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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 日本新聞協会第六十六回総会における羽田内閣総理大臣の挨拶

[場所] 
[年月日] 1994年6月15日
[出典] 羽田演説集,70−81頁.
[備考] 
[全文]

 今日は皆様の貴重な時間をちょうだいいたしまして、お話を申し上げる機会を得た訳でございます。

 私、ほぼ一年前になる訳でありますけれども、六月十八日でありますね。万感の思い、これで私自身お世話になった宮沢内閣に白票を投ずる、いわゆる不信任案に賛成の一票と投ずるということをやらざるを得なかったということであります。これは私の偽らない気持ちで、宮沢総理にはもうごめんなさいと、お許しくださいと言いながら一票を入れたのが私の本当の気持ちでありました。

 ですから、いわゆる政策とか、あるいは個人的な関係ですとか、そういったものではなくて、あそこで政治改革をだめにしてしまった、あるいはそれがただそのままだめになっていったということであると、あのときの状況からいくと、本当に日本の国はおかしくなってしまうという思いで実はそういうことをやりました。

 結果として、私ども選挙に臨み、そして、これは各党合わせて勝利を得たということのために、新しい政権が誕生したことは御案内のとおりであります。

 私はこの状況というものを改めて冷静に見詰めたときに、世界中があのときに動いておりましたですね。そして、どこの国でも大統領が新しくなる。あるいは首相が新しくなるという動き、これが世界の趨勢であった。変わらないとしても、変わる可能性があったというのは、どこの国でもの状況であったろうと思っております。その意味で、私はこれは歴史の必然であったと考えております。

 これは私は変な言い方をするものですから、誤解もされますけれども、私は二十数年間自民党の中にあった人間で、しかも、割合と中核を歩ませていただいたということでありますから、保守がりがりと言ってもいいのかもしれません。その者と、これに対して真正面から反対しておった社会党と私たちが一緒になったということであります。ですから、生まれと育ちが違う政党、これは公明党、民社党も、やはり私たちとは異なっておったということでありましょう。

 しかし、この異なっておったものでありますけれども、やっぱりポスト冷戦というときから大きく世界が変わってきている。例えばロシアは、エリツィンさんは少なくともつい最近まで、ソ連共産党の大幹部であられた方でありますけれども、まさに市場経済を目指して動き、しかもアメリカと手をつなぎながら世界の新秩序を模索しようなんていうことを話し合っており、そのときに日本だけが古い、ただ、イデオロギーだけの争いをしていていいものではないのではないか。そんなことを社会党の皆さん、その他の皆さんともお話合いしながら、新しい政治を進めようということで、お互いの垣根を越えて、ひとつ連立を組もうではないかという中で、細川内閣を成立させたということであろうと思っております。

 私はこの経験というものは、やはりこれも必然であって、いずれの日か、この道をたどらなきゃならなかったんだろうと。やっぱり一つの政権がずっと続いている中で、これを改革しよう、改革しよう、私たちも何回も実は自民党の中でやりましたけれども、そのときの会議の席ではそうなりますけれども、実際にそれは動いていかない。あるときには仕組みを作りましても、半年か一年の間に、すっとまた今までと同じようになっていってしまうという経験を重ねてきた訳であります。

 そこにいきますと、全然違う者同士が集った訳でございますから、そして、何かを、いやでも限られた時間の中で物事を処理していかなければいけなかったということで、お互いののりと言いますか、垣根というものを越えることが、私はできたんじゃないのかと思っておりまして、この八か月間の歩みというのは、日本の新しい政治というものを作り出す一つのきっかけになり、しかも、そこでやってきたことは、新しい日本の方向を示したものであろうと考えております。

 従来、私たちが自民党にありましたころは、今、議論しておりますPL法というものについては、どちらかというと足踏みをしていた方でありました。

 また、情報公開の問題についても、どちらかというと足踏みをしておったんじゃなかろうかと思っております。

 そしてまた、社会党、その他の党の皆さんとも、税金の問題というのは、真正面から議論するということは、あるいは安全保障問題について、真正面から、同じ土俵の中で議論するということは、なかなか出来得なかったということでありますけれども、しかし、今度の場合には、いやでもしなければならないというところに、私は一つの価値があるものであったろうというふうに認識をいたしております。

 しかし、私ども、残念でしたけれども、細川さんがああいうことで退陣されたということは、本当に残念なことに思っております。

 そういう中で、私自身が総理というような立場になると、私は何も別に、自らがへり下ってとか何とかという、あるいは遠慮して物を言っている訳じゃないんですけれども、本来、支えることの方が得意であるということ。その代わり支えるときには、相当強引にでも走っていったり何かする訳でございますので、そちらの方に対して、私は自らの一つの使命感を持った人間でありました。そこへもってきて、自民党の中にあった私が、また政権の座に就いてしまうということでは、なかなか本当の政治が変わらないということを、実は十か月前にはそう言いながら、細川さんをお願いしたいという経緯があるものでございますから、本当に思いも掛けない中でこういう立場になったことでありました。

 しかし、私ども、いつまでもそんなのんきなことを言っている訳にはいかない訳でありまして、総理になった以上は総理になった責任を果たしていかなければならない。今、改めてその責任を感じながら、務めておるということであります。

 ただ、不幸な経緯から、少数与党、その上に乗った脆弱なと言ってもいいと思いますけれども、政権でスタートをせざるを得なかったということ。これも大変残念なことだと思っております。

 しかし、私は考えますのに、今、私の前に立ちはだかる問題と言いますか、内外の問題で山積していること。これは後ほど簡単に申し上げますけれども、これらの問題というのは、だれがやっても、例えば自民党政権になったとしても、あるいはほかの方が政権を、連立政権で担当されるようになったとしても、多数の政権でやるにしても、小さな政権でやるにしても、これは避けて通れない問題であるということでございます。

 そういったことで、私も覚悟しながら、誠心誠意を持って各党に訴えていくならば、私はこれらを成し遂げることが出来るだろう、確信を持って今、進めておるということを申し上げたいと思います。

 私はこの内閣の使命というのは、やはり時代の変化というものを踏まえながら、やっぱり戦後始まった、スタートしたものが基になりながらこの五十年間を歩み続けてきた訳でありますし、あるときには戦前のものも抱えながらあるということだろうと思っております。

 その意味で、政治、あるいは経済、そして行政、こういったものの改革路線というものは、これは私ども引き続きしっかりと進めていかなければいけないだろうと思っております。

 そして、もう一つは、新たな安定した政治というもの、これを作らないとやっぱり経済、社会というものも確立することがないだろうと考えておりまして、今はまさに過渡期でありますけれども、私はこの過渡期、あるいは政界再編ということからいったら、まだ揺籃期、普賢岳は爆発しましたけれども、まだ少しずつ噴火しておりますし、あるいはまた噴火するんじゃないのかと言う学者の方もいらっしゃる訳でありますけれども、まだ揺籃期であろうと思っております。

 これに対して、やっぱり日本の中では批判もありましょうし、それから不安というものもある訳でございますけれども、これはやっぱり世界のどこの国を見ましても、まだまだなかなか変革はしたけれども、安定しているという状況ではない。やっぱり一つの時期というもの、少しの期間というものは必要とするんだということ。これは是非ひとつ認めていただきながら、我々の行動というものを見守り、また、これはおかしいぞということがあったら、示唆していただきたいということをお願いを申し上げたいと思っております。

 そして、いずれにしましても、私たちはそういうものを経て、安定した政治をつくり、そして日本の目指すべきものをこれから模索していきたいと思っております。

 なお、第三番目に申し上げるのは、太平洋戦争が終わって、ちょうど五十年を来年に迎えるということであります。私は宮沢内閣のときには、ちょうど真珠湾から五十年を、たしか十幾日後に迎えるということだったものですから、是非ここでひとつその総括をやっていただきたいという話をしたんですけれども、残念ですが、余り総括というところまではいかなかったということであります。

 ですから、細川内閣がスタートするときには、これは是非ともひとつ所信表明の中でも明確にひとつ述べていただくということをお願いいたしました。

 というのは、やっぱり、山崎豊子さんの『大地の子』それから、『青い空』という小説、これは今、お名前をちょっと失念いたしましたけれども、浮浪児の問題を書いた本でありますけれども、その他、幾つかの本を読んだり、あるいは多くの方々と話し合っているときに、やっぱり戦争というものに対する、あるいはそのときに戦争が終わった後の政府に対する総括みたいなものが行われていると思いました。これは決して何もイデオロギーを異にする人じゃない。山崎さんにしても、その『青い空』を書いた人でも、そういう人じゃない。にもかかわらず、やっぱり戦争、戦後というものに対して、総括しておるんだと思います。

 やっぱり東条さんは東条さんとして、あのときに必要だと思ったんでしょう。あるいはそのほかの指導者の方はそうだと思ったかもしれない。しかし、戦後五十年経ったときに、それじゃあんな犠牲を冒してまでやってよかったのかというのは、これは大変議論があるところだろうと思いますし、また、そのことによって、非常に耐え難い苦しみ、悲しみ、痛み、これをいろんな国の人に覚えさせてしまったということ。これはやっぱり私たちは取り返しのつかないことであったと思い、率直にやっぱりわびること、これが大事だろうと思います。

 陛下がお出掛けになるときに、あるいは外国からお迎えしたときに、必ずお言葉というのを一体どうしたらいいのかということをいつまでも議論しているということは、私はこの国のためにとってよくないと思います。

 こういった言い方をしますと、亡くなった方を冒●するという言葉がありますけれども、私は冒●なんかしているつもりはありません{●は2つとも、さんずいに賣/トク}。あのときの、またこれも誤解されやすいので、なかなか言いにくい訳でありますけれども、いずれにしても、あのときにああいう決断をして戦争した。そして、国民にもあるいは外国にも大きな犠牲を及ぼしてしまったということ。

 しかし、そういう犠牲があったことを私たちは踏まえながら今日の平和の歩みというものをすることになったんだろうと思っております。

 その意味では、やっぱりこれをきちんと総括しておくことが必要であろうと思い、反省するところは反省し、わびるところはわびる。その姿勢で進むことが日本の国がアジアの中にあっても、いろんな発言をこれからしていくことが出来るだろうし、また、アジアの皆さんと一緒に行動する、あるいは世界の皆さんと一緒に行動することが出来るだろうと思います。

 植民地については、その問題についてわびるというのもおかしいんじゃないかという議論があることは私はよく知っております。しかし、一つの国を植民地化したということ、私は必ずこれは歴史でいずれの日か問われるものであろうというふうに思っておりますし、一つの民族を、よその民族が蹂躙{じゅうりんとルビ}してしまったということは、これは私はわびることに対して恥ずるよりは、むしろ誇りにすべきだろうと、また、勇気であろうと私は考えておりまして、そんなつもりでこれからも対応していきたいと考えております。

 そういう中で、私どもは信頼、これを各国から受ける。そういう中で、むしろ今まではどちらかというと、アメリカが、ヨーロッパが、言ってくれるから日本は動きましょうということが割合と多かったんですけれども、そうじゃなくて、そういったことを済ました後は、きちんと言うべきことは言う。そして、協力すべきことは協力する。むしろ積極的な私は外交というものを展開していくことが必要であろうと考えております。

 さて、私どもの政治姿勢ということでありますけれども、これは私ども、ずっと街頭では、いろんな制約があってなかなか出してもらえませんけれども、街頭行動を続けております。そして、私が出られないときでも、毎週木曜日かに、あちこちで街頭の演説を、ほかの同志の諸君がやってくれておりますけれども、そういったことは、やっぱり国民と政治が遊離したと今は思われているときでありますから、これを埋めるためにも、どうしてもやっていかなければならない行動であり、また、私どもが語り掛けるときに、これは動員した人ではない人たちがほとんどでございます。知り合いの人で多少来ている人はありますけれども、ほとんどこれは動員を掛けない。にもかかわらず、大変な人が集まっていただいております。

 そして、いろんなことを話したときに、逆反応が来るときと、分かったという反応が来るときと、これは私たち政治家にとりましては、大きな示唆であると受け止めて、行動します。

 それから、平成の目安箱というのも、これは私ども、例の改革フォーラムを作ったときにやりましたが、本当に建設的な意見というのが寄せられる訳です。そういったものを考えたときに、FAXというものが出来た時代ですので、パソコン通信までいけばいいんですけれども、まだちょっとそこまでいっておりませんけれども、FAXがある時代ですから、こういったものを活用しながら皆さんの声を吸い上げていく。そんな姿勢というものを持っていきたいと思っております。

 少数与党でありますから、当然、野党とは徹底して話し合っていきたいと思っております。

 それから、私どもといたしましては、政界の再編成というのは、これは少数政権でいつまでもいていいというものではないと思って、やっぱり安定した政治を作るためには、出来るだけ話合いながら、何とか理解を求めていくということが大事であろうと思っております。

 私は基本的にこの八か月間の歩みというものを誇りにするということを申し上げておりましたので、これがまた元へ、全然違った方向へ進んでしまうとなると、また、かつての五十五年体制に戻ってしまうということになるだろう。このことを考えたときに、出来得れば、やっぱり社会党の皆さん方に、更に理解が深まればという思いを持っておることは、率直に申し上げておきたいと思っております。

 また、透明な政治手法ですとか、あるいは率直な議論ということは重要なことでありまして、だんだん落ち着いてくるならば、そういった議論というものを各党の皆さん方と、あるいは野党の皆さん方とも率直に語り合っていきたいと思っておるところであります。

 さて、もう時間がなくなった訳でございまして、当面する問題ということについて、時間を掛けて申し上げることは出来ませんけれども、まず第一の問題は政治改革であろうと思っております。せっかくあそこまで来たこと。そして、もしこれをやらなかったならば、今度の国会なり、ともかくここで今改革をしないで中選挙区のままで選挙に入ってしまうということになりますと、結局今までの努力というものが水泡に帰してしまう。ということは、政治資金規正法も何にも機能しなくなってしまうということになる訳です。ですから、これはどうしても、今度やらなければなりません。

 幸い、一応区切りの基準というものは出していただきましたので、これを速やかに国会の中で議論していただいて、ボールを返していただいて、区割り作業に入れるように。そして、区割りを出来るだけ早く出していただいて、それを国会で通していただくということは、何と言っても、政治改革の第一歩であろうと思います。

 そして、それをやると同時に、今度は参議院の制度を、二院制の中における参議院をどうするのか。これを考えていただくことです。

 もう一つは、国会改革というものを本当にやっていかなければいけないだろうと思っております。

 もう一つは、経済改革でありますけれども、規制緩和を私ども細川内閣時代から続けてきておりますけれども、やはりこの国の活力を得るためには、ただ、外国から入りにくいからやるというのではなくて、この国が活力を得る、新たな活力をよみがえらせる。そのためにも規制緩和は必要です。ですから、外国からの参入によって刺激を受けるといういい面もあります。しかし、それだけではなくて、国内でもまた、お互いにそこで競争が活発に行われるということ。そういったことが進められるように規制緩和はどうしても必要でありますし、また、これによって価格についても、内外価格差というものも縮小していくことが出来ると思っております。

 この間、公共料金についてこれを抑えました。これに対してのいろんな議論があることも私承知しております。しかし、民間がこれだけリストラしているときに、あれだけ一斉に公共料金を上げる。しかも、今は例の特例措置によって減税をしたという中にあって、それが公共料金だけ上げますということになったら、これは国民から、本当に一体何をやっているんだろうということになってしまうということでありますし、一度やることによって、みんながいろんな学習効果というものを持っていただくことが出来るだろうと思いました。

 そして、それをやることによって、民間の皆さん方にもいろんな努力をしていただく。そして私たちは環境整備、いわゆる規制緩和等をやることによって、内外価格差というものを縮小するということは、要するに少しずつ上がるというのを認めるのではなくて、むしろ少しでも下がる方向にもっていく。これが低成長の時代、今、私たちがやらなければならないことと思っておりまして、物価問題の懇談会も今進めておるということであります。

 そして、こういうものを進めていくことによりまして、税制改革というものもしていかなければならないと思っておりますし、もう一つは、これはちょっと話は飛ばしてしまいますけれども、やっぱりアメリカでNIIから今はGIIという名前になっておりますし、ヨーロッパに方ではEIIという名前になっておりますけれども、やっぱり高度情報化時代というものを、間違いなく今私たちは迎えているということでありまして、これも単に行政をどうこうするというだけでなくて、医療の面ですとか、教育の面ですとか、あるいはいろんな技術を受け取るとか、あるいは文化の面ですとか、いろんな幅広い、国民生活に本当に役に立つようなこと、これを考えながら私たちはこの高度情報化社会というものを迎える、そのため今、準備というものをしなければならない。私はこの問題について、内閣が中心になってやっていかなければいけないということは、私自身がこのための本部を作って、これを推進するために進めていきたいと思っております。

 行政改革は、これは当然やらなければならないことでありまして、それと合わせて、地方分権についてもやらなければいけない。これは大綱を今年のうちに決めたいということで、今、方向を出しているところであります。

 日米包括協議については、これはもう私から何も申し上げることはありません。ともかく、マラケシュでの話合いによって一つの道が開かれ、そして、先日来話が、今度は各論に今入ってきておるということで、何とかこれは成功させていただきたいと思っております。

 そして、今、北朝鮮の核の問題については、非常に早いテンポで進んできておりまして、何とか北朝鮮が国際社会に対して門戸を開いて、窓を開いてもらいたいという思いがあります。

 そして、かつて田中角栄総理が日中国交正常化をしたときに、自民党本部で一言言ったことは、ともかくあの大きな国、永遠にこれは隣の国であると。しかし、この国と全うに、いいことでも悪いことでも話せない、これは不幸なことである。そして、このことを、国交正常化することのためには強力なリーダーシップが必要である。そのためには毛沢東さんが元気なときにやることがいいと思う。私は日中国交正常化を決断しましたということを言われました。今、実は改めてその言葉を思い起こす訳でありますけれども、金日成という方は、やっぱり革命世代、カストロさんはその後だという方もありますけれども、いずれにしても、もう世界の中に現在、実際に権力を持っていらっしゃる方は、あの方ぐらいです。しかも、あの方の方針によってあの国は本当に動くことの出来る国であるということ。

 私は、金日成さんに今、やっていただきたいことは、どうしてもやっぱりあの方に、ここでひとつ世界に門戸を開く、その指導力というものを発揮していただくことが、私は朝鮮民主主義人民共和国、そして、朝鮮半島のためにもいいし、また、北東アジアのためにも、あるいは世界のためにもいいことになる。今、非常に切迫した状況にありますけれども、今こそあの方が行動を起こしていただくことが望ましいということを心から願っているところであります。

 サミットの問題についてお話することも、あるいは私が普通の言葉で通じる政治ということを言うものですから、よほど甘いようなことを言われているようですけれども、私は余り物事を避けて通るということは大きらいな人間でありますし、難かしいことを、むしろ分かりやすい言葉で申し上げながら、国民の皆さんの理解を得ながら、物事を進めていこうということのために、普通の言葉で語ろうということに今日まで心掛けてきた人間であるということでありまして、しかし、決断すべきときには、きちんと決断してやっていかなければならないという思いでこれからも進めていきたいと思っております。

 いずれにしましても、少数政権でありますから、一日一生のつもりで、延命とかいうことは考えるのではなくて、真正面から取り組んでいく、その姿勢で進んでいきたいと思っておりますので、おしかりはおしかりでこれからもいただきたいと思いますけれども、我々の行動というものを見守っていただきたいということをお願い申し上げまして、お許しをいただきたいと思います。

 どうもありがとうございました。