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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 党女性リーダー育成研修会における講演(橋本龍太郎)

[場所] 
[年月日] 1996年6月15日
[出典] 橋本内閣総理大臣演説集(下),964−972頁.
[備考] 
[全文]

 今日は女性リーダー育成研修会にお招きいただき、本当にありがとうございました。日ごろから自由民主党を支えていただいていることに、心からお礼を申し上げます。そして、我々はいつの日にか、今までお互いが経験したことのない新しい仕組みの中で選挙を戦うわけですから、自由民主党が必ず勝利をおさめられるように、それぞれの小選挙区支部における皆さんのご活躍を、心からお願いいたします。

 本当は今日、こちらに来るまでにいろいろなことを考えてくるつもりでした。ところが、一週間ぶりに母親の病院に行って、少しがっかりしているうちに、考えるのを忘れてしまいました。

 私の母親は、昭和六十三年の夏に仕事の帰りに倒れてから、もう八年間、病床にいます。何回か家に連れて帰りましたが、結果的には、やはりどうしても病院でないと介護がしきれません。その代わり、私は折があればできるだけ母の病院に行くようにしています。しかし、ある写真週刊誌に、母の病気にかこつけて私が病院通いをしているという記事が載り、今日、病院の職員の方に大変に恐縮して謝られ、母親の病気見舞いまでが面白おかしい記事にされるのかなと、私は本当に情けない思いがしました。そして、これは逆に、皆さんであれば一番わかっていただけるだろうと、今日は、普段、人前ではあまり触れたことのない話を多少させていただきたいと思います。

 実は、私は生まれて五か月目で母を亡くしました。そして、小学校に入る直前に新しい母を迎えました。その直前まで、ここにおまえのお母さんがいるんだよと祖母に言われて仏壇に手を合わせていましたから、ある日突然あらわれた女性を、この人がお母さんだと言われても、全くなじめませんでした。そして、少しなじみかかったころ、弟が生まれました。今、高知県の知事をしている大二郎です。

 ちょうど敗戦直後で、一人一人が生きていくのに必死の時代でしたから、今の私には、当時、父と母が、ある程度育っている私よりも、生まれたばかりの赤ん坊の大二郎に非常に多くの時間を割いた気持ちはわかります。しかし当時の私にはそれがわかりませんでした。ですから、なじみかけていただけに、その反動はより激しいものになりました。

 しかし、母は、大変、素敵な女性であり、いつの間にか私は母に尊敬と愛情を向けるようになり、今、私は母を本当に誇りにしています。そして大抵の本当の親子より、わが家のほうが仲がよいぐらいの自負心を持っています。

 母は、父が亡くなって私が政治の仕事に入ってから、家にいるのはさびしいからユニセフの仕事をやりたいと言って、ユニセフの仕事に打ち込み、世界中を駆け歩いていました。発病する直前もスリランカに行き、相当疲れて帰ってきて、ユニセフの次年度予算の陳情で、超党派の国会議員の方々に陳情をした帰りのクルマの中で倒れました。病院に運ばれたときはほとんど絶望状態でしたが、前後五回の手術を繰り返して、今は、かろうじて話もしますし、片腕も動くようになりました。

 突っ張っていた時代が随分長くありましたし、心配をかけたという気持ちが今でもありますから、私にとっては母と一緒に過ごす時間は、本当に貴重です。別に私が横にいて何をしてやれるわけでもなく、また母のほうも私に話しかけるわけではありませんが、時々ベッドからこちらをながめて、「ああ、いるな」と安心した顔をします。それを見ているだけでも私にとっては非常に幸せですし、気がついてみると二時間、三時間とたっています。そんな大切な時間を過ごしているものが、マスコミにかかると、こういう記事になるのかなあと、大変に情けない思いがしました。

 そうした中で、改めて、今、大変大きな問題になっている介護の問題をしみじみ考えさせられています。もともと平成八年を迎えたとき、私は総理大臣という仕事に就くという思いがあったわけではありません。それだけに、一月五日に村山首相が急に退陣を表明して、そして三党連立を崩さずに、政策合意の中で私を推そうと言われたとき、大変光栄でしたが、本当に表情がこわばり、連立政権を率いる私の役割は何だろうと、真剣に考えました。そして日本を、より安全で平和な国として保ちながら、次の時代に向けたステップを少しでもきちんとくみ上げていくことができればとの思いで、一日一日を過ごし、いつの間にか五か月が過ぎていきました。

 そして、国の内外でいろいろなことがありましたが、この第百三十六回国会そのものが一つの節目として、六月十九日に終わろうとしています。そうした中で改めて、日々の仕事に追われながら、「一体、我々はこれから何をしていけばよいのだろう。同時に、我々が勝手に進めていくのではなくて、国民の皆さんに一緒に考えていただかなければならないことは何だろう」、としきりに考えさせられています。そして、毎日を過ごしている中で、必ずしも我々は変化を実感してはいませんが、実は大変大きな変化の流れの中にいるということを否応なしに感じさせられてきました。国の内外に対して、そうした問題はたくさんあります。

 去年の今ごろ、私はアメリカと自動車交渉で大変派手な立ち回りを演じていました。この立ち回りをしている間中、日米双方が自分の国の言い分がいかに正しいかということを、世界中にPR合戦しました。そして、この自動車交渉に関しては、ヨーロッパもアジア・太平洋の国々も皆、日本の言い分が正しいと支持してくれました。

 しかし、その時にアジア・太平洋やヨーロッパ、カナダやラテンアメリカの国々みんなから、「この自動車交渉については日本の言い分が正しい。しかし、日米関係が安定しているということは非常に大事なことなのだから、自動車問題で、アメリカと日本が決定的な決裂をしないようにしてくれ」と口を揃えて言われました。

 確かに日本にとって日米関係は一番大事な関係だと我々は思っていますが、我々が思っている以上に、他の国々が日米間が安定しているということにこれだけの価値を置いているということを、改めて私は教えられた思いでした。それだけに、総理を拝命した時点で、クリントン米大統領の訪日に向けて、日米関係を安定させるもとは何だろうと一生懸命に考えました。

 日米関係の基盤をなしているのは、やはり日米安全保障条約であり、それが堅持されていることが、そのままアジア・太平洋地域の国々が安定する一つの大きな礎にもなっており、同時に、我々のためにもなっています。しかし、その反面、基地のある地域の方々にはそれだけの負担をかけており、ことに基地が集中している沖縄県において、その犠牲は非常に大きなものがあります。

 沖縄が本土に復帰してから数年間は、我々も沖縄の問題に随分関心を持っていました。しかし、五年、十年とたつうちに、沖縄が抱えている基地問題の重みを、そして沖縄県民の方々の心の中を、いつの間にか我々は忘れていました。日米関係を安定させるための基盤としての日米安全保障条約を堅持すると同時に、この沖縄県民に抱えていただいている重荷を、どうすれば少しでも減らせるだろうかということが、私にかかってきた大きな課題の一つでした。

 大なり小なりの差はありますが、それは本土の各地域にある基地の周辺にお住まいの皆さんにも同じ問題があるわけです。そしてまだ、残念ながらこれに対して私は完全な答案を書ききれていません。しかし、国際社会に対しても、また、その負担を集中して受けていただいている沖縄県をはじめとした基地周辺の住民の方々に対しても、私たちはこの責任を果たさなくてはなりません。基地問題に対してきちんとした答えを書くことができれば、そして全員の賛成を得ることはできなくても、ある程度多くの方々の賛成をいただける状態にできれば、私の一つの役割は済むのかなという思いもしている昨今です。

 しかし、足元を見たとき、もう一つ頭を抱える問題にぶつかりました。それは日本の景気です。この数年の経済情勢の大きな動きの中で、どんどん製造業が海外に生産拠点を移しています。その結果として、その製造業の下請け、あるいは孫請けをしている中小企業の経営に非常に大きな影響が出ており、さらに雇用にも大きな問題が出ています。そして日本の景気自身が、なかなか回復基調に乗りません。

 その不況を突破するために、何回も何回も補正予算を組み、公共事業を追加して、ある意味では仕事を人為的に作りだし、物の流れを作りだし、おカネの流れを作りだし、そして働き場所を作りだしてきました。そして今、ようやく景気が回復軌道に乗ったと言ってもよいぐらいのところまできました。中小企業の状況が少しよくなったという数字や、個人消費が改善されつつあるという数字が出てきています。

 しかし、私自身の目で見てみると、そうした実感にはまだ遠く、ここで景気回復の動きを失速させてしまったら、またもとの不況に戻ってしまいます。平成八年度予算をうまく使いながら、民間投資を中心にした景気回復の軌道にどうやったらうまく乗せられるだろうか。三・四%という、いまだかつて経験したことのない高い失業率と合わせて、これが私にとって大変頭の痛い問題です。

 従来のように国の財政にゆとりがあれば、無理やり仕事をつくりだすというようなことをやってもよかったのかもしれません。ところが、そういうことを繰り返しているうちに、気がついたら、我々は子供や孫の世代から、二百四十一兆円もの国債という大変大きな借金をしていることに気づきました。我々はその借金を減らしていかなくてはならず、景気も軌道に乗せていかなければなりません。しかし、その二つの命題の間には、おそらく剃刀{かみそりとルビ}の刃のような細い道が一本あるだけでしょうから、一体どうやったらそこを踏み外さずに歩いていけるのかということが、大きなテーマとしてもう一つ、私の肩にのしかかってきました。

 そして、そういう目で改めて政府を見たときに、これはいけないと思ったことが一つあります。それは、審議会という存在です。日本の行政に対して、よく「縦割り行政」という批判があります。これはある面では正しく、ある面では間違っている部分がありますが、その弊害を一番大きく表しているのは、実は審議会です。そして、それぞれの審議会はもちろん目的を持って一生懸命に仕事をしてくださいますが、ほかのことをあまり視野の中に入れていません。

 つまり、財政審議会は財政だけ、経済審議会は経済だけ、社会保障制度審議会は社会保障制度だけ、税制調査会は税制だけで、それぞれの守備範囲で一生懸命に仕事をしていただいていますが、トータルとしてはどうなのかということが、あまり議論されていません。これはまずいと思い、関係する審議会の会長さんや会長代理の方々に集まっていただき、共通の土俵で話をしていただくための仕組みをスタートさせました。

 例えば、税制調査会は税で考えます。国民の皆さんにどこまで負担していただけるのか。それは直接税なのか間接税なのか。税としての議論はそれでよいわけです。社会保障制度審議会は、健康保険や年金、さまざまな福祉施設の整備などを考えます。しかし、保険料という名前であっても、税という名前であっても、負担をしていただくのは同じ国民の皆さんですから、税は税で負担していただけるだろうと思う限界まで税を積み上げていき、保険料も同じように保険料だけを限界まで積み上げていったら、結局、国民の皆さんには背負いきれなくなってしまいます。

 今までは、税と保険料、地方税も含めての国民の皆さんに負担していただく総額としての、国民負担率という眼から、こういう問題をあまり議論していませんでした。振り返ってみると、土光敏夫さんを会長として大変大きな業績を上げた「第二次臨時行政調査会」のときに、国民負担率という議論が真剣に行われました。高齢化がピークに達する西暦二〇二〇年から二五年ぐらいのころは、四人に一人が六十五歳以上になりますが、その時期においても、国民の皆さんに税や保険料で負担していただくトータルが五〇%を超えてはならず、できれば四五%ぐらいに留めるという考え方が打ち出されて、私もそれがよいと思っていた一人ですが、問題は土光さんたちのころに考えられたよりも、高齢化のピッチが速いということです。

 そうすると、もう一度、国民負担率について考えてみなくてはならないのではないでしょうか。今は国民の皆さんに、例えば保険料や税の形で負担していただいているトータルは、三八%を少し下回るぐらいです。しかし、例えば地方財政で、あるいは国債の発行残高で、さらに国鉄生産事業団の累積債務の償還などのいろいろなものをこれに継ぎ足すと、国民の皆さんに負担していただく数字は、実質的には四二〜三%に近いところにきているのではないでしょうか。

 そうだとすれば、一体、どこを節約することでおカネをつくっていけばよいのだろうということが、今、私の目の前に控えている新しい大きなテーマです。

 それには、国と地方の行政を見直してゆき、地方分権を進めて、できるだけ住民に身近な仕事は住民に身近な自治体にしていただけるような工夫をしていくこと。国の規制をできるだけ減らしながら、創意工夫を生かして、中小企業の方々もどんどん新しく仕事を興こしていけるような状況をつくっていくこと。それから、余計な規制があるために、値段が高くなるような高コスト構造を直していくこと。

 さらに、何よりも新しい研究開発への投資を思い切って進めていく中で、これから先につながるような仕事を生み出してゆき、新しい産業をつくりだしていくこと。そして、現行の制度を全部見直して、重複している部分があれば排除し、欠落している部分があれば埋めるという努力を地道に積み重ねていく以外には、解決策はありません。

 今国会の終わりに、公的介護保険が最後の大きな問題になってきました。介護システムが要らないという人は日本中に誰もいません。同時に、介護システムが国だけでつくれると思っている人もいないはずです。その中に民間の力をどう入れればよいのか、あるいは、一番身近な行政として市町村にご協力をいただかなければ、こういうシステムはうまくいきませんが、市町村がそうした仕事を受け取って進めていけるような状況づくりに何が足りないのかということが、一つの問題になってきています。

 一口に市町村と言っても、その規模には大変な差がありますし、財政力にも差があります。どこに住んでいようと、この日本の中で暮らす以上、みんなが同じ条件で介護システムの恩恵を受けられることが必要ですから、当然ながら行政だけではなくて、民間の力を拝借します。ここで、その拝借の仕方をどう仕組んだらよいのかということが大きな問題になってきました。そして自由民主党の中で、今、それぞれの立場から、大変真剣な議論が積み重ねられています。

 この問題で困るのは、自分がダメだと言ったから公的介護保険の法律ができなかったと言われたくないという思いがみんなに働くことです。ですから、それこそ市町村の長の方々やお医者さんたちも、いろいろな問題を抱えてはいますが、それを表に向けては言いにくい雰囲気があります。このようなわけで、みんなが問題点を抱えながら、今まで何となくしり込みをして、真剣な議論ができずにいましたが、このところやっと本格的な議論になってきました。

 そして、今まではお年寄りや各種のハンディキャップを持つ方々のお世話を、奥様方やお嬢さん、ことにお嫁さんに背負ってきていただいたわけですが、それを肩代わりするというだけではなく、この介護システムを新たにうまくつくるということができれば、今、本当に職がないと言われている時代に、新たな職業、働き場所を作り出すことができるという希望も持っています。

 このようなテーマを抱えながら、私たちは毎日を必死で過ごしてきました。しかし、その積み重ねの中で、我々が見失ってはいけないことは、国外では、日米関係が安定し、それを基軸にして日本が国際社会の中で果たせる役割を背伸びをせずに背負っていくことです。国内では、二十一世紀初頭には五人に一人が六十五歳以上、やがては四人に一人が六十五歳以上という日がくることをしっかりと頭の中に入れたうえで、少しでも子供や孫の時代に残す借金を減らし、そして、若い働き手の数が減っても、この日本という国が活力を持ち続けることができるような仕組みをつくることです。それが今、私たちに課せられている責任だということを、改めて皆さんにご認識いただきたいと思います。

 そして、自由民主党はその責任を担っていこうと決心をし、今日まで進んできました。そして、責任政党という自負心どおり、時に国民の皆さんに叱られる選択であっても、必要だと思うことには真正面から取組みながら、その批判には一身に耐えていこう、それだけの自負心はお互いに失わずにいこうということを言い交わしながら、今、毎日を過ごしています。

 そして、国民の皆さんの期待を担えるだけの実績を積み重ねて、その上で皆さんの審判を仰ぎたいとの気持ちでいる昨今です。

 今日、こうしてお招きをいただきましたことに、心からお礼を申し上げますと同時に、ご来会各位のご健勝を心からお祈りして、この場を失礼いたします。今日は本当にありがとうございました。