[文書名] 故田中角栄氏に対する細川内閣総理大臣の弔辞
本日、ここに田中角栄先生の御葬儀が、先生を慕う多くの人々に見守られて執り行われるにあたり、慎んで御霊前に弔辞を捧げます。
さきに行われた総選挙で初当選された長女真紀子議員とともに地元新潟に帰られた先生のお元気なお姿をテレビで拝見したのはつい先日のことのように思われますのに、今、このような形でお別れの言葉を申し上げなければならないことは、誠に痛惜のきわみであります。人生必ずしも長きが故に緊密で、充足したものとは限りませんが、七十五歳にして逝かれた先生にはまだまだご教示いただきたいことがたくさんあったのにと残念でなりません。
先生が政治家として歩んでこられた道のりは、我が国が戦後の荒廃から立ち上がり、今日の豊かな社会へと発展するための礎を築きあげる、まさにその歴史の過程でもありました。この間先生の豊かな創造力と類稀な行動力をもって示された足跡は、枚挙にいとまがありません。特に中国との国交正常化は、先生の手によってはじめてなし得られた歴史的事業でありました。先生は常々、外交は不得手と口にしておられましたが、自ら描いた外交のグランドデザインに基づいて、まず日米を固め、しかる後に日中を正常化し、さらに日欧接近を図り、そしてソ連に乗り込んで領土問題をはじめ日ソ交渉の道筋をつける、というように手順を踏んで的確に手を打っていかれたその外交手腕は、やはり先生が並はずれた戦略家であったことを示すものであったと思います。また、例えば、ベトナム戦争に対するアメリカの介入について、つとに「見返りのなさすぎる戦である」と喝破しておられたことなども先生の優れた外交戦略家としての一面を表すお言葉として私の脳裏に刻まれております。
都市も地方もへだてなく全ての国民が豊かさを享受できるようにすることは、先生の生涯にわたる悲願でありました。様々な評価はあるにしても、日本列島改造計画は、国土の均衡ある発展、多極分散型の国土の実現を図っていくうえで、極めて大きな意味のある問題提起でありました。それがその後、全国総合計画として受け継がれ、また、地方の時代、地方分権という形で、今日の重要なテーマになっていることは改めて申すまでもございません。次々と打ち出された国土政策立法をはじめ先生のユニークな発想は今日もなお新鮮さと魅力を持ちつづけており、今あらためて国土や税財政のあるべき姿などについて、先生のくめども尽きぬお話をもう一度じっくりと聞かせていただけたらなあとかなわぬことを考えるのはひとり私だけではないと思います。
先生の御功績は、こうした内外の課題に傑出した才能を発揮されたというに留まりません。先生は、政治の道を志す者に対し、困難に立ち向かう勇気を説かれ、それを鼓舞することにより、若い政治家の育成に心を砕かれました。
思いおこせば、私自身、昭和四十三年新聞社を退社して政治への道を志したとき以来、住まいが隣組みというご緑もあって、折りにふれて先生から政治の何たるかをご教示いただき、激励をいただいてまいりました。初対面の時から私は何よりも先生の人間味、男の愛敬とでも言うのか、その率直さ、飾り気のなさ、強い説得力と思いきりのよさ、情もろいところなどなどに魅かれて参りました。先生が総理であられた時には、官邸の守衛さんや用務員さんなど目立たぬところで働く人達の名前までいちいち記憶して何くれとなく言葉をかけられ、心憎いばかりの気配りをされたということも、多くのこれに類するエピソードとともに、先生に接した多くの人々の心にいつまでも先生に対する敬慕の思いを灯し続けていくことでありましょう。こうしたことは先生の人生経験からにじみ出た自然の振る舞いであり、余人にはまねることのできないところでありました。先生の政治家としての歩みについては、様々な意見がありますが、私は先生のような人間的魅力あふれる政治家に薫陶を受けることができたことに深い感謝の念を禁じえません。
いま、我が国はまさに大きな時代の変化のうねりの中にありますが、先々の日本のために全力を尽くしてこれに挑戦し、文字通り「改革」をなし遂げることこそが、先生の御遺志に報いる途であると確信し、決意をあらたにする次第であります。
ここに先生の在りし日の面影とその人となりを偲び、心よりご冥福をお祈り申し上げてお別れの言葉といたします。
どうぞ安らかにお眠り下さい。