データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 日経連夏期セミナーでの村山内閣総理大臣の講演

[場所] 
[年月日] 1995年8月21日
[出典] 村山演説集,707−724頁.
[備考] 
[全文]

 皆さんこんにちは。経歴をご紹介いただいたように、衆議院議員に当選して十年程社会労働委員会にいて、日本の社会はこれから高齢化社会になっていくから、一番大事なのは福祉や医療や年金だと、自分の終生の、議員としての仕事にしようという気持ちでやってきた。ところが、たまたま予算委員会の理事や国会対策委員長に引っ張り出されたりして、自分の進路が狂ってきた。自分がやろうと思ったことがなかなかやれないと思っていたら、委員長に担ぎ出され、だめだ、だめだと断っていたが、そうしたときに、たまたま委員長選挙に入る前に大阪空港であった人が、今度は大変だね。人間というのは巡り合わせがある。そのときに逃げてはいけない。真っ向から取り組まねばいけないと言われた。なかなか良いことを言うなあと思っていた。その人はフランキー堺という人だったが…(笑い)。社会党の委員長という立場になったわけだが、皆様方にもご理解ご指導をよろしくお願いする。

 皆さんには難しい今の日本の経済を担いながら大変御苦労いただいている。先般、日経連の提言を拝見した。貴重な提言であると評価もし、できるだけ誠意をもって対応できるところは対応していかねばと思っている。そういう皆さんの努力に対し心から敬意を表する。

 私が政権を担って一年一か月ちょっとになる。私は政権を担うとき本来憲政の常道からすれば第一党から首班をだすのが当然であると。当時は、第一党は自民党で第二党が社会党であった。第二党から首班を出すというのは一体どういう意味があるのだろうかと、自分なりに考えてきた。ある意味では国際情勢が大きく転換をしている。五十五年体制が崩壊して、日本の政治も変わっていく。そういう歴史的な転換期にある意味の役割を与えられた政権ではないか。そういう歴史的な転換期に担う政権の役割というのは一体何なのか、自分はどういう役割を果たせばいいのかということについて、真剣に考えてきた。ある人は私にこれは天命だからしっかり頑張ってほしいと。天命という言葉は妥当かどうかわからないが、そういう役割があるとすれば、その役割はきちっと受け止めて果たす必要があると考えていままで政権を担ってきた。

 振り返って考えると、一九九三年七月に総選挙があった。その総選挙で新党ブームで新党が増え、自民党が単独で過半数を握ることができずに、自民党単独政権が崩れ、連立政権が生まれた。社会党は当時小選挙区制には反対という立場をとっていたが、選挙の結果、表明された国民の気持ちを考えた場合に、政治を変える、政治が変わることを国民は期待している。自民党単独政権から新しい政権ができて、日本の政治が大きく変わるとするならば、その変わることに社会党の一定の役割があるのなら、その役割を果たせばよかろう。小選挙区制に拘らずに、連立政権に参加するという方針を決めた。当時、私は国対委員長で、委員長が山花さんだったが、そういうことを伺ってきた。当時社会党が政権に参加して、七つの党・会派で連立政権がつくられた。細川さんは、連立政権をつくったときに七五%以上の国民の支持があったから、ある意味では圧倒的に期待されて生まれた政権であった。その期待に応え得ずに退陣した理由は何かと振り返ってみると、連立政権というのは理念も政策も違う政党が集まって連立政権をつくっているのだから、政党間の信頼関係がなければならない。同時に運営が民主的でなければならない。しかし、事例を挙げればたくさんあるが、一つの例を挙げれば、国民福祉税を七%にする案が突然出されてきた。いまある消費税を国民福祉税という名前に代えて税率を七%にするという案が、いつどこで誰がつくったのか分からないままに突然提示された。私は、政府与党首脳会議で細川総理に了解できない。突然出されて、発表するから賛成してくれといわれても、それはできないと申し上げた。それは国民を無視しすぎている。税金は国民が収めるものだからある程度国民に納得してもらえるものでなければならない。あまりにも突然すぎると反対した。こうして政党間の不信感などから予算審議の途上で細川内閣は退陣した。次に羽田内閣が誕生した。私どもも羽田政権に参加するつもりであったが、突然、改新という会派をつくるということになり、数を集めて社会党の言い分が通らないようにしようという思惑があったかどうかは知らないが抜打ち的にやられた。連立政権の構成要件は、前段に十分話し合ってお互いが理解し納得し合って作られている政権なんだと。その政権を構成する会派が替わってくるということになれば、話し合いをして、了解をした上でなければ、うまくいかないのは当然なんだと。抜打ち的に、信義にもとるようなことをやったのでは、連立政権はうまくいかない。だから、連立政権に参加しないことになって、羽田政権は少数与党として誕生することになり、長く続く訳がない。予算が成立し、六月頃、自民党が不信任案を提出するしないという動きがあり、社会党もその不信任案に同調するかどうか議論したこともあった。その不信任案は提出されないまま、内閣は総辞職することになり、羽田政権は約二か月で終わった。その後をどうするかを議論した。羽田政権をもう一度つくったらどうかと私どもは真剣に考えた。社会党とさきがけで新しい政権をつくるための綱領なり、政策の柱を設定し、各党に提示し、これを中心に議論をして、賛同できるなら連立政権を作ろうとの話をしてきた。当時は非自民、反自民という空気が強かった。非自民、反自民で話を付け、政権ができるものなら、政権をつくろうという考えで努力し、いよいよ話がまとまるという状況になったので、各党に党首会談を呼び掛けた。党首会談で、書記長・幹事長間で政策の合意ができたら、これから連立政権をどう運営していくか、運営について合意をする必要があると。党首会談で、私どもから四つの条件を出し、議論をし、お互いに納得し、これで政策も決まれば羽田第二次連立政権ができるものと私は期待していた。

 その間、当時の自民党河野総裁と森幹事長から会いたいと連絡があった。今は、連立の協議をしているので、会ったら誤解を受けるからと、お断りをしていたが、再三話があったので、話だけでもお聞きしようかと。そのときに、お二人から懇々と自民党は協力するから総理を受けてくれとの話があった。大変ありがたい話だが、しかし、一方で非自民・反自民の連立政権をつくる話し合いをしているときなので、その話し合いをしながら一方では自民党と話をすることはできない。だから、お受けするわけにはいかないと。それでその話は切れた。

 私が党首会談の中で話したことの中に、六月二十九日で会期が切れるので、首班の選挙のために会期が延長されたというのでは、国民の政治不信は高まるだろう。会期内に決着を付けるということにしようと申し合わせた。そこで二時頃までに政策の合意ができれば、二十九日中に首班の選挙ができるという段取りで進めていた。二時から再開するという話があったが、四時まで延期になった。四時まで延期になったということは、話を付ける気持ちがないと私は受け止めた。その四時に再開されたときに、まったく新しい政策の案を出してきて、これでいこうといってきた。それはいままでの話とぜんぜん違うではないか。それで話が決裂した。話が何もついていないまま本会議に臨むことになった。中央執行委員会で議論したが、ここまできたら、各党が各党の党首を選ぶだろうから、社会党は委員長に投票する以外にないだろうということになり、社会党は私に投票することで、本会議に臨んだ。本会議に出てみると、右往左往しているし、新しく海部さんが担がれて出てくるとの話があり、海部さんになるのかなと思っていたら、投票の結果、自民党の大半が私に投票して、私が第一位になった。おかしな事になったなというのがその時の率直な気持ちであった。

 本会議での投票結果を真撃に受け止め、与えられた役割は何か、自分でこれを踏まえた上で、私は私なりに考えてこれまでやってきた。私は、政権を担ったときにいろいろ考えてきたが、一つは、五十年の節目ということもあり、同時に歴史的に、国際的情勢も大きな転換を遂げ、日本の政治も連立政権の時代になる大きな歴史的な転換期にある。歴史的な転換期に与えられた役割は何かということを考えた場合に、五十五年体制の中ではできなかったことをやれるものはやっていこうという考え方があった。そこで五十五年体制でやれなかったものは何かと考えた場合に、自民党と社会党と新党さきがけという三党が連立政権を組んでいる。いままでは一方は与党で、一方は野党で徹底的に対立してきた政党であるから、いわば、水と油みたいなものだ。水と油は一緒になるわけがないじゃないかという話もあったが、私は、歴史的な転換期の中において新しい時代を担っていける信頼の持てる、期待の持てる、大衆から支持される、そういう政党をつくり上げていくためには、油も変わらなければならないし、水も変わらなければならない。油も水も変わるような働きかけができるような政権を考える必要があるということを第一に考えた。

 細川、羽田連立政権の経過と教訓に学んで、できるだけ政策の運営については、透明度の高い民主的な運営に心がけてきた。したがって、今どうなっているかというと、十九省庁の縦割りの調整会議がある。専門の分野で専門家が集まり審議をする。二十二の横割りの調整会議をつくり、縦と横割りの調整会議で調整していく。しかも調整会議の構成というのは、例えば十名の構成であれば、自民党から五名、社会党から三名、さきがけから二名と。自民党が数が多いからといって圧倒的に数をもって委員会を運営するとか、調整会議を運営するとかできないような仕組にして、できるだけ議論をしながら合意点を見つけていくという運営にする必要がある。縦・横の調整会議で合意点が得られれば、三党の政審会長会議にあげ、さらに調整をし、政府・与党連絡会議で最終的に決断をする。こういう運営をしている。合意が得られればいいが、得られない場合は、最終的には政府・与党首脳会議で議論し、そこでもどうしても決まらない場合は、党首で話をする、三党首で話が決まらない場合は、総理が決断をする、という運営をしてきている。したがって、リーダーシップが足りないとかいろいろいわれるが、私は今の政権の運営としては、こういう運営の仕方が一番いいのではないかと思っている。トップダウン方式で上で決めたらそれに従うというのではなく、できるだけ議論を積み上げていって、コンセンサスを求めながら、合意点を求めて、結論を出していく。どうしても結論が出ないという場合は、最高責任者が決断をする。こういう運営の仕方を守っていった方がいい。外からみれば、まどろっこしいとか、いろいろな意見があるかもしれないが、私はこのやり方を大事に守っていく必要があると考えている。そういう心掛けで政権を担ってきているということを皆さん方にご理解を願いたい。ただ問題によっては、時間がかかりすぎるということがあるかもしれない。しかし、問題によって急を要する場合には、急を要する措置をする。時間をかけていい場合には、時間をかけて議論をする。こういう運営というのは皆さんが考えてやってきていることなので、それ程支障がある問題とは思っていないので、こういう運営というものはこれからも堅持をしていきたい。

 これまで、五十五年体制でできなかった問題をどのように解決していくか取り組んできたが、一つには、政治改革の問題について、小選挙区制はできているが、区割り法案はまだ成立していないし、むしろ国民の側からすれば、選挙制度を変えるというだけではなくて、もっと腐敗防止に力点をおいて政治改革をやってほしいという要望が強い。したがって引き続き公職選挙法の改正をし、政治資金規制法の改正をし、連座制も強化し、もし、供応・買収という悪質な違反があった場合には、次の選挙に立候補できない。同時に連座制に名を連ねる立場にある者に違反があった場合には、候補者にまで連動する。このように連座制の強化をしてできるだけ違反の防止をしながら、国民が納得できるような仕組をつくる必要がある。第一に手掛けたのは公職選挙法の改正と政治資金規制法の改正であった。政党助成法もできて民主主義を守るコストとして皆さんの税金で政党活動が賄われる仕組を作ったわけであり、もう少し政治活動資金については明朗化する必要がある。企業団体献金等についても五年以内に見直しをすることになっているので、私は厳しくやるところはやるということが大事ではないかと思っている。

 もう一つは、税制改革もやった。大変難しい問題であった。六十二年に所得税法の改正をして、低所得者層の軽減をした。したがって、所得税のカーブは中堅サラリーマン層から急に高くなっている。中堅サラリーマン層を少し是正する必要があるので、軽減措置をとった。中堅サラリーマン層はある意味では経済社会の大きな荷物を背負っている。同時に家庭的にはローンの支払いやこどもが大学に入るとか一番出費の大きなところである。ライフサイクル全体でみたときに中間サラリーマン層の担っている重りは大変大きいものがある。その割に税率が高すぎるというのはおかしいのではないか。仮にベースアップしても給与が上がれば税率も上がるため大してベースアップにならなかったということにもなり、したがって、この面の税率を下げてなだらかにしようとした。三兆五千億円の減税をした。単に所得税だけでなく、住民税も連動して下がるわけで、その分減収になるわけで、したがって、その下がった分の財源をどうするかという問題が一つと、景気を考えた場合に、五兆五千億円程度の減税も引き続きやる必要があるだろうということで、減税を二兆円加えていくということでやってきた。

 その場合に、高齢社会を迎え、福祉の問題というのはどのように財源を賄っていったらいいか、併せて議論してきた。その場合に所得と消費と資産に均衡ある課税をしていくことが原則として議論されてきていることである。高齢社会を国民全体で負担し合っていくというのは当然大事なことだろう。そういう意味で消費税は社会党としては反対してきたが、事実として消費税が施行され、国民の中に根づいてきている。これを無視するわけにはいかない。これをどのように改善していくかということがこれからの検討課題であろう。細川内閣のときに国民福祉税という名前に代えて七%に引き上げるということがあって、それはだましではないかということで社会党としては反対してきた経緯もあるが、しかし、よくよく議論し合って国民の皆さんに理解と納得が得られるならば、この点は十分検討してしかるべきではないかということで、消費税率を対象にするということを三党で合意した。ただ、いつ、どの程度までどうするかということは結論が出ていなかった。そこで、消費税率をどのようにするかというときに、食料品は非課税にするとか、一律の税率でなく複数税率にして、逆進性を緩和するために工夫したらどうかとかいろいろな意見があった。しかし技術的に複数税率にしたり、食料品を非課税にすることは難しい。どこで線を引くのかとなってくるとどこまでが食料品かとなると困難な技術的問題もあって難しいので、これはやむを得ない。しかし、平均的にお互いに納得して、ある程度の財源を確保するには、どの程度の水準で線を引くかということが一つと、逆進性の緩和については、例えばお年寄りが物を買えば同じ税率を負担するというのは荷が重過ぎるというのであれば福祉で還元していく、政策を通じて還元するということをもっと真剣に考えたらどうか。こういう議論をしながら、最終的に平成九年から税率を五%に上げることを決めた。私は、その決断をしたときに、後から思ったのは、社会党の今度改選をされる議員の皆さんは消費税反対で当選した議員だと、それが、消費税を五%に上げることを認めたではないかといわれたんでは、選挙はしにくかろうと思い反省もしたが、全体としてはやむを得ないと。正直に訴えて皆さんの理解をいただくことが大事であると考えてやってきたことも付け加えておきたい。

 もう一つは、被爆者援護法や水俣病の問題、従軍慰安婦の問題についても五十年の節目でもあり、何とか解決できるものなら解決したいという気持ちで取り組んできた。被爆者援護法の問題について一番議論のあったところは、国家補償という点であった。国家補償ということになると、一般の戦災者も含めて国家補償を行うべきではないか、という議論に広がってくるので、なかなか難しい。そこで、放射能による障害、同時に核廃絶するという国民的悲願がある点に着目して別途に扱うことが必要でないか。国家賠償ということばは使わなかったが、国の責任ということを明確にしてある程度の改善を図ってきた。これまでの原爆二法を廃案にして、被爆者援護法を新しくつくり改善措置を講じた。先般、広島、長崎に行った際に、皆さんにいろいろ意見を聞いた。まだまだ不満はあるのは当然と思うが、現状で最大公約数としてできる最大限のものを私はやったつもりであるということを申し上げ、ある程度のご理解をいただくことができた。

 それから、水俣病の問題については、認定された患者についてはそれなりの補償をしているが、未認定の患者が訴訟を起こして四十年近くになるが、ある意味では、公害の原点のような、日本の経済が繁栄していく影の部分として存在している部分であるので、何らかの解決を付けた方がいいのではないかということで、三党で話し合いをしている。ある程度の合意点を見い出してこれから地元の県と十分連絡をとって話をつけたいと思っている。国が公害患者に対して補償をするというのは、PPPの原則からすればなかなか難しくできないので、政治的判断で何らかの決着をつける必要があるので、いま話し合いをしている。私は、認定患者のいくつかの団体があるが、その団体がすべて賛成してくれるとは考えていない。しかし、大多数の皆さんがこれでいいといって御了解をいただいて、水俣の問題は解決したとなるのなら、それで解決したいといま努力している。

 私は、環境問題や公害問題等を国民全体が理解し、認識していることはある意味ではこれから大事なことであり、教育も含めて水俣の問題は片を付ける必要があると思って取り組んできた。

 もう一つ、従軍慰安婦の問題は大変難しい問題で、いうならば国と国との賠償問題というのは、サンフランシスコ条約、二国間条約で一応片が付いている問題である。国が賠償の任に当たるというのは、すじ違いの話になる。だからといって、従軍慰安婦の問題が軍の命令によって強制されたとか、問題が出てきているときに片がついているといって無視するわけにはいかない。何らかの解決する方法があるとするならば、それは一体どういうものだろうかということで、いろいろ議論してきた。二つの意見があって、国が賠償すべきだという意見と、国は賠償すべきでないとする意見、国民的な理解と協力を得ながら、国民皆んなで負担するような方法がないかという意見があり、いまだ結論が出ていない。しかし、結論が出ていないから何もできないというのは高齢化してきている状況でもあり、五十年を節目に結論を出す必要があるだろうということで、国民基金をつくって、なんらかの措置をしようと。これは単に従軍慰安婦の皆さんに対して償いをするというだけでなく、これからアジアにおける女性問題について、医療や福祉や女性解放の問題等々について、男女差別を無くしていけるようなそういうものに役立てていこうということである。私は、五十年に一つのけじめをつけることであり、アジアの信頼を確保するためにも大事なことだと思って取り組んでいるところであり、何らかのご協力をお願いしたい。

 八月十五日を節目にして基金を発足させて、これから街頭募金などの活動をスタートし、いろいろな団体のご協力を得ながらやっていこうという段取りで進めているので、皆さん方のご理解・ご協力をお願いする次第である。

 今年に入り、阪神淡路大震災があったり、地下鉄サリン事件が起こったりと、想像もしないような事件が起こったが、阪神淡路大震災が起こったときに一番問われたのは何かというと、初動における対応がまずかった。被災された兵庫県神戸市の行政の機能がまひしているため、正確な情報の取りようがなかった。それから、同時に官邸もそういう危機に対して対応できるだけの体制がなかったということは率直に認めざるを得ない。私が最初に知ったのは六時のテレビのニュースであった。京都が震度五だというので、京都に電話をしたら、揺れは大きかったが被害はないというので、よかったなと。このときは、神戸の震度は出ていなかった。出ていなかったというのは情報がつかめなかったということであったが。七時半頃相当広範囲に被害が大きくなりそうだという情報が入って、それから対応に掛かったわけで、初動における危機管理体制が欠けていたというのは反省せざるを得ない。

 この教訓に学んで、今の法体系と現行制度の中で、危機管理に的確に対応するにはどうしたらいいか検討している。何かあれば各省庁の担当者が官邸に集まり、そこで全部情報を集約して、正確につかまえた情報に基づいて直ちに、各省庁が対応できる仕組みを作ろうとやっている。それだけでは足りないので、中央防災会議にかけて防災計画についても必要な見直しをする。同時に防災問題懇談会を設置して、あらゆる角度から議論をする。今の法体系で欠けているところや制度として必要なところ等々を点検して、もっと防災体制に万全を期していきたい。

 私は、函館のハイジャックのときに感心したが、ハイジャックが起こったときに、ただちに官邸に関係省庁が集まり、的確な情報をつかみながら、対応について連絡を取り合った。警察官が機内に突入するときは、あの周辺に救急車から化学消防車から全部配置をして、どのような事態が起こっても対応できる体制を整えて突入した。この事件はこの事件なりに阪神淡路大震災の教訓に学んで対応に当たったのは非常によかったのではないかと思っている。こうした危機管理体制というものをしっかりとつくらねばならないと。一つの課題だと思っている。同時に、防災に強い町づくりに心がけていく必要がある。特に、公園、防火水などに十分広場が活用できるような体制を考えていくことが大事ではないか。阪神淡路大震災に学んだ教訓には多くのものがあり、生かしていかなければならないと思っている。

 行政改革も当面の大きな課題になっている。特殊法人の見直し等も手掛け、同時に規制緩和についても千九十一項目を設定して検討してきている。五年でやるのを三年間の前倒しにして早急に取り掛かろうとしている。行政改革委員会の中に規制緩和小委員会、情報公開部会を設置して、毎年規制緩和について見直しをして、点検をし、政府に勧告してもらい、政府はこの勧告を尊重して実施をする。こういう段取りでやっている。

 規制緩和というのは、否応なしにやらなければならない。これだけ経済が国際化して自由貿易体制になってきて、日本の国が伝統的にもっているような特殊な規制を国際並みに緩和していかなければ、日本は取り残されていくことになる。だから、規制緩和は徹底的にやる必要があるという腹構えで取り組んでいる。しかしながら、総論賛成、各論反対ではうまくいかない。率直に言えば、官僚と業界が利益を分かち合って守られているのではないかとの節もなきにしもあらずだと。この際、必要な規制緩和はやる必要がある。遠慮なくこういう規制は壁になって発展はないというような指摘がなされれば、十分検討して政府の責任においてきちっとやるべきだと、閣議の席で申し上げている。これまで規制で守られていることからすれば、その規制が取り除かれることによって痛みを感ずる面もあると思うが、長い目でみれば、当度の痛みというものは、先のいいものに変わっていくんだと、こういうことであれば、規制緩和はやらなければならないと思っているので、そういう受け止め方をしてご理解願いたい。

 情報公開については、二年後には行政改革委員会から情報公開の勧告をしていただいて、政府は公開制度をつくるために取り掛かる段取りをして、是非やらなければいけないことであると思っている。

 地方分権については、地方分権推進法をつくり、地方分権推進委員会を設置し、国と地方自治体の役割分担を明確にして、それぞれ自立して自主的に仕事ができるものに変えていこうという方向で議論願っている。私はある意味では今の日本で一番弊害といわれている例えば縦割り行政。県に例をとれば、建設部長は建設省から出向した人が部長になっている。建設省の出先のような役割を果たしている面がなきにしもあらずということを考えると、県の行政というものは今はほとんど国の省庁の縦割りをそのまま系列化されている。こうしたことでは、地方自治体の本質にもとるのであって、縦割り行政はなくさなければならない。同時に補助金制度が、地方をリードし、誘導していく役割を果たしているというので、補助金制度の見直しを徹底する必要がある。また、機関委任事務についても、むしろ機関委任事務でなくて、地方自治体が本来やるべき仕事については、地方自治体が責任をもってやれるような仕組みというものを考えていく必要がある。こうした三つの問題をしっかり見直して、国と地方自治体の役割分担を明確にしながら財政的にも自主的に保証されるような裏付けを与えていく必要がある。地方分権も大いに推進していく必要がある。最近は、官官接待などということがいわれているが、官官接待などという言葉も地方分権が進んでいけばなくなっていくだろうと思っている。是非これも進めていきたい。

 これまで申し上げたように、可能な限り精力的に取り組んできた。できたものもあるし、できる過程にあるものもある。しかし、こうした心組みと考え方でこれからも推進していきたいということを皆さんにご理解いただきたい。

 先般の参議院選挙を受け止め、内閣は何を一番重点に考えていくのかということについて、お話申し上げたい。参議院選挙の結果を自分なりに一番厳しく受け止めなければいけないと思ったのは、投票率が低かったということであった。投票率の低下については、いろいろな背景と要因があると思う。政治を担うものとして一番痛切に厳しく受け止めなければならないのは、政治に対して期待が持てないということだ。期待が持てないことの一つの抵抗の表れであると、自分なりに厳しく受け止める必要がある。国民に対して期待が持てるような信頼されるような政治をどうつくっていくか考えていかなければいけない、と私なりに重く受け止めている。だから、内閣改造もやった。いろんな批判も意見もあるが、連立政権の骨格は変えないことを前提にして、党首はきちっと位置づけて、責任をもって内閣の一員として、協力してほしい。これを崩すならそれはダメだといってがんばって二人には残ってもらった。だからその骨格は変えないということを基本にして改造を行った。何といっても景気問題、経済問題が当面の一番大きな課題となっているので、景気を回復するのに必要な改造に心がけた。民間から宮崎先生に経済企画庁長官として入ってもらい、単に政府の立場に立ったものの見方ではなく、民間側の立場に立ってものをみてきた視点を大いに反映させてやっていく必要があるということで期待を持ちながら改造をし、気分も一新して取り組んで行こうということも政治の世界には必要なときだなということで改造をした。

 当面の景気対策としては、四月に緊急円高経済対策を出し、六月に見直しをして、追加すべきもの、補強すべきもの等々を加えて、強力に推し進めている。その一つは、円高の是正であるが、二月、三月、四月と協調介入しながら手を打ってきたが、効果がなく、逆に円高の傾向も見られた。一番大きなテコになったのは、六月二十五日のG7の蔵相会議で三つのことが合意された。その一つは今の為替レートはフアンダメンタルズによる正当化される水準とは認められていないと確認された。もう一つはそういう状況にあるので秩序ある反転が必要であることが確認された。そのために、各国は協調した行動をとることで合意された。ここまで明確に蔵相会議等で合意された例はなかったのではないか。これは為替レートを反転させる一つの大きなきっかけになったと思っている。政府は緊急円高経済対策を出し、内需を拡大し、黒字を減らす方向に作用させる。同時に日銭も金利を下げ、短期のレートもできるだけ低め誘導にもっていくように働いたのではないかと思っている。海外投融資の規制を緩和して、生命保険会社等も銀行と同じように海外投資ができる道を開いたのも効果があったのではないか。総合的な対策を講ずることによって、日本の打つ手に対して米欧が協調して介入行動に出たことが影響して、円安の傾向に流れつつある。これからどうなっていくか短期の予測だけでは分からないが、十分注目しながらぬかりなくやっていく必要がある。

 もう一つは、公共事業の前倒しをして、経済全体の下支えをしていくことは国がやらなければいけない。今年は四月に地方統一選挙があり、地方自治体は三月の議会では骨格予算を組んでいる。選挙が終わって、補正予算を組んで本格予算にすることになった。公共事業の発注状況をみると二月から五月くらいまでは前年度比かなりマイナスになっている。六月になって、やや持ち直し、プラスに転向してきている。したがって、六月以降、七月、八月、九月と公共事業の発注も順調に進んでいくのではないか。これは思い切って前倒しをして、七五・六%を上半期に集中発注をする段取りをして、今、点検をしているところであるが、九月頃までには実績も上がってくるのではないかと期待をして、注目している。上半期にこれだけ集中発注すると下半期にはかげってくるので、したがって、年間を通じて切れ目のない公共事業の発注で経済の下支えの役割を果たすという意味で、第二次の補正予算も必要に応じて可能な限り早く出して成立を期したい。そして、全体を通じて財政出動ができるような段取りをつくっていかなければいけないと考えている。

 来年度予算の概算要求基準を既に決定をしているが、閣議でも申し上げているが、従来の公共投資の配分の率をこの際思い切って見直してほしいと。従来のような族議員が跋扈して予算時期に予算の分捕りをするようなことは思いとどまってほしいと。将来を見据えてこれから伸ばしていく新しい分野を開拓していく。そういう分野にもう少し投資の配分を重くみるということがあっていいのではないかとお願いしてきている。今回はわずかだが、例えば、経済発展基盤、学術研究の特別加算といった千四百億円の別枠を設けた。三千億円は公共投資の配分をする際にウエイトをかけるために保留している。新しいものに対する目を出したにすぎないかもしれないが、一遍にできなくともだんだん積み重ねていき、新しく展開できる方向に日本の対策も変わってきていることを皆さんに知っていただくことも大事ではないかと思っている。

 次に、経済構造を今後どう改革していくかという問題について、米欧は新しい時代に対応してリストラをやっており、東南アジアはどんどん経済が開発され、追い上げてくる。米欧のリストラと東南アジアの追い上げと両方に挟まれた格好で、これから一体日本の経済はどうなるのかと問われている時代ではないか。こうしたことを考えた場合に、これから日本が目指す新しい分野とは何かとなれば、これだけ高度な技術を開発しているのだから、技術立国になって技術によってアジアに処していくことも大事なことではないか。長い目でみれば、必ず目を出してくる。そうした視点から、いまある現状というものをみた場合に、例えば、大学研究機関は施設も古いし、予算が足りないなどいろいろな部面があって、立ち後れているわけであるから、もう少し目を向けて有能な技術人がどんどん希望をもって養成されるような仕組みをしっかりつくっていく必要がある。同時に民間の皆さんにも協力していただき、官民が一体となって研究技術の開発を進めていく必要がある。

 情報通信分野の高度化・普及化については、技術開発が遅れているだけではなく、情報通信分野はアメリカに比べれば大変立ち後れている。早急にとりかかり、少なくともアジア全体の経済基盤の中で日本の果たす役割を考えた場合に、情報通信分野をさらに開発する必要がある。同時に情報通信分野は単に産業分野だけでなく、教育、医療などあらゆる分野にこれから開発されていく分野であるので、その点にも力を注いでいく。そのことが、新しい雇用の場を開くことになる。雇用の安定にもつながっていく。また、そういうものにしなければならない。

 こうした事業を推進していくために、四月から施行された事業革新法、中小企業創造活動促進法に基づいて、人、金、物に政府が助成していく。あるいは、下支えをしていくという役割を果たしていくことが必要ではないか。総合的な対策を講じながら、皆さんのご理解・ご協力をいただき、経済の展望を拓き、今の不透明感を払拭したい。

 十一月には我が国が議長国でAPECが大阪で行われる。これは、去年のポゴール宣言で先進国は二〇一〇年までに、途上国は二〇二〇年までに貿易自由化を達成するという宣言がなされている。この宣言に基づいて、大阪のAPECでその目的を達成するための行動指針を出すことになる。APECに加盟しているそれぞれの国によって大変な格差がある。したがって、二つの意見があり、一つは、自主的な計画に基づいて目標を達成するという自主性を尊重してほしいという意見。自主性に任せたのでは不可能だと。統一的な指針を出すべきだという意見。こうしたそれぞれの意見があり、現在調整をしている段階であり、特に食料問題などの扱いについてもなかなか難しい問題である。しかし、なんとか合意ができるような方向に成功させる必要がある。これを成功させるかどうかは、アジアの中で日本の立場を問われる可能性もあるので、そのくらいの重みをもって取り組んでいかなければいけない。是非成功をさせたい。

 八月十五日に談話を出したところであるが、賛否両論いろいろあり、東南アジアを回ってみて、それぞれの国によって言い方が違う。過去のことはいつまでもこだわらずに前向きに進むことが大事ではないかという国もあり、そうではなく、やはり、過去の清算ができていない。もう少し日本の国は過去の反省を踏まえて、正しい歴史認識を持ってアジアに臨むべきだという意見もある。私は、基本的に考えたのは、加害者と被害者。加害者というのは、与えた害について忘れた方がいいという気持ちになるのはある意味で当然かもしれない。しかし、加害者は忘れても被害者は忘れない。忘れない被害者の気持ちを考えた場合に、五十年の節目に見るものは見る、謝るものは謝る、反省すべきことは反省するというケジメをつけることが大事ではないかと思ったので、談話を出した。そのことが、日本がアジアの国に信頼される基になる。これがこれからどのように反応していくかということは、これから日本が何をするかということにもかかってくることである。

 新党問題について、今後政局がどうなるかということについてはっきりした見通しをもっている人はいないと思うが、私どもが今考えている新党問題は、あらゆる意見がある。社会党とさきがけが一緒になり、新しい党を作り、そこに新しい党を吸収して新党をつくるのがいいのではないかという意見。ただ私が申し上げているのは、第三極という言葉は使うべきではない。第三極という言葉を使うというのは、自民党と新進党を前提にして第三極をつくるという話になる。そんなことで日本の政界は動いていかないのではないか。第三極という言葉を使わずに、政権を担いうるもう一つの党をつくるという表現で、新しい党を目指すべきではないか、というのが私の持論だ。新しい新党の作り方というのは、これだけ無党派層があり、あるいは選挙に行かない方が多いわけで、したがって、こうした方々に政治に対する関心を持ってもらい、期待をもってもらう。期待をもたれるような政党を作るということは、一体何なのか真剣に考えるべきだ。そういう方々の意向が十分反映された理念なり政策をしっかり押し出していく旗を高く掲げる。その旗にいろいろな人が結集してくる。そういう新党を目指す必要があるのではないか。それがいうならばもう一つの党だと。こういう漠然とした発想であるが、そういう心組みでやることが大事ではないか。我が党内では先の参議院選挙の比例区で七百万からの票を得たその基盤をおろそかにすべきでない、もっと大事にすべきだという意見もあるが、そういったことにとらわれていたのでは新しい党に発展できないと。だからそれも大事にしながら、どう新しい党に活用し、生かしていくかということを真剣に考えるべきだと。

 歴史の転換期に臨んで、各党が現状を固定したまま続くとは思わない。固定してものを考えずにそういう新党が生まれてくる状況になると、それが影響して自民党も新進党もあるいは変わるかもしれない。変化は生まれてくるかもしれない。変化が生まれてくるような状況をどうつくっていくかということが、日本の政治を変えていく一つの力になっていくのではないか。そういう役割と働きも十分意識しながら、新党を考えていく必要がある。そうでなければ、日本の政治は変わらないし、同時に日本の政治が変わらないということは、新しい時代に立ち後れていくということになる。そういう意味で、思い切って政治も改革する必要があるし、政党も変わる必要がある。三党の連立政権ができたときに、社会党の中では長い間議論されてきた自衛隊の合憲の問題についても、違憲、合憲という議論があったが、これからは、イデオロギーで対立する時代ではない。政策でお互いに競い合う時代である。同じ土俵の中で、日本の安全保障を議論するという必要がある。だから思い切って変えた。そういう意味では社会党の体質もだんだん変わってきたと思うし、同時に社会党が変わっていけば必然的に自民党も変わらざるを得ないと。今度の自民党の総裁選挙の状況をみても派閥の力がどれくらい作用するのか、以前のように派閥の締め付けが効かないということで、横断的にいろいろな方がいろいろな動きをすると。これだけ自民党も変わる必要があると見た方がいいと思う。自民党も変わるし、社会党も変わる。各政党も自己改革を遂げながら新しい時代を担いうる力をどうつくっていくかということを真剣に考える時代ではないか。今持っている政権が、政界、経済界、社会に対して、歴史的な役割を果たすことができればそれでよいと考えている。いろいろな困難や障害があろうともやらなければならないことはやるというのが、政権に課せられた役割だと自覚してこれからもがんばっていきたい。