する方針でございます。現在・政府は救援のため三十項目にわたって対処しております。また、党幹部の皆さんとも十分な相談をして基金の制度も作り、災害収束後のあの地域の復興や被災を受けた皆さん方の立ち直りのための資金等、さまざまな問題について、万全を期すための措置をいたします。これは近日中に詳しく発表されることになっておりますが、どうか、被災地の皆さんへのあたたかい友情を心からお願いいたします。

 青年海外協力隊の創設者として

 今日の重要なテーマの一つとして、国際社会に対する貢献ということが言われております。先ほどの討論でも、日本はおカネを出しているが、国際社会での評価は低いのではないかという批判が出ておりました。けれども、党の青年局が作った青年海外協力隊はもう二十数年前から額に汗してアジア・アフリカの開発途上国へ行って、生活を共にしながら、その地域の開発と発展のために積極的な人的貢献を果たしてきたんです。今日まで延べにして一万人に達しております。現在も二千人近くの青年男女がアジア・アフリカの地域で、その地域の発展のために一生懸命汗を流して人的貢献をしているのです。私はいろいろなところでこのお話をしますが、こういうようなことはなかなか世界に伝わらぬようでありますから、日本の青年海外協力隊が今日まで二十年以上にわたって汗を流してやって来たんだということをみなさんも伝えていただきたい。

 中国から協力隊を派遣してほしいと言われ、青年海外協力隊は、数年前からお隣の中国にも行くようになりました。私は党の青年海外協力隊の委員長をやっておりましたから、「開発途上国の発展をお助けするために出す協力隊ですから、私達は中国をむしろ学問や芸術や宗教等いろいろな面で先輩の国と思っています。また中国は、国連の常任理事国でもあり、大国でありますから、開発途上国に行く協力隊を送るのは、かえって失礼かとも思っておりました。また、技術者を送る方法ならいろいろありますから、ほかの方法を提示されたらどうですか」と言ってみましたが、そのとき、中国は、「日本の青年海外協力隊が、アジア地域において果たしている役割は素晴らしくいいものだ。原則を重んじる中国は、いいことはいいし、それが中国のためになると思うならば、あえて開発途上国あての政策であろうとも、いっこうにかまわない。ぜひ派遣してほしい」と言われて、四年前に初めて青年海外協力隊は中国へまいりました。三年前、私がその活躍を見に行ったときも、隊員の皆さんは喜んで受け入れられていて、共に頑張っていらっしゃいました。

 私が青年局長の頃というのは、世界がだんだん分極化し、力の対決・対立を深めていたときでした。私の初めての海外旅行で視察したのが、あのベルリンの壁であったことを今でも忘れられません。ベルリンの壁は、こちらが自由と民主主義、向こうが社会主義・共産主義・統制経済と全く異なる社会体制を守るために二十九年間立っていたようなものであります。両体制を競争させてみたら、どちらが優位か答えがきちっと出たというのが最近の事実であります。自由民主党が長い間歯を食いしばって守ってきた自由と民主主義、市場経済がいまや世界共通の普遍的価値となりつつあるということに、私は皆さんとともに自信と喜びを分かち合いたいと思うのです。そしてその大きな流れの中で、日本はさらにより積極的に、日本の国力の許される枠の中で精一杯の協力をして行かなければなりません。

 先の大戦が終わった時、日本はややもすると、“片隅の幸福国家”を目指しておったように思います。歴史の反省に立って、他国に迷惑をかけてはいけないということを私たちは教わりました。そして額に汗して一生懸命働いて、豊かで幸せな日本を作ろうではないか、ヨーロッパに追いつこう、アメリカを追い越そうを合い言葉にお互い歯を食いしばって頑張ってきました。そして、日本はいまや大きな経済力を持つ国になり、好むと好まざるとに拘らず世界の片隅でひっそりしていることは許されなくなってきました。世界に期待され、その期待に応えなければなりません。

 十年ぐらい前でしたか、私は「世界とともに生きる日本」というテーマで党の研修会でお話させていただきました。その頃からふと疑問に思うことは、「世界とともに生きる日本」と言いながら、世界で起きていることに対してあまり口や手を出したりすることはいけないのではないか、人に迷惑をかけないで謙虚であらねばならんのではないかという考え方と、世界が日本に期待することの考え方にズレがあるのではないだろうか、ということでした。

 私たちは、自由主義体制を選んだときから、安くて便利ないいものを国境を越え民族を越えて世界中に売ることが自由貿易の良さだと心から感じて働いてきました。けれども、それが十年ぐらい前から貿易摩擦ということになって、「わが国に失業者を生んだ」「わが国の産業をつぶした」という問題が起こってきたことは皆さまご承知のとおりであります。世界とともに生きるということは、国際的に共通する秩序やルールに従って生きていかなければならないということがはっきりしたわけであります。

 最近の事象に当てはめて言えば、日本は世界に貢献しなければならないと、よく議論もしてまいりました。われわれが青年海外協力隊を作ります時も、世界に奉仕するのか、貢献するのか、いろいろと議論がありました。けれども、さすが自民党の青年局です、これは貢献するんじゃない、協力するんだということで「青年協力隊」という名前でスタートさせてここまでやってきました。

 最近ややもすると、「貢献する」という言葉が定着し始めましたが、各国の議員と話をしていると、「貢献するというからには対象があって、その動きを見ながら、日本はこれだけ余力があるからこれだけ出そうかとか、これだけのことをしようかというのでは距離を感じるではないか。それよりも、中へ入ってきてどうして一緒になって役割分担をしてくれないんだ」と言うわけです。英語で言うとバードン・シェアリングと言いますが、私はそれ以来、対外的には世界の平和や繁栄のために、どんな役割分担ができるかということを常に考えながら、国内的には公正で心豊かな社会を作ることを理念に掲げて内外の政治に取り組んで来たつもりでございます。世の中はどんどん変わってまいりますから、それに対応するときに、私は必ずその二つの理念に照らして自分の政策決定や行動の基盤にしてきたつもりであります。

 ソ連クーデターに揺れた激動の日々

 皆さん、最近は非常に世の中の移り変わりが激しくなっております。この間までは、去年の今日は何をやっていたかなとよく考えたものですが、もう一年前どころではありません。今日もここへ来る途中、一か月前、自分は何をやっていたかなと手帳を開いてみました。一か月前の今日は、臨時国会が始まり、施政方針演説が済んで野党の衆議院における代表質問を受けていた日でございました。最初にお話しました雲仙・普賢岳の災害問題から始まって、野党の質問の中には証券問題がまず冒頭に出てきておりました。私は政治改革のためにお願いした臨時国会でしたが、証券不祥事が出てきたことは、国民の皆さんの大きな批判や解決しなければならない大問題だから、これが先に来るのはやむを得ないなという思いでありました。国会はお盆休みに入り、私は中国、モンゴルを訪問し、いろいろと話をしてまいりました。中国とは、アジア・太平洋のために今後、日本と中国が力を合わせてやって行こう。そして、間違ってもイラクのような国が再び地球上に出ないために、日本としては世界に向かって核兵器、生物兵器、化学兵器、大量兵器の移転を禁止すること、そして核不拡散条約に入っていない国は入ってもらうこと、通常兵器の移転をしたときは国連にこれを登録しておくこと、そのような制度について世界の平和のために、アジアの一角から日本と中国がともに手を携えながらこれらのことを片づけようではないかという話し合いをしてまいりました。

 いよいよ国会が再開され、予算委員会が始まり、政治改革の問題でしっかりと国民の皆さんや党員の方々にも訴えなければならないと考えておりました。そんな折、八月十九日にソ連のクーデターの第一報が飛び込んできました。ちょうど政府与党首脳会議のまっ最中でしたから、党の幹部の皆さんも政府側の首脳も皆いるところです。

 ご承知のように、この第一報は「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で退陣する」というものでした。私は、この四月の日ソ首脳会談でゴルバチョフ大統領と向かいあって延々十三時間、予定を二倍に延ばして六回も首脳会談をやり、私と同い年の大統領は健康上の不安など、みじんも感じさせませんでした。そのことが頭をかすめておりましたら、全ソに戒厳令がしかれたというニュース。健康上の理由で辞めたのに戒厳令とはおかしいなと、テレビのスイッチを入れたら、ロシア共和国の周辺がどうもあやしい。その晩、さっそく安全保障会議の関係閣僚懇談会を開いて情報をとりました。

 ブッシュ大統領から電話がかかってきて、「何か分かっていることがあるか。自分のほうもゴルバチョフが今どこで何をしているかも分からない。生きているかどうかも、いろんな情報が飛びかっているが、とにかく二大勢力の対立をここまで緩和の方向に導き、冷戦時代の発想を乗り越えるためにリードしてきた人だから、この方向が逆戻りしないように懸念している」ということでした。これに対して私も、「ソ連の民主化と経済の自由化に対してわれわれも大いに期待し、これが世界の平和につながっていくようにサミットでも話をしてきたばかりでありますから、なんとかこれがいい方向に決着していくように願っている」と伝えました。

 私は、このような憲法違反の疑いの極めて濃い、異常な事態の中で行われているソ連の出来事には深い懸念を表明して、同時に四月に取り決めましたいろいろな対ソ緊急支援もこの状況では止めざるを得ない。力でもって政権をひっくり返すクーデターを許してはならないということで、翌朝、予算委員会でそのことを述べるとともに、予算委員会終了後、記者会見をして日本政府の考え方を表明しました。

 市街に戦車が出動する異常事態の中で、エリツィンさんとなんとか連絡を取って電話をつないでくれと言ったんです。そしたら二十一日に、エリツィンさんと連絡が取れ、電話が通じました。私はそこでエリツィンさんに「あなたの姿をテレビでも見ているし、あなたの行為はわれわれも高く評価する。頑張ってくれ」と申し上げた。そのとき、エリツィンさんは「ゴルバチョフ大統領がどこにいるか分からないが、たぶんクリミアにいるだろう。そこへ八人の国家緊急委員会のメンバーが行っているようだ。そこで大統領辞任の署名でもしてしまうのではないかと非常に心配している」ということを言われた。私は「人道上の立場からも、ゴルバチョフ大統領の生命の安全のためにも、ロシア共和国の大統領として全力を挙げて対処してほしい」ということも申し上げました。翌日ゴルバチョフ大統領はモスクワへ帰ってきたという報道があり、私はもう一度、モスクワの日本大使館を通じて、ゴルバチョフ大統領と電話をいたしました。

 そういったことをいろいろ考えてみると、いまソ連が長い長い歴史の流れの中で、力による対立・対決から冷戦構造の発想を乗り越えて、自由と民主主義と市場経済の価値の方に移行しつつあるという状況を非常に歓迎いたしますし、この動きを期待いたします。

 現在、ソ連邦と共和国との関係がいろいろ言われております。これはソ連の国内問題でありますから十分な話し合いの中で、ゆるやかな連邦国家になるのか、あるいは共和国の主権を代表する連合国家になるのか、いろんなことが不確定要素として言われております。しかし、経済や国防といった問題については、連邦が一つの国家としての指導力と枠組みを維持しながら、世界の平和と安定、繁栄のためにやっていける国であるように心から願っており、そのために日本はできるかぎりの協力をして行きたいと考えております。

 対ソ経済援助については、G7全体でも協力しますが、日本は二国間で技術支援や人物交流の協定、北方四島との自由往来の協定など十五の協定を結んでおります。拡大均衡の方針でこれらを進めるとともに、緊急食糧援助とかチェルノブイリのような災害に対する緊急の医療援助に対しても、できるかぎり支援し協力をしてまいります。

 ただ拡大均衡の方策の中で進めていくんですから、私とゴルバチョフ大統領が共同声明で明らかにしたように領土問題を解決し、平和条約を結んで、真に信頼できる友好関係を作り上げていこうという大きな目標については、一義的に大切な問題として平和条約締結交渉を加速していこう、この問題の解決もともにしていかなければならないということを強く希望して、今後とも連邦政府にも共和国政府にも働きかけていこうと思っております。どうか皆さんもその立場というものを、基本というものをご理解のうえ、挙げてご支援をいただきたいとお願いを申し上げる次第であります。

 ルールを守る社会が公正な社会

 次はあまり楽しいご報告ではありませんが、証券不祥事は連日報道されたとおりでございます。公正な社会の理念から言って、どうしても公正でない、不公正だというご批判やご指摘が皆さんから出ていることは、政府の責任者としても率直に受け止めなければなりません。同時に、大蔵省も今日まで通達を出したりといろいろ指導もしてまいりました。あえて言わせていただくと、にも拘わらずあのようなことになったということを、私は厳しく受け止めておりまして、大蔵大臣にも厳重に対処するように即座に要請もいたしました。直ちにやるべきことは、なぜ通達が守られなかったか、どこに抜け穴があったのか、どこに弱さがあったのか、今度の体験を反省して、大蔵省自身としてもやるべきことは厳しくやらなければなりません。

 同時に通達というのはわかりにくいルールだと言われておりますが、わかりやすいルールであるところの証券取引法という法律があるのですから、例えば一任取引とか、いろいろな問題が指摘されてきたならば、損失補填ということも法律的にやってはいけないということをきちっと決めたらどうか。それはルールを守る社会が公正な社会なんだということがいま盛んに望まれているのですから。

 同時に、私は新行革審の鈴木会長に対しても検査機構や検査体制など、国民の皆さんが納得されるような証券業界にしていくためにはどうしたらいいか、新たな監視体制の仕組みも含めて行革審でもご議論下さいとお願いしております。この監視体制について、よくアメリカにはSECがあるじゃないか、イギリスにもBISという制度があるではないかと言われています。けれども、どちらもそのままでは国情の違いや証券会社の数の違いがあるなどいろんな問題がありますので、どうすれば日本に最もふさわしい制度ができるのか、これは広い次元に立ってご議論願い、答申を下さいとお願いしたのであります。金融証券市場というのは戦後の日本をここまで成長させ、引き上げ、発展させるために大いに力になってきた仕組みで、また、同時に世界の三大証券市場の一つになっております。

 今ここで証券市場が、このような不祥事件によって全部ダメだと言われて否定されたり、つぶれたりしたら、せっかくここまできた日本の経済力の基盤というものがどうなるんだろうかということを、逆の意味から私は心配いたします。正すものは正して、法律を作ってでもルールを決める。そして監視機関、監視機能というものをヨーロッパやアメリカでやっているようにきちっとした監視・監督ができるような検査機構を作っていく。そうしなければ、国際化時代に日本の市場のみならず世界経済にも大きな影響を及ぼすことになり、国際的な関連性の中でその責任を果たすことができません。

 ひところ、アメリカがクシャミをすると日本は風邪をひくということが新聞に書かれた時期もございました。今日では、大きく分けて世界の二十兆ドルという総生産の中でアメリカが大ざっぱに言って約五兆ドル、ヨーロッパ・EC全部で五兆ドル、日本一国で三兆ドルというのですから、その持っている力も影響力も大きいわけです。また、世界の三大証券市場の中で日本はその三分の一を占めているわけです。

 これらの自覚と責任に立って、今回の証券不祥事は国内的には公正な社会を維持するという理念を立てるために、国際社会の中においては世界に共通のルールの中で日本も共に生き共に協力していくんだという姿勢をきちっと作っていくべき大切なときにきていると思います。証券不祥事の問題については国会における一連の議論を厳しく受け止め、二度と再びこのような不祥事が起こらないようにしたいと念願しております。

 戦後日本の経済政策の光と影

 戦後の日本の金融財政政策を見てきますと、一九七三年に第一次オイル・ショックのとき財政が出動いたしました。赤字国債を発行してそのショックを和らげて、なんとか景気が維持されていくように、国民生活に悪い影響がこないように防波堤の役をしたのが財政でありました。今その赤字公債の発行に頼らないで済むような状況にまできたところであります。

 昭和六十年の「プラザ合意」という言葉を覚えていらっしゃると思いますが、国際収支のアンバランスが問題化する中で大変な円高を迎え、間違っても国民生活、お台所の経済に悪い影響を与えてはいけないというので、あの時踏み切ったのは財政の出動ではなくて金融政策で対処をいたしました。

 私の記憶に間違いなければ、当時「ミゼラブル指数」という言葉がありました。すなわち失業率と物価の上昇率が人間にとって一番気の毒な数字だというので、ミゼラブル指数というのがあった。この二つの指数が集まって二〇・七パーセントとなったために、アメリカでもカーター大統領は選挙でレーガン大統領に敗れたわけです。フランスではジスカールデスタン大統領がミッテラン大統領に選挙で負けたときは、フランスのミゼラブル指数は二〇・八パーセントになっておりました。失業率と物価の上昇率を絶対に低く抑えておくことがそのときの政治に求められる政府の責任だというので、あの時は円高に対処するために、失業者を増やさないように、物価を上げないために、政府は金融政策に真剣に取り組んでまいりました。

 同時に、世界の中で日本だけが貿易の帳尻がうますぎる、構造を改善しろというので、「前川レポート」が指摘したように経済構造も徐々に改善されていきました。そのため金利を下げ、景気を刺激して失業者をつくらないように、物価を上昇させないように、大変努力をしてきたはずであります。ですから日本の最近の物価と失業率の上昇率は、両方あわせても五パーセント台のところであります。G7の国々は、ほとんどいま一〇パーセント前後となっているわけですから、これからいっても優等生だと言って言い過ぎではないと思います。ドイツには東ドイツを抱えたという特殊な事情があるでしょうけれども、輸入もどんどん増えてくる、失業者が増える、いろいろな問題をかかえております。

 そういったことを考えますと、それは日本の経済政策の光の面かなと思います。しかし物事には光の面があると同時に影の面もございます。今の証券金融の問題は、土地の値上がりとともに「バブル経済」という言葉まで生んだ。これは最近の金融政策のもたらした影の面であったと思います。この影の面というのは、われわれは率直に反省していかなければならないものであります。

 政治というものは、その時のすべてを責任を持って受け継いで、いいことは繰り返す、よくないことは繰り返さないようにしていかなければならないという大鉄則に従い、せっかく失業率と物価安定のうえにおいては世界の優等生であるならば、光の面はもっと伸ばし、同時に内外価格差の是正にも努力しながら、影の面であったバブルの問題、そして金融証券界が明るい活力のある体質へ向かっての改善作業に全力を入れなければならないのは当然のことだろうと受け止めております。

 政治改革による公費負担の実現を

 次の政治改革について、簡単に要点だけ申し上げますが、われわれが三年前にさかのぼって反省すると、あのとき党・政府の実力者の皆さんが厳しく政治改革の必要性を考えて、わが党が「政治改革大綱」を作り上げたのが三年前の五月でありました。そして当時、自由民主党政治改革推進本部と言っておりましたが、私もそこの行動隊長になって政治改革を訴えて全国を回っておりました。参議院選挙のときは全国の重点地区へ応援にまいりました。「自民党は生まれ変わります。政治改革をします。国民の皆さん、どうか信頼を自民党に与えてください」と訴え、国民の皆さんからは「自民党よ、しっかりしろよ」と半分お叱り、半分激励をいただきながら戦った参議院選挙でしたが、結果はご承知のとおり厳しい状況でありました。

 自民党で総裁に選ばれても、総理大臣の指名がもらえるのは衆議院だけで、参議院では、ほかの人が指名をされた。それがあの参議院選挙の厳しい結果であったんです。あのとき痛切に感じたのは、われわれの政治を改革する上で、ズバリ申し上げると政治とおカネの関係をわかりやすく、きれいにしろという世論の指摘であったと受け止めております。

 今日は率直に言うことをお許しいただきたいと思います。わが党の勇気ある若手の議員が、政治研究会を作って一年間幾らおカネがかかるだろうという数字を発表したものが当時新聞に詳しく載りました。平均すると、選挙のない年で一億二千万円かかると出ているんです。私はそんなにかかるはずないとよく調べたところ、私のところでも実はかかっておりました。なぜそんなにかかるんだろうかと細かく分析して見ますと、例えばアメリカならば下院は十八人とか十九人とか必要な秘書やスタッフは全部国が面倒を見てくれますが日本は議員秘書は二人しか認められていないので、それ以上抱えているスタッフの費用もいるわけです。また、選挙区の皆さんにいろんなことを通知するにも、みんな個人で選挙事務所を作り、後援会を作ったりするわけです。これを政党の支部がやってくれたら、切手代も、新聞代も助かるがなと、正直にそう思います。

 自民党には「自由新報」といういい新聞があります。担当者の皆さん、怒らずに聞いといてください。あの「自由新報」に顔写真が載ったり活躍ぶりが出るようになるのは、当該選挙区の一部の人じゃないでしょうか。「自由新報」を配ろうと思っても、オレの顔写真もオレの名前も載っていない、というようなぼやきにも似た声を聞くことが私どももずいぶんございました。そして国から出るおカネは、いま二千数百万円です。一億二千万円のおカネをどこでどうやっているのかと率直に聞いたら、結局は励ます会をやったり、後援者のところを回ったり、皆さんもご協力願っているかもしれない。そうやってみんなから集めて使っているのだという話です。

 そのたびごとにいろいろな批判が起こったり、国民の皆さんから、政治家は天文学的な数字のおカネを使っているじゃないか、政治家ばかりうまいことをやってなんだと言われないために、必要なおカネは公費が負担するようにしたらどうでしょうか。個人でも一定分は必要でしょう。それは仕方がないことですが、必要以上にムチャクチャにいるとはどうしても思えない。どこに原因があったのかを掘り下げてみると、同じ選挙区から複数の自民党候補が出て争うところに原因があるわけです。

 真の政策論争実現のための選挙制度改革

 一昨年のこの会合で、幹事長は、「いま選挙制度に手をつけないとダメだ。根本の政治改革にはつながらないぞ。だから選挙制度そのものを変えてやっていこう」という挨拶です。総務会長は、「小選挙区制の導入が急務である。比例代表制を加味することによって小数意見の上程、民主主義のための制度になるんだ」とおっしゃる。政調会長は、「現行の中選挙区制を小選挙区制に移行する決断が必要なんだ」といろいろおっしゃっている。もっと先輩方でも、私がまだ青年局長の頃の座談会で、椎名悦三郎先生と対談したことがありますが、椎名先生は「選挙区にカネと時間をとられすぎているような政治ではいけないから、私は小選挙区制が必要だと常に強調しているのだ」とすでにおっしゃっておられる。同じ座談会に出席していた私もそのようなことを言って、「議会制民主主義は政党政治のはずですけど、今は政党政治でなくて個人政治で、自民党のはずですけど自分党になっているから、もうちょっと党が面倒見てください」と言ったことを覚えております。安倍晋太郎先生も「組織も党のものがなくて、議員個人のものだ。中選挙区制では自民党同士の足の引っ張り合いにカネがかかるんだ。党対党にしなければならない。党対党にするためには、小選挙区制にしなければならない」と。小選挙区制になるとカネがかかるという人があるが、小選挙区にしたって、かからないようにすればかからない。先輩がずっとおっしゃってきた。

 政党と政党が、政策と政策で本当に争い合うようなことが議会政治の中では大切なのではないでしょうか。ただ、今の制度・仕組みですと、全国で百三十選挙区があります。全部の選挙区に候補者を出して一人ずつ当選したって百三十人ですから、絶対政権政党にはなれないのです。政権政党になろうと思ったら、どこの政党でも同じ選挙区で三人、五人と立てなければならないわけです。それがいかに厳しいかということは、野党の方がいらっしゃらないところで言うのは悪いけれど、昨年二月の衆議院選挙のときに、「政権をとろうと思うならば過半数の候補者を全国の選挙区で立てることが責任ある政党のとるべきことじゃないですか。初めから少ない候補者数を立てておったのでは、万年野党を自ら宣言するようなものじゃないですか」と私は言ったのです。どの政党も今の仕組みで政権をとろうと思えば、自由民主党がたどってきたと同じ厳しい道を歩まなければならない。政策の同じ者同士がほかのことで議論しなければならないというのは労力とエネルギーのムダになることも、この際もう一度原点に立ち返ってお考えいただきたいと思うのです。

 長年、慣れ親しんだ付き合った選挙区の人とお別れしたり、一時は厳しい血の出るようなことがあるかもしれません。そうであっても、今度は比例代表制の方でも並立制ですから、今の自民党のように、みんなが頑張って比例区の比例代表制でもたくさんの票が預ければ、仮に半分と決めれば八十五、六席が比例代表で選ばれます。全国規模で国全体のことも考えながら政治をやって下さる人々、三百の小選挙区にはりついて政策論争をやりながら票を得てくる人々、つまり第一のルートで国会議員になる人と、第二のルートで国会議員になってくる人と両方合わせて自由民主党の活力にしていこうというのが、今度の国会に提案してある政治改革三法案の狙いであります。私は世の中が変わろうというとき、明治維新のときに廃藩置県がありましたが、あれが日本の近代国家への大きな大きな第一歩であったということを思います。選挙制度審議会が五百人といっても、自由民主党は四百七十一の原点まで下げようといって自ら進んで血の出るような定数削減を考えたのも、真剣に国民の皆さんの信頼を取り戻したいという自由民主党の願いからであります。

 同時に、よく議論になる一票の格差を一対三ではルーズではないか、憲法違反ではないかという指摘にこたえて、原則一対二にしようというので大いに苦労し、努力をしてまとめたのが、選挙制度審議会が作りました案です。党も去年の十二月と今年の五月に政調会、総務会でいろいろ議論の結果、法案大綱を作ることを了承し、それを受け政府は一か月がかりで法案を作って提案をしているのであります。

 ですから、公正なルールを作り、公正な社会を作っていくために、同時に国民の皆さんから、よくやっているなと言っていただけるような公正で分かりやすい、きれいな政治とおカネの関係を打ち立てていくためにも、越えなければならないのが今度の政治改革だということを、ここでもう一度皆さま方に心からお願いを申し上げる次第です。また、国際社会に対して平和維持活動のために日本が何ができるかという問題についても、この国会中になんとか成案をまとめて各党のご理解を頂いて努力をして行きたいと考えております。皆さま方のわが党に対する一層のご理解とお力添えを心からお願いを申し上げます。