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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 沖縄コンベンションセンターにおける橋本内閣総理大臣の講演

[場所] 
[年月日] 1996年9月17日
[出典] 橋本内閣総理大臣演説集(上),587−596頁.
[備考] 
[全文]

 本日は、知事さんのご好意でお招きをいただき、こうした場を設けていただきましたこと、また、この席にご参集いただきました皆様方に対し、心からお礼を申し上げます。

 本日は、これからの沖縄県に予算的な裏打ちを保障する、そうした意味も込めまして、久保副総理・大蔵大臣、また、中長期的な経済についてご相談相手になる、その意思を明らかにするために田中経済企画庁長官、そしてベーシックな沖縄県のための国政の機関としての岡部沖縄開発庁長官にそれぞれご同行いただき、渡邊官房副長官ともども沖縄県を訪問させていただきました。

 まず、こうしてお迎えをいただいたことに冒頭お礼を申し上げます。

 私は、本年一月に内閣総理大臣を拝命いたしまして以来、沖縄の問題を、国政の最も重要な課題として取り組んでまいりました。また、沖縄県の方々が現在まで抱えることを余儀なくされてきた問題と、それに対する国のこれまでのかかわり方について、目をそらすことなしに、真正面から向き合ってまいりました。

 そしてかねがね、沖縄に対する私自身の思い、また、この問題に全力で努力してまいりました内閣の決意、こうしたものを、直接沖縄県の皆さんに、率直に語りかけさせていただきたい、そんな思いを持っておりました。本日は、大田沖縄県知事のお招きをいただきましたことに感謝をしながら、そのような私の思いをお話しするために沖縄にまいりました。今、こうして、沖縄の土を踏み、沖縄の空気を吸いながら、沖縄県を代表される皆さんに直接語りかけることが出来、しみじみ、ようやくここまで来たなという思い、また他方で、まだ道半ばどころか、ようやく一歩を踏み出した、そんな思いが実感でもあり、決意を新たにした次第であります。

 本日このように私が、こうした形で沖縄を訪れることが可能になりましたのは、何と申しましても、大田知事さんをはじめとする、関係者の方々のこれまでの真剣な熱意、努力によるところが大きいと言わなければなりません。大田知事と私の間では、本年一月二十三日の会談以来、何度も真剣な論議を繰り返し、国と県、立場は異なりますものの、それぞれが持つ沖縄に対する思い、といったものを互いにしっかりと確認してきたところであります。その積み重ねから、九月十日の知事さんと私との会談が生まれてまいりました。そして、この会談で、沖縄の基地問題や、経済社会の振興策について、お互いの間の信頼関係をそのベースにしながら、互いに心を開き、極めて率直な議論をさせていただき、それを踏まえて今回、大田知事は、大変重要な決断をなされました。それは、言うまでもなく、公告・縦覧の代行手続のことであります。しかし、それだけに私はこのご決断は、知事にとって大変苦汁に満ちた、またつらいものであったに違いないと思います。九月八日の県民投票が、沖縄県民の方々の、この問題に対する歴史的な体験を踏まえた熱い思い、今まで長い歴史の中で、自らものを決し得なかった、そうしたチャンスを持ち得なかったという県民の気持ちを反映したものであったと私は思いますし、県民投票という手段を選ばなければならないところまで、県民の方々のお気持ちを追い詰めてしまったことを、重く受け止めております。私は、このような知事さん、そして県民の方々のご心情というものに思いをいたしながら、これからの沖縄問題の取組みに、全力で当たってまいります。

 言うまでもなく沖縄は、紺碧の海と真っ白な砂が大空に映える、陸には深い緑が茂る自然の美しい島々であります。そこには、琉球王朝以来の歴史と伝統が息づき、その後新しいものを取り入れながら、世界的にも特色のある日本の財産として、優しく、暖かみのある独特の文化、気風といったものがはぐくまれてまいりました。しかしその一方、沖縄の方々には、歴史上繰り返し厳しい試練が加えられてまいりました。特に先の大戦では、本土では唯一の激戦地となり、そのために、実に全人口の三分の一もの多くの方々が命を落とされ、更に多くの方々が、家族や親類を失う悲しみに襲われました。敗戦の後も、昭和四十七年に、当時全国民の悲願でありました本土復帰が実現するまでの二十七年間、被占領地としての不自由な体制に苦しまれ、そして復帰後二十四年経つ今もなお、現在議論されておりますさまざまな基地問題に悩まされ、加えて、経済的、社会的にも困難な状況にあるのが現実であります。我が国が、戦後順調に復興・発展を遂げていく過程で、その前提となる、我が国とアジアの、均衡と平和の要石としての役割を果たしてこられた沖縄の方々の、歴史的な負担とそのお気持ちに対し、深く理解しようとする努力が必ずしも十分でなかったことは、国民全体として、率直に認め、反省すべきだと私は思います。

 ところで、私事にわたりますが、私個人と沖縄とのかかわりについて申し上げますと、私が初めて沖縄というものを意識いたしましたのは、沖縄戦の前に沖縄から九州へ疎開する学童を乗せた疎開船、対馬丸が、米国の潜水艦によって撃沈をされた、いわゆる「対馬丸事件」のご遺族の方々にお目にかかったことからでありました。まだ私が大学生でありましたころ、当時早稲田大学の総長をしておられました大濱信泉先生のご紹介で、対馬丸事件のご遺族の方々が、当時麻布にありました私の家、父を訪ねてお見えになりました。たまたま私がその日、そのご遺族を玄関にお迎えをし、応接間にご案内をいたしました。正直に申しますと、私はそのときまで、この対馬丸事件というものを全く存じませんでした。その晩、父から、千四百名余りの方が犠牲になられた、この沖縄の悲劇の話を食事のとき聞かされました。そして、その父がしみじみとその話をしながら、最後に、「沖縄県には恐らくまだこうした問題が残っているに違いない、こうした問題を放っておいてはだめだ、政治が解決しなければならない。」と怒りをもって強い口調でつぶやいておりました姿を、今も脳裏に残しております。

 その後、私はその父の後を継ぎ、衆議院議員となりましたが、その時点においても、疎開船対馬丸の遭難学童のご遺族については、残された課題のままでありました。そして、この援護事業をスタートさせることは、私のライフワークの一つでもありました。当時、対馬丸で遭難された疎開学童については、戦没者とは言い難いということで、そのご遺族は年金などの処遇を受けておられませんでした。これを何とかしなければならないと努力をしてまいりましたが、昭和五十二年には、特別支給金の支給が開始されるようになりました。

 また、後に全国民の悲願でありました沖縄の本土復帰を実現された佐藤栄作総理が、昭和四十年に初めてこの沖縄を訪問され、東京へ戻られると直後に私たち数名がよばれ、佐藤総理直接の指示で、自由民主党の若手議員グループの一人として、私は初めて沖縄を訪問いたしました。そのときの沖縄の印象で今でも忘れられないことは、それは本土に比べて非常に木々の丈が低かったということであります。そして、当時ご案内をいただきました立法議員の方から、沖縄戦でなぎ倒された木が、ようやくここまで育ってきたと、そんなご説明をいただきました。悲惨な沖縄戦の一端を、そこにかいま見る思いでありました。そのとき、本島だけではなく、宮古島、石垣島まで訪れさせていただいたことを、今も記憶をいたしております。

 本土復帰の後も、ご遺族の方々あるいは福祉関係の方々とは、さまざまなことで長いお付き合いをいただいてまいりました。当時、国籍要件によって手当の支給を受けられなかった母子家庭に、児童扶養手当を支給してほしいというご要望を受けたのも、このころのことでありました。そして、「来年は必ず受給出来るように制度を直します。」とお約束し、児童扶養手当の国籍要件を変えることによって、昭和五十年にこれが実現をいたしました。その次の衆議院選の際に、そのお母様方の何人かが、わざわざ岡山の私の選挙にまで応援に来ていただいたこと、本当に喜んでいただけたのだなと、とても幸せだったことも忘れられないことの一つであります。また、戦傷病者・戦没者遺族等援護法において、昭和五十六年には、六歳未満の児童にも援護の手が差し伸べられるようになりました。

 こうしたことから、この沖縄県内には友人も出来ましたし、私自身もしばしば沖縄県内を訪問させていただくなど、政治家としても、私個人としても、沖縄問題には関心をもってきた一人であると思っておりました。昨年の秋以来、この問題についていろいろ考えさせられることもあり、また、ことに総理を拝命いたしましてから、知事さんの著書や、さまざまな文献を調べたり、日米双方の沖縄の位置付けについて、自分なりに調べてみました。国民全体が戦後五十年の平和な生活のうちに忘れてしまった、沖縄の方々の悩みや苦しみというものを改めて認識せざるを得ませんでした。沖縄問題に、長年関心をもっていたと、多少自負してまいりました私自身が、本当に、恥ずかしい思いで一杯であります。もちろん、長年積み重なってきたことを、一度にすべて解決することは出来ません。しかし、今回は、せめて解決の一歩は踏み出したい、そんな思いで今日まで一生懸命全力投球で努力してきました。今、改めて、長年我々が、余りにも沖縄の方々の心に無関心でありましたことを、お詫びしたい気持ちで一杯であります。

 しかし他方、一国の総理大臣という立場では、日米関係の大切さについても改めて強調しなければなりません。日米関係は、ただ単に日米両国にとって重要であるだけでなく、国際社会にとっても非常に重要な外交関係の一つで、私は、このことを、昨年の自動車協議でいやというほど知らされました。すなわち、自動車問題における日米協議が山場を迎えましたとき、ヨーロッパあるいはアジアのさまざまな国から、「自動車問題については、日本の言い分に利があるが、しかし、この自動車問題で、日米という大切な関係を壊さないでほしい。」と、口々に言われました。このとき私は、日米関係が安定していることが、我々が感じている以上に、世界にとっても重要なのだということを、痛いほど感じさせられた次第であります。その日米関係の中核であり、政治的基盤をなしているのが、日米安全保障体制であります。日米安全保障体制は、我が国の安全のために必要不可欠であると同時に、アジア太平洋地域の安定した平和と繁栄のためにも、これを堅持していかなければならない、極めて重要な役割を果たしております。この日米安全保障体制の重要性を見据え、その目的を達成していくためには、在日米軍施設・区域の安定的な使用を、今後とも確保していくことが必要であります。

 問題は、これらの米軍施設・区域の約七五%が、日本の国土面積のわずか〇・六%しかない沖縄県に集中していること、沖縄県においては、米軍施設・区域が県土の総面積の約一〇%、沖縄本島の面積の約二〇%を占め、住民の生活環境や地域振興に影響を及ぼすなど、沖縄の方々に長年にわたり大変なご負担をお願いしてきたことであります。政府としても、現在その負担を少しでも軽減するため、これまで、米国との間では日米特別行動委員会(SACO)を設けました。また、沖縄県とは、沖縄米軍基地問題協議会の場などを通じ、十分協議しながら、その整理・統合・縮小に努力してまいりました。

 今回のSACOの中間報告が実現するならば、普天間飛行場の返還などにより、現在沖縄県に存在する基地のうち、十一施設・区域、面積にして約二〇%が返還されますほか、県道一〇四号線越え実弾射撃訓練の本土移転や、嘉手納飛行場などにおける騒音軽減措置の実施、日米地位協定の運用の改善など、沖縄県における米軍基地の負担の軽減となります。そして、この問題の解決のためには、今、まさに国民全体が沖縄県の現状をよく理解し、沖縄県の方々が、我が国の安全のために、長年にわたり担ってこられたご労苦に思いをいたしながら、その負担を国民全体で分かち合っていくという姿勢が求められております。

 政府といたしましては、今後とも沖縄の基地問題解決に向けて最大限の努力をしてまいりたいと考えておりますが、当面は、このSACOの協議を実現することに全力を尽くしてまいります。そして、この十一月にSACOがとりあえずその役目を終えた後にも、SACOの成果を第一歩として、引き続き米軍の施設・区域の整理・統合・縮小を、米軍との間で推進していくとともに、地位協定上の課題についても見直しを行い、その改善に努力してまいります。また、そうした努力とともに、私は、今年四月のクリントン米大統領との共同宣言で明らかにしたように、今後とも、アジア情勢の安定のための外交努力を行うとともに、米軍の兵力構成を含む軍事態勢について、継続的に米国と協議してまいりたいと考えております。

 なお、沖縄県の皆様の関心が極めて高い普天間基地の問題につきましては、私自身先頭に立って一生懸命取り組んでまいり、去る四月に、私自身モンデール大使と会談を重ね、その返還を合意するに至ったわけであります。また、返還のための条件となる代替ヘリポートの移設先については、その後、嘉手納統合案やシュワプ移設案等さまざまな可能性が事務レベルで検討されてきたことはご承知のとおりでありますが、この度、日米協議の場におきまして、米国側から新たな提案がなされました。それは、撤去可能な海上ヘリポートを建設する可能性を、日米両国の技術を結集して研究するというものであります。実は、ヘリポートの移設先については、私から関係当局に指示して、さまざまなオプションを検討させる一方で、私自身も自分なりに勉強して、自然破壊につながらず、撤去可能な海上ヘリポート案も選択肢の一つとして、いろいろな可能性を探ってまいりました。今回米国側から提示のありました案は、このような私の考え方を踏まえたものでもありますし、克服すべき問題点を多く含んではおりますが、それはそれなりに一つのオプションとして、検討する価値があるのではないかと思います。したがって、新しい提案につきましても、沖縄県の皆様の意見も十分伺いながら、これまでの案とともに、日米共同で真剣に検討してまいりたいと思います。

 ところで、沖縄の問題というものは、米軍施設・区域の整理・統合・縮小にとどまるものではありません。これまで基地がもたらしてきた経済社会上の負担を解消しなければなりませんし、更に、それに留まらず、沖縄がこれまでに歴史的に負担してきた経緯、その結果として現存する、沖縄と日本のその他の地域との経済格差を念頭において、沖縄の経済社会の復興に取り組まなければなりません。

 沖縄は、本土復帰後、既に二十四年を経ており、その間、政府としても、経済格差是正のための各種施策を実施してまいりました。しかしながら、依然として存在する格差を重く受け止め、政府としては、沖縄県とともに、今一度、真剣に、いかにしてその格差を埋めていくことが出来るかを検討することといたしました。すなわち「二十一世紀・沖縄のグランド・デザイン」を踏まえ、通信、空港、港湾の整備と国際交流、文化交流の拠点の整備を行うとともに、自由貿易地域の拡充等による産業や貿易の振興、観光施策の新たな発掘と充実、医療、環境、農業等の分野を中心とした国際的な学術交流の推進と、それに伴う関連産業の振興等のプロジェクトについて、沖縄県とともに検討を行い、沖縄県が地域経済として自立し、雇用が確保され、沖縄県民の生活の向上に資するよう、また、我が国経済社会の発展に寄与する地域として整備されるよう、全力を傾注してまいります。特に、先程知事さんのお話しの中でも触れられました、沖縄の将来を担う若者の雇用問題は深刻であり、有効な施策を県とともにご相談をしながら講じていく必要性を認識しております。

 そして、私の決意を示す上でも、こうした沖縄振興策を盛り込んだ私の談話を、さる九月十日に閣議決定し、これを公表し、政府をあげて推進することといたしました。また、特に基地関連の市町村の方々に、より大きなご苦労をおかけしていることにかんがみて、重点的な町づくりなどを検討するために、官房長官の私的な懇談会として「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」を設けましたが、第一回の現地懇談会が、去る九月十四日、十五日の両日にわたって行われ、率直な意見交換が行われたと報告を受けております。

 沖縄の振興策につきましては、ただいま申し上げたように、今後沖縄県とよくご相談しながら、真剣に検討してまいりますが、こんなことが実現したらすばらしいなと思う幾つかのアイデアに、この際触れてみたいと思います。

 例えば、沖縄県は、我が国有数の長寿県でありますが、この温暖な気候や豊富な自然環境と、この長寿県というものを結んで、「健康」をテーマとして、健康医療センターや長期滞在型の施設を設けたらいかがだろうか、

 あるいは、沖縄の亜熱帯特性を活かした、海洋、農水産、医療などの総合的研究機関を設置出来ないだろうか、

 さらには、沖縄の地理的環境と観光資源に国際ショッピングモール構想などを組み合わせ、国際的なコンベンション都市を築けないか、

 将来の情報通信社会というものを展望し、例えば、沖縄県に「マルチメディア特区」を設定する。衛星通信、光ファイバー、同軸ケーブル、無線などのさまざまな情報通信手段を試験的に活用し、低料金アクセスを実現するとともに、マルチメディア関連産業の集積を図れないか、

 等々、是非、皆で知恵を出し合ってまいりたいと思っております。

 そして、以上のような趣旨に沿いました、沖縄のための施策を推進するために、五十億円の特別の調整費を予算に計上するよう大蔵大臣に検討を指示いたしました。これは通常の予算要求とは全く別の、沖縄県とご相談をしながら、今申し上げましたような目的のために使用するものであります。

 また、沖縄の地域経済の振興などを図るために、沖縄に関する基本施策を協議する機関として、内閣官房長官、関係の国務大臣、そうやって考えてみますと、関係の国務大臣で抜けるのは、北海道開発庁長官と総理大臣だけでありまして、あとの全閣僚がこの構成員となるわけでありますが、それと対等の立場で沖縄県知事、こうした方々によって構成される「沖縄政策協議会」を、今朝の閣議決定により設置をいたしました。政府としては、この協議会における議論を踏まえ、沖縄に関連する施策の更なる充実、強化を図ってまいる所存であります。もちろん、こうした沖縄の産業振興が、沖縄の美しい自然や、沖縄の心、文化といったものと、調和しながら進められることが大切であることは、言うまでもありません。

 以上、大変雑駁でありますけれども、私の沖縄に対する思いや、沖縄の米軍基地問題、沖縄の振興策、といったものに対する取組みを述べてまいりました。

 本日、私は、これまでの長い歴史において、沖縄の方々が背負ってこられた苦難と犠牲を胸に、沖縄問題の解決と沖縄県の真の発展を願って、今までとは異なった格別の思いをもって沖縄の地を訪れました。本来でありますなら慰霊碑や戦跡などを回り、先の戦争で痛ましい犠牲となられた方々の御霊{みたまとルビ}にも哀悼の意を表したいところでありますが、急遽お招きをいただいてまいりました日程であります。そうしたことからお許しをいただきたいと思います。ただ、私としては、とりあえず皆様に、過去の沖縄の歴史を踏まえた私なりの思いを何とかお伝えしたいと願って参上いたしました。

 かつて、私の政治の師でありました佐藤栄作総理は、ことあるごとに、「沖縄の復帰なくして戦後は終わらない」と語り、自らの最後の政治的悲願として沖縄復帰に心血を注がれました。沖縄の本土復帰は、戦後四半世紀の歳月とともに、政治家佐藤栄作にとり、総理在任期間のほぼすべてを費やして、ようやく実現したものであります。そしてそれからまた四半世紀を経て、沖縄の皆様方にとりましては大変長い苦しい年月を経て、今ようやく沖縄と本土との間に、本当の意味での同胞としての信頼関係が生まれることを、私は心から願っております。私は、戦後五十年を経て、我が国自身が政治、経済、行政、社会すべての面において転換期を迎えて、新たな一歩を踏み出そうとしている今、この時期にこそ、沖縄と本土がようやく芽生えようとしている信頼のきずなを一層強固なものにしていきたい、新生沖縄にとり、本年を、本土復帰に並ぶ、次なる四半世紀に向けた新しい出発点としなければならないと強く信じております。

 平和で豊かな、やさしさと活力に満ちた沖縄の発展のために、沖縄の皆様方とともに、私としても出来る限りの努力をしてまいりたいと考えております。今後とも、皆様方のご理解とご協力を賜りますよう、心からよろしくお願いを申し上げます。本日は大変貴重な時間をお割きをいただきました、またご清聴いただきましたことを、繰り返しお礼を申し上げ、私の役割を終わりたいと思います。ご清聴本当にありがとうございました。