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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 日本青年会議所沖縄地区協議会における橋本内閣総理大臣の講演

[場所] 
[年月日] 1997年8月23日
[出典] 橋本内閣総理大臣演説集(上),597−618頁.
[備考] 
[全文]

 本日は、日本青年会議所沖縄地区協議会の皆様の大変なご尽力、そして、各青年団体のご協力によって、このように盛大な、すばらしい講演会を開催していただき、本当にありがとうございます。

 そして、こうしてご多忙の中にもかかわらず、たくさんの方々にこの会場に足を運んでいただいています。その皆さんにも、心からお礼を申し上げたいと思います。

 今日は、直接的には日本青年会議所沖縄地区協議会の皆さんのお招きを受けて、二十一世紀の沖縄に向けての私の取組み、そして、沖縄に対する私自身の思い、そんなものを直接ありのままに、沖縄の皆さんに聞いていただくために、東京からやってきました。

 私が、沖縄を初めて訪問したのは昭和四十年、佐藤総理が沖縄訪問から帰られて間もなくのころ、ちょうど今ごろだったように思います。そのときも大変暑い一日でした。そして今、青年会議所の皆さんから上着をぬいでいいよという許可をいただきましたので、私も失礼して上着をぬがせていただきます。皆さんも楽にお聞きをいただければ一番幸いです。

 昨年の一月、私は内閣総理大臣に就任しましたが、それ以来、国会の議場において、あるいは全国で行われましたさまざまな機会に、繰り返し沖縄にかかる問題というものを国政の最も重要な課題として全力で取り組んでいく、そして、その「沖縄」という在り方に、自らの思いも込めながら、目をそらすことなく、真正面から取り組んでいきたい、そう言い続けてきました。

 私自身、今申し上げたように、若い国会議員として昭和四十年に初めて沖縄県を訪問させていただいたわけですが、それ以来、随分の年月が経ちました。そして、沖縄とさまざまなかかわりを持ってきたこと、それ自身を私は一政治家として、心の中でささやかではありますが、自らの誇りにしてきました。沖縄、そして日本という長い歴史の中において、一つの時代の人間に出来ることは、本当に小さなことにすぎないかもしれません。しかし、それぞれ時代を漫然と過ごすことなく、そこに全力を傾注して、確固とした方向性を示しながら、着実に一歩ずつを踏み出していく、あるいは踏み出しつつある状況に積極的にかかわれたということを、私は政治家として、貴重な機会を与えていただいた、そう考えておりますし、大変幸せであったと思います。

 そうした中で、沖縄とのかかわりについては、ささやかな自負を感じておりましたし、またこれからもその熱意を持ち続けたい、そう考えている私自身、こんなに多くの沖縄県内の皆さんを前にし、直接語りかける機会を与えていただいたことは、本当に私にとっては幸せなことでありますし、改めてこうした機会をつくっていただいた皆さんに、心から感謝しますとともに、もしこれからお話しをする私の言葉が、意を尽くせず不十分なものであったとしても、その言葉の背後にあるその思いは是非くみ取っていただきたいと思います。

 ところで、昨年の九月十七日沖縄を訪れて、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで講演をさせていただいたときにも申し上げたことですが、そもそも、私が沖縄を意識したのは、沖縄戦を前にして沖縄県内から九州に疎開する学童を乗せた疎開船の「対馬丸」が、米国の潜水艦によって撃沈をされた、いわゆる「対馬丸事件」のご遺族の方々にお目にかかったことから続いています。ちょうど私がまだ大学の三年か四年のとき、「対馬丸事件」のご遺族の方々が、大浜信泉先生のご紹介状を持って私の父を訪ねてこられました。正直に申しますと、そのときまで私は「対馬丸事件」というものを全く知りませんでした。しかし、その晩、普段仕事の話をしない父親でありましたが、この「対馬丸事件」、千四百名余りの方々が犠牲になられた、この悲劇を父の口から聞かされました。

 そして、そのとき恐らく沖縄にはまだこうした悲劇が一杯残っているに違いない、こうした問題を放っておくわけにはいかない、政治家として何とかしなければならない、非常に重苦しい表情で語っておりましたのが、今でも私の脳裏に焼き付いております。

 その後、私は自分もその父の跡を継いで衆議院議員になりましたが、その時点におきましても、この「対馬丸事件」の問題は残された課題のままでありました。当時、対馬丸で遭難された疎開学童については、「戦没者」とは言い難い、ご遺族は年金すら受けておられなかったのであります。

 そして、この事件に対する援護事業をスタートさせることが、私自身の政治家としての目標の一つになり、昭和五十二年にようやく特別支給金の支給が開始されるようになりました。それまでにも、自由民主党の学生部長として日比谷公会堂で全国の学生部の大会を開いたとき、当時、沖縄県から東京に来ておられた当間君という学生がパスポートを手にしながら、同じ日本の中で、こうしてパスポートを持たなければここに来られない人間がいることを知ってくれ、切々と訴えられた言葉が今も耳に残っています。

 その後も、ご遺族の方々、あるいは福祉関係の方々とは、さまざまなことから長いお付き合いをしてきました。米兵と沖縄の女性の間にお子さんが産まれた、不幸にしてその父親が戦死された際に、お母さんが日本国籍でありましても、子供が米国籍であると児童扶養手当がもらえない、こんなご相談を受けたこともありました。「来年は必ず受給できるように制度を直します」とお約束をし、この問題は、昭和五十年に児童扶養手当の国籍条項を変える、そういう方法で解決をすることが出来ました。

 当時、苦労されていたお母様方が大変喜んでくださり、その次の衆議院総選挙のとき、そのお母様方の何人かが、わざわざ私の選挙区まで私の応援に来てくださったことを、本当に喜んでいただけたんだなと、幸せな思いで受け止めたことを今も覚えています。

 あるいは、立法院議員という肩書きの大田ソチさんが、一生懸命沖縄のために、岡山県からこの男を当選させてほしいと訴えていただいたこと、そうした忘れがたい思い出を私は沖縄県との間につくってきました。

 そのほか昭和五十六年には、戦傷病者戦没者等援護法という法律によって、六歳未満で負傷をされた児童の方々にも援護の手を差し伸べられるようになりました。

 こうした事柄を通じ、沖縄県とのかかわりを持ってきましたが、総理就任の時点で改めて沖縄というものを、見詰め直したとき、沖縄の方々が現在まで抱えることを余儀なくされてこられた数多くの問題というものを、いやおうなしにもう一度見詰め直すことになりました。そして、国民全体が戦後五十年の平和な生活のうちに忘れてしまった沖縄の方々の苦しみや悩みというものを、改めて認識せざるを得ませんでした。沖縄に長年関心を持って、そう多少自負しておりましただけに、本当に恥ずかしい思いがいたします。

 先の大戦で本土唯一の地上戦がこの沖縄で行われたことに対する日本の歴史の中における位置づけ、その後二十七年間もの間、占領下で不自由な体制にあったこと。日本における米軍の施設・区域の七五%が沖縄に存在するという現実の状況、そして、これらさまざまな要因が重なり合って生じている沖縄の経済的、社会的なさまざまな問題。こうした問題は本来国民全体で分かち合うべき苦痛、負担でありますが、にもかかわらず、こうした問題を社会的な実態としても、個々人の心の傷としても植え付けられて、今なお、沖縄の方々が日々そうした問題と隣り合って暮らしておられるということについて、これまで私たちが深く理解しようとする努力が全く足りなかったことに対し、率直に反省すると同時に、おわびをしたい気持ちでいっぱいであります。

 こうした思いから、その後の政府の取組みを簡単にご紹介させていただきたいと思いますが、昨年九月十七日、沖縄に出発する直前、私は、閣議で地域経済としての自立、雇用の確保によって、県民生活の向上に資すると同時に、沖縄県が我が国経済、社会の発展に寄与する地域として整備されるように、沖縄に関する基本施策に関する協議を行う場所として、私と北海道開発庁長官以外の全国務大臣、今日は稲垣沖縄開発庁長官も北海道開発庁長官ではなく、沖縄開発庁長官としてお招きをいただいておりますけれども、結局は私を除く全閣僚、そして沖縄の声を伝える重要な参加者である沖縄県知事で構成される沖縄政策協議会というものを設置しました。

 この協議会が今日に至るまで、活発な審議を継続し、政府の沖縄に対する基本政策を決定する上で重要な役割を果たし続けていることは、今更ご説明するまでもないと思います。

 また、特に苦労をおかけしております基地関連の市町村の方々のまちづくりなどを重点的に検討していくために、梶山官房長官の下に沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会が設けられましたが、そこではとりわけ沖縄側の委員の方々の献身的なご尽力によって、これら市町村の閉塞状況を打ち破り、若者たちに希望を与えることが出来る施策を要請する提言がとりまとめられました。このご提言については、昨年十一月二十二日、閣僚懇談会の場におきまして、関係大臣もこれを重く受け止めるとともに、実現のために最大限の努力をするよう指示したところであります。

 また、昨年十二月二日には、日本とアメリカの両国政府によって設置された沖縄に関する特別行動委員会、いわゆるSACO、これが普天間飛行場の全面返還を含む沖縄県における米軍の施設区域の約二一%の返還、米軍の行う訓練の改善、米軍による騒音の軽減、及び地位協定の運用の改善を柱とした最終報告をまとめました。

 この最終報告による米軍施設・区域約五千ヘクタールの返還というものは、沖縄の本土復帰後、これまでに返還されました面積の総合計である約四千三百ヘクタールを上回るものであり、沖縄県の最大の問題点である基地対策を、このように大きく前進させる合意に到達出来たことは、交渉に当たってくれた日米の担当者の沖縄に対する熱意の賜物だったと私は思います。

 こうした経緯を踏まえ、昨年十二月四日、私は宜野湾市におきまして、米軍基地所在市町村の市町村長さん方、また、市町村四団体の方々、及び沖縄懇談会の沖縄側の委員の方々とじっくり腰を据えてお話をする機会を設けていただきました。このときは少し腰を据え過ぎまして、予定時間を八十分もオーバーしてしまい、皆さんにご迷惑を掛けたんですけれども、それだけ立場を超えて心を通わせることが出来たのではないかと感じています。

 そして、ご苦労されているそれぞれの皆様方の生の声を直に伺わせていただくとともに、冒頭申し上げたような私の沖縄に対する思い、基本認識といったものを再度確認させていただきながら、それを総括して沖縄の問題は私にとっては個人的にも大変重い、自分自身の言わば原点に立ち返ってくる話だということを述べさせていただきました。また、この時お話をさせていただいたことに基づきまして、今年二月十五日には外務省の原島大使を沖縄に赴任させております。

 その後沖縄の在り方につきましては、いわゆる駐留軍用地特別措置法の改正を巡り、国会の場におきましても、さまざまな議論がされてきましたが、この改正と申しますのは、我が国に駐留する米軍に、地域及び区域を円滑、かつ安定的に提供するという、我が国の条約上の義務を履行するための必要最小限度の措置であったことを、是非ご理解をいただきたいと思うのであります。

 そのほかの具体的な個別の政策の話は後ほど申し上げるとして、私が最近経験しました沖縄の未来を考える上で何となく喜ばしい、ある意味では明るい希望のようなものを実感させていただいた一つの機会がありましたので、まず、その話をさせていただきたいと思います。

 それはつい先日の八月六日のことですが、沖縄県人材育成海外派遣事業により、アメリカやヨーロッパの大学院で博士課程や修士課程を学んでいただく第一期生、十人の方々が、出発前の大変忙しい中をやりくりし、皆さんおそろいで台風の合間を縫って東京の首相官邸に私を尋ねてくださったことであります。そもそもこのプロジェクト自身が私には大変思い入れのあるものでした。私は昨年の一月二十三日、大田沖縄県知事さんと総理としての初めての会談を持ちまして以来、何度となく知事さんに直接お目にかかり、その都度真剣に腹を割った話し合いをさせていただいてきました。

 そうした中で知事さんが特に気にかけておられた、そしていつも言っておられたことは、二十一世紀の沖縄を担う青少年が夢を持てるような社会にしたいということでありました。私自身、自分の政治課題である六つの改革の一つに教育改革を掲げ、この国の青少年の将来を真剣に考えている最中でありますが、沖縄県の経済・社会の厳しい実情に照らしたとき、もともと教育者でおられた知事さんのお気持ちはいかばかりか、大変考えさせられるものがありました。そして、私なりに考え、勉強させていただき、思い付いたのが沖縄県の青年の方々の海外留学を、私たちの手で支援させていただくことは出来ないものだろうかということであります。これは一方で知事さんのおっしゃる国際都市形成構想にもかなうものだろうと、そう思いました。

 そこで、昨年十一月、この事業について私から知事さんにご提案をいたしましたところ、知事さんからも大変強い賛同をいただくことが出来、沖縄県のための施策を推進するため特別に設けました五十億円の沖縄特別振興対策調整費の中から、この予算を配分することにしたわけです。

 このとき、官邸を訪ねていただいた十人の方々、それぞれ皆さん大変立派な、それこそどこに出しても恥ずかしくないすばらしい青年の方々であり、さすが数多くの応募者の中から選ばれて、知事さんの推薦を受けてこられた方々だと、本当にそう思いました。そして、このときの皆さんは、本当に笑顔をこぼれんばかりに、とても明るく、快活で本当に喜んでくださっているその気持ちが直に伝わってまいりまして、私にとりましても、大変うれしいひとときを過ごさせていただきました。

 中でも特に印象に残りましたのは、留学生を代表してあいさつをされた源河葉子さんの言葉でした。源河さんは、その簡潔で力強いあいさつの中で、「二十一世紀の国際都市、沖縄を実現するチームの中核となれるよう、しっかり勉強してきます」、明確な言葉で留学生の皆さんの決意を表明されたのでありますが、そのとき私は思わず「これだ」と本当に思いました。この人たちから、この言葉を聞けただけでも、このプロジェクトを実現させたかいがあった。私はしみじみそう思います。

 こうして沖縄の大地に足をつけて、真っすぐ上に伸びていこうとする青年の皆さんが頑張ってくれている。こういう人々が必ず将来、自分たちで沖縄をつくっていくに違いない。私たち大人がいささかなりともそのお手伝いが出来る。まさにそれは政治家冥利に尽きること、そうしか言いようがありません。

 しかし、沖縄の未来を最終的に決めるのは、まさに私たちではなく、彼ら、彼女らなのであります。その責任がまだ若い青年の成長し切っていない肩に決して軽いものだと私は思いません。しかし、その青年男女一人一人が私たち大人と一緒に、沖縄の将来について真剣に考え、行動し、努力するというこの在り方、これは沖縄経済の自立のために何かを持って、危機感を持って模索し、行動に移そうという、ここにいらっしゃる日本青年会議所沖縄地区協議会の皆さんが提言をされている、あの「レキオ構想」にも通ずるものがあるのではないでしょうか。今まさに、沖縄にこうした流れが生まれ、広がろうとしていることを私はことのほか力強く、頼もしいことだと感じております。

 では、現在私を始めとする政府が、二十一世紀における沖縄の在り方について、どのように現在取り組んでいるのか、この点私の考えも交えて少し紹介させていただきましょう。

 まず最初に、これは本日の中心課題ではありませんが、やはりその重要性から触れなければいけない基地問題について簡潔に触れたいと思います。

 日米関係は今や単に日本とアメリカ合衆国の両国にとって重要なだけではなく、国際社会全体にとっても重要な意義を有するものと言わなければなりません。そして、その日米関係の政治的基盤を成すのが日米安全保障体制なんです。私は日米安全保障体制は、我が国の平和と安全にとって不可欠なだけでなくて、アジア太平洋地域全体にとって極めて重要であり、日米安全保障条約上の義務を果たすということが、日本という国家そのものの存立にかかる重大事項だと考えています。

 しかし、その一方で、このことから生ずる国民全体で分かち合うべき負担が、沖縄の方々に過重に強いられてまいりましたことについては、沖縄の皆さんの声を厳粛に受け止めながら、沖縄の米軍施設・区域の整理・統合・縮小に全力で今取り組んでいるところです。

 こうした私たち政府の取組みの結果として、冒頭申し上げましたように、昨年十二月二日には、沖縄に関する特別行動委員会、いわゆるSACOの最終報告がまとめられました。これに関して、二、三触れさせていただきますと、まず、沖縄県の方々の強いご要望でありました県道一〇四号線越え実弾射撃訓練の移転につきましては、今年度からは本土の演習場において訓練を実施することとなりました。この七月には山梨県の北富士演習場におきまして、第一回の米軍による実弾射撃訓練が実施されております。これはまさに、これまで沖縄に背負っていただいておりました負担というものを、国民全体で分かち合おうとしたその方針の端的な最初の例であり、今後も出来る限りこのような在り方を進めていきたいと思います。

 次に、SACOの最重要課題であります普天間飛行場の移設につきましては、やや詳しくお話をする必要があると思います。

 知事さんに最初にお会いをしましたときから、市街地の中に存在し、住民の暮らしと隣り合わせている普天間飛行場の危険性というものにつき、強い心配、そして、だからこそこれだけはというお気持ちを私は伺ってまいりました。

 そして昭和四十年以来、十数回、あるいは二十回を超えたでしょうか。今まで沖縄県内を訪問する中で見ておりました普天間基地の姿とこれを重ね合わせたとき、私もこの知事さんのお気持ちを素直に受け止めなければならない、そう思いました。

 そこでその直後、アメリカのサンタモニカで、アメリカのクリントン大統領との間に始めて私自身が日米首脳会談を行うことになったとき、そのサンタモニカの会談で、私の方からこの普天間飛行場の返還の問題を持ち出しました。

 その後も、私自身モンデール大使と会談を重ねながら、ついに昨年四月、普天間飛行場の全面返還の合意というところまでこぎつけました。そして、周辺の住民の危険を排除するために、一日も早くこれを動かしてほしいという声を受けまして、考えに考えた抜いた揚げ句、自然環境、騒音、安全などいろいろなものを考慮し、県民の生活の質を維持出来る解決策、県民の方々の負担の軽減という観点から、現時点における最善の選択肢として、撤去可能な海上施設の代替ヘリポート設置という案が出てまいりました。

 いずれにいたしましても、普天間飛行場の返還は、この飛行場の代替となる海上施設の建設が前提となるものであります。そして、その代替海上施設の建設場所として、その適否を判断するため、キャンプ・シュワブ沖における調査をただいま実施をいたしております。この調査に当たりましては、本年四月、沖縄県及び名護市長のご理解をいただいた上で、順次実施をしているところであり、今般、海上ボーリング調査に必要な手続が県との間で整い、調査に着手いたしました。

 私といたしましては、普天間飛行場の移設先につきまして、これを言わば頭越しに特定の場所に押し付けるのではなく、沖縄県のご協力も得ながら、地元のご理解とご協力により決定させていただき、一日も早く普天間飛行場の返還を実現出来るように全力を傾けていきたいと考えております。

 去る七月二十九日の知事さんとの会談におきましては、このような私の考え方に対して、知事さんからも普天間飛行場の代替海上施設の建設に向けて、県として協力出来ることは協力するというお答えをいただいているところであります。

 この問題につきましては、知事さんが人命の危険を念頭に置かれながら提起をされ、いろいろな条件を考え抜いた末、海上移設に至ったという経緯を是非ともご理解をいただき、安全な状態を一日も早くつくり出すことに是非、お力沿えをいただきたいと願っております。

 いずれにいたしましても、私はこうした普天間飛行場の問題も含めまして、SACOにおける結論を的確、かつ迅速に実施していくことが、沖縄における米軍施設・区域の整理・統合・縮小を推進しながら、一日も早く沖縄の負担を軽減する最も確実な道だと考えており、その実現に向けて一生懸命努力しているところでございます。

 そして、今後ともにSACOの成果を第一歩としながら、引き続き米軍の施設区域の整理・統合・縮小をアメリカとの間で推進していくとともに、昨年四月クリントン大統領との共同宣言に基づいて、米軍の兵力構成を含む軍事態勢につき、継続的にアメリカ側と協議してまいりたいと考えております。

 次にこうした現状を踏まえながら、本論となりますけれども、二十一世紀の沖縄の発展に向けて、幾つかの角度から私なりの考えを述べてみたいと思います。

 そこでまず、特に沖縄の経済の発展の問題について触れてみたいと思います。

 本土復帰後二十五年間の沖縄の経済、これは本土のそれを上回る良好なパフォーマンスを示してまいりました。名目県民総支出は、平成六年で復帰時の約六・二五倍となります。この間、我が国全体では四・九六倍であることと比較し、これを大きく上回っております。

 また、支出構造の面でも、復帰前には支出の二八・二%を占めておりました県外からの入超比率が、平成六年には一〇・三%にまで低下し、多くの物資を本土などからの輸入に依存していた時代は過ぎ去りつつあります。

 更に社会資本の整備も目覚しいものがあり、学校教育施設を始め、道路、空港、港湾などの交通通信施設、上下水道などの生活環境面の整備などが着実に推進され、施設整備の面での本土との格差は大幅に縮小されてまいりました。

 しかし、一方でまた残っている問題も数多くあります。沖縄経済の成長パターン、景気動向は、復帰直後の高成長は望めなくなり、我が国全体ともシンクロナイズしてきております。そのために、一人当たり所得と全国平均との大きな格差、若年層を中心とする高失業率の存在など、こうした課題の解決は、今後沖縄が本土を上回る成長率を達成しなければ果たし得ない状況にあります。

 また、沖縄の財政支出が全支出に占めるウェートは三一・七%に達しており、しかもそれが増加する傾向にすらあるわけであります。ちなみに我が国の平均は、一八%で安定している状況にあります。したがって、沖縄の経済の発展のためには、この二十五年の歩みを踏まえた上で、新たな発展の可能性を見出さなければなりません。

 そのためには、まず沖縄における高い公的支出への依存体質を是正していくこと。民需主体の経済体質の形成に向けて努力を傾注しなければなりません。これをスムーズに実現することは、決して容易なことではありませんが、しかし、私はどうしてもこれを実現していかなければならないと思いますし、また、沖縄県の人口が着実に増大をし、かつ三十歳以下の人口の比率が日本一であるという若さにあふれる県であることを考えるとき、きっと実現することが出来ると考えております。

 こうしたことも踏まえながら、私は冒頭申し上げました沖縄政策協議会の設置を閣議で決定をし、内閣を挙げて沖縄経済の発展に取り組むよう措置してきたところです。この政策協議会には現在、社会資本部会、産業経済部会、環境技術国際交流部会の三つの部会があり、その下に十個のプロジェクトチーム、三十四のプロジェクトについて鋭意協議を進めております。また、その検討に資するため、五十億円の調整費を計上し、政策立案へのバツクアップ体制も整えました。

 去る七月二十九日には、政策協議会の六回目の会合を開催し、これまでの検討結果を中間的にとりまめました。五十億円の調整費も、通信などインフラ整備の推進、米軍施設・区域返還跡地の整備検討、雇用の促進、人材の育成など、数多くのプロジェクトに対し順調に配分をされております。

 また、こうした検討の結果は、逐次具体化しつつあり、既に航空運賃の引き下げ、留学生の派遣や同時通訳の養成制度の創設、海洋深層水研究所の整備着手等が実現されておりますし、更にマルチメディアの振興のための共同利用施設の開設も近々予定されているところであります。

 今後とも、この沖縄政策協議会を中心に調査・事業を実施して、沖縄県の産業・経済の振興に寄与するよう積極的に努力をしていきたいと考えております。

 一方、基地問題で特にご苦労をお掛けしている沖縄の基地所在市町村の重荷の軽減につきましては、先に述べました沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会が昨年の十一月、基地所在市町村の振興のための特別プロジェクトの実施を柱とする、すばらしい提言を取りまとめられました。これに基づいて現在、関係市町村がまちづくりの案を練っておられ、既に金武の照明灯、あるいは名護市の多目的ホールが近々設計に入っていく予定のほかに、今年度内には更に幾つかの町村で提案されたプロジェクトにつき、設計・調査が開始されるものと期待しています。

 また、これらのプロジェクトを実施するための経費として、平成九年度には約十七億円の予算を計上しているところでありまして、今後とも市町村の基地の存在による閉塞感を打破し、地元の意思を十分尊重しながら、経済・社会の振興策を積極的に進めてまいりたいと考えております。

 これに加えて、本年六月、政府では市町村のプロジェクトをより実りのあるものにするように助言をさせていただくと同時に、沖縄懇談会の提言の進展状況を確認するための沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会提言の実施にかかる有識者懇談会を設置しました。

 また、開発の遅れた本島北部や離島の振興にも心を砕いてまいりました。例えば国立高専はずっとつくることを国としてはやめておりましたが、今回、名護市東部に国立高専を設立することや、NTTの電話番号案内センターの誘致のための措置を講ずることとしておりますし、本年度からは離島において新設されるホテル、民宿などの特別償却制度も発足させたところでございます。

 このように政策協議会、沖縄懇談会を中心として検討の成果は着実に上がっておりますが、今、二十一世紀の沖縄のあるべき方向を考えたとき、何が中長期的に最重要プロジェクトであり、何が最も効果的な自立への手段であるかは、更に検討を必要としているように思います。

 沖縄県でも先般「産業・経済の振興と規制緩和等検討委員会」を設置され、報告書をまとめられたようでありますが、これについては現在、県内でも議論となっており、県全体での意見の集約化が進められているところと承知しております。

 国の立場からは、昨年末、国土審議会の計画部会が、沖縄の将来を「地球社会と共生し国際平和に貢献する自立的な圏域を構築し、アジア太平洋地域との交流拠点として、多角的な国際交流を推進」するという報告書を提示しておりますし、本年三月決定した第三次沖縄振興開発計画後期展望におきましても、その目標を「特色ある産業の振興」「地域特性を生かした南の国際交流拠点の形成」と規定しています。これらの理念を踏まえて、その具体化に向けてさらなる検討が必要であります。

 先日の政策協議会におきましても、総合研究開発機構への委託によって有識者の意見を徴することといたしましたが、それらを通じて、これまでの議論も集約すべく、更に精力的に検討していきたいと考えております。

 その一方で、私は、こうした検討が次々に積み重ねられ蓄積されていることで、言わば二十一世紀の沖縄の自立のための施策の素材とか部品、こうしたものは随分準備されてきていると思っています。例えば、これまでの検討から、インフラを中心とするハード、経済基盤の整備などに加えて、これからは、ソフト化、国際ネットワーク化といった面での施策の充実をも重視すべきであるという方向が既に示唆されていると思います。今後は、このような部品・素材を使いこなしながら、日本経済と歩みを一にした沖縄の発展とはいかなるものなのか、財政依存体質から脱却するためには、いかなる施策が最適なのか、そうした根本的な課題に取組み、言わば二十一世紀の沖縄という家を建てるための骨格、設計を考えることが必要になってきたと感じています。

 例えば、政策協議会では、ソフト化、国際ネットワーク化という観点からは、マルチメディアアイランド構想の推進、自由貿易制度の充実や観光の充実といった国際的な視点を踏まえた産業振興、更に亜熱帯の自然条件を活用した研究の強化、国立組踊劇場の設立や国際会議の誘致といった沖縄の特性の活用による振興対策、プロジェクトが検討されているところです。

 いずれにいたしましても、これからの沖縄の在り方については、沖縄の発展が、日本全体の発展の中で、その原動力の一つとして位置づけられるように、政策協議会を中心に、また、国民全体でよく考え、議論していかなければならないと思います。こうした意味からも、日本青年会議所沖縄地区協議会の皆さんが「レキオ構想」を世に問われたように、皆で考え、議論していくために行動されることは、大変重要なことであると思います。

 ところで、本年は、沖縄の本土復帰二十五週年に当たります。これからの沖縄の在り方について思いをいたすとき、私は、是非ここ沖縄で、政府として二十一世紀の沖縄の発展への願いを込めた式典を開催させていただきたいと考えております。その日にちについては、昭和四十四年、佐藤総理とニクソン大統領の両首脳会談による共同声明によって沖縄返還が決定した十一月二十一日とさせていただき、復帰後二十五年の実績の上に、今後さらなる沖縄の発展のための施策の実現に向けた第一歩を、私たち皆で一緒に踏み出したいと考えております。

 ここで特に、これからの沖縄というものを考えますとき、私が強く抱いております沖縄への思い、その歴史や文化に対する尊敬の念と、沖縄の若い方々にかける期待について触れてみたいと思うのであります。

 先程沖縄の経済社会の発展を考える上では重要だと申し上げましたとおり、沖縄県では、人口が着実に増大をしており、かつ三十歳以下の人口の比率は日本一という、若さにあふれた県でもあります。二十一世紀の沖縄は、そうした若い皆さんが、そして皆さん方の次の世代が担っていかれることになります。

 少子・高齢化が言われ、日本全体が若い人々の減っている中で、この沖縄県における若さがいかに貴重かは強調して強調し過ぎることはありません。私はそうした皆さんの力が、ただ単に沖縄のみならず、日本全体にとっても活力の源になることを心から願っております。

 資源に乏しい我が国におきましては、人材こそが最大の資源であります。留学生制度につきましては、先程申し上げましたけれども、昨年の十一月、知事さんとお会いをいたしましたとき、知事さんの方から、たくさんの沖縄の若い方々が職を得られずに苦労しているというお話を伺いました。そして直ちに、事務方に指示を出して、沖縄の若者の留学制度、それから、多様な国際協力、国際交流を推進出来る人材の育成を目的とした同時通訳制度の創設を行うことにいたしました。

 私は、沖縄の自立的な発展には、このような人材の育成がまず重要だと考えております。そこで、留学生の派遣や、同時通訳の養成に引き続いて、来年からは四十人程度の高校生を米国にホームステイさせて、広い視野と国際感覚を養成する制度を発足させることにしました。また、高度の技術や技能を習得していただくために、先に申し上げました国立高専の設立や職業能力開発短大の大学校化についても検討しているところでありますが、これにとどまることなく、更に、人材育成のためにどのような施策を行うべきか、積極的に検討を進めていきたいと考えております。

 しかし同時に、若者の比率がそれだけ沖縄が高いということ、それは沖縄にそれだけの魅力があるということであり、その魅力というのは、独自の風土、伝統、文化に支えられたものであると、私はそう思います。私はそうしたすぐれたものを維持し、更に発展させていかなければならないと考えていますが、これらに役立つプロジェクトの検討も着実に進んでおります。まず、本年度にはアジア伝統芸能シンポジウムの開催を予定しておりますし、国立組踊劇場につきましては、設置の候補地が二か所に特定されるところにまでなりました。野性生物の保護センター、国際さんご礁・モニタリングセンターといったプロジェクトは、来年度本格的な展開が期待出来ます。私は、これらを拠点とした新たな沖縄の文化的、学術的な交流を心から期待しております。また、既に実施いたしました航空運賃の引き下げの特例措置などにつきましても、日本本土の多くの若者に可能な限り沖縄県を訪ねてもらう、そしてそのすばらしく、かつ、真に個性のある伝統・文化を知ってもらうという効果もあるのではないかと思います。

 ここでもう一度、冒頭にお話しを申し上げた、沖縄県人材育成海外派遣事業の留学生の皆さんが官邸を訪ねてくださったときの話に戻らせていただきたいんです。

 そのとき、私は留学生の皆さんに、海外に行くときには、その行く国の文化や言葉を理解しなければならないのは当然のこととして、実は、大変重要なこと、そして意外に忘れられがちでありますし、やろうとすると案外難しいのは、自分のふるさとの文化、歴史を海外の人々を相手にして語れるようにしてほしい、ということでありました。この点、私がこれまでお会いをいたしました、海外から日本に見えている留学生の方々は、概して、自分の言葉で、しっかりと、愛情と誇りをもって自分の国の文化や歴史を語られる方が多いような気がいたします。また、海外には、意外と日本の文化や歴史に興味を持っておられ、知識の豊富な方々がおられます。つまりそれだけ、文化や歴史というのは、意味のある、重要なことであり、お互いの交流の出発点となるのだと私は思うのです。

 この沖縄の青い海、今日は少し雲が多いですけれども、本当にきれいな青い空、そして、貴重な動植物のすみかとしての陸上の深い緑、あるいはさんご礁、いつの時代でも、沖縄を訪れる人の心をとらえてやまない沖縄の美しい自然、そうした自然を育ててきた独特の気候、風土、そして、その中に暮らす生活する人々の息づかい。三山時代から活発でありました交易を、一四二九年に三山を統一した尚巴志が更に活性化、活発化させた、きらびやかな琉球王朝の国際交流の歴史、こうしたさまざまな要素が重なり合って生まれてきた、そして育まれてきた沖縄の文化、これは私から申し上げるまでもないことだと思いますけれども、そしてまた、こうした認識も心情の一部であり、また、沖縄の在り方を考える上でも、重要な要素でもある、そう思って聞いていただきたいんですが、この「やさしいおおらかさ」、「明るい華やかさ」など、いろいろな形容をされます沖縄文化の持つ美しさにつきましては、私も、昭和四十年以来、ある時は仕事を通じ、あるときは家族とともに過ごさせていただく、そうしたそのたびごとにその魅力に気づいて惹かれてきました。

 今、例えば先日、留学生の皆さんに訪れていただいた東京の首相官邸、年に一回、官邸中の絵を掛けかえるんですけれども、これは前の年の日展の入選作の中から選ばせていただきます。私は今度初めてその選ぶ権利を与えられて、その中に、日本画の濱田台児さんの「四つ竹」、私が初めて来たころには、ウチダキという言い方を皆さんから教えられたと思います。この四つ竹を持って踊る、紅型、花笠の華麗な四人の女性をうつしとった絵を選んで掛けております。この絵は、先日も、留学生の皆さんに見ていただきましたし、また知事さんにも見ていただきました。

 当日は学生さんたちから、琉球藍の染め物をプレゼントしていただきました。あの温かみのある藍、心の通った美しさの引き立つ、色合い、風情ともにすばらしいプレゼントをいただきました。知事さんからは、もともと私も決して嫌いではありませんけれども、泡盛のすばらしさを繰り返し教えられておりますし、国の重要無形文化財としても古典芸能の組踊、また、今日もちょうどこの入口で民族芸能としてのエイサーで迎えていただきましたけれども、あの身のこなしの美しさと勇壮さを組み合わせた動きというものも大変魅力のあるものです。

 また、私自身は剣道でありますけれども、同じ武道としての空手も忘れることは出来ません。特に空手が、武器を持たない護身術として発達をしてきた、その意味では平和の象徴でもあるこの沖縄の歴史とも絡み合って、一つの文化を示す大切な側面だと私は思います。

 これ以外にも、私自身も何点か買い求め愛蔵している壺屋の陶器、あるいは琉球漆器、まだまだ私も勉強し足りない、奥深いさまざまな伝統文化がたくさんありますし、先島の方に行きましても宮古、八重山、それぞれに少し高いのが難点でありますが、すばらしい上布があったり、本当に私はすばらしいものをたくさん持っている場所だと思います。しかもその音楽とかあるいは料理、今かえって日本中の若い人々の関心を集めている文化もあります。

 そして、こうした文化というものがすばらしいということは、単に外形的に美しいということだけではなく、そこに住む人が美しく、しかも外見ではなく心が美しい、そういったものを含んだ、より総合的なものだと私は思っています。

 こうした沖縄の文化というものが、長い米軍施政下においても衰えることがなく、独自性を守り、高めてこられたのがその特徴とも言えると言われます。何よりも私自身が驚きを感じ強調したいのは、こうした伝統に基づく文化というものが、現在でもいきいきと躍動している。そして、今日迎えていただいたそのエイサーも含めて、人々の暮らしの中に根づいている、この特色のある文化というのは、より広く日本の歴史や文化を豊かにするとともに、我々が世界に誇る財産の一つだと言えるとも思います。

 こうした文化の重要性というものは、国政をつかさどり、総理として、私自身が力を尽くし、日本の舵取りをしながら感じていることにも通じるものがあります。今私自身が、二十一世紀に向けて、いわゆる六つの改革というものを進めている最中でありますが、これはすなわちこれからの日本社会をどのように形成していくか、その国の在り方の根源に触れる問題でもあります。そうした日々の取組みの中で実感をすること、それは、自分をはぐくみ育ててくれた家族、ふるさと、文化というものに対する熱い思い入れがなくして、国のありさまを語ることは出来ない、ということです。大切なことは、一人一人が自分の生まれた風土、ふるさと、ひいては日本のことを、足元から見つめなおすことではないかと思います。

 この国には、さまざまな地域に、我々の祖先を育んだ特色のある文化、伝統というものが存在しております。このような伝統の中で、我々の父祖は、他人への思いやり、感謝、そうした心を育ててまいりました。日本の将来を考える上でまず大切なこと、それは、このような伝統を自信をもって見詰め直すことであり、それによって初めて活力ある社会への展望が開かれるのではないだろうか。このような考えが背景にありまして、私は、八月六日、沖縄の留学生の皆さんの訪問を受けたとき、国際化に向けて海外に羽ばたく諸君に、あえて、逆説的に聞こえるかもしれませんけれども、自分の文化や歴史、伝統などをよく勉強してほしい、と申し上げました。

 基地の重みに苦しむ沖縄の今の姿でもいい、踊りでもいい、空手でもいい、何でもいい、自分のふるさとを自分の言葉で海外の人々に語れるようにしてほしい。逆説的ではあるかもしれませんが、私はその言葉をあえて彼らに、また彼女らに贈りました。外に向かって発展する交流を広げて豊かになるということは、自からのよってたつバックグラウンドである、こうした文化や歴史を捨て去ることではありません。むしろ、それを自信を持って見詰め直すところから始まるのだと、私はそう思うんです。そしてこれは、ただ単に留学生の諸君だけの問題ではなく、沖縄の今後の在り方、日本というこの国の在り方を考えるときにも、同様に重要なことではないでしょうか。

 いたずらにほかとの違いを強調し、自分の殻に閉じこもるのではない、かといって、せっかく恵まれた豊かな伝統や歴史、文化というものを捨て去るのでもない、むしろそれを生かし、沖縄を伸ばし、ひいてはそれが日本全体を豊かなものにする、そのような視点が必要なのではないでしょうか。このような意味で、私は、沖縄の産業振興を、沖縄の美しい自然や、沖縄の心、沖縄の文化といったものと調和しながら進めることが大切だと、これまでにも申し上げてまいりました。そして実は、もうお気づきの方もあると思いますが、これまで、今日のお話をする中で私が何度か「沖縄の在り方」と言わせていただきましたのも、こうした私自身の考えと関連するものであります。一般によく言われますように、「沖縄問題」という取り上げ方をいたしますと、何か、沖縄というところには問題になることばかりがあって、それに取り組むというのは、その問題になっていることを減らしていくのだ、という、ある意味では大変消極的にとらえられる、そんな感じがするのでありますけれども、今、政府の私たちと、ここにおられるような沖縄の皆様が一緒になって取り組んでいく事柄というのは、もっと大きな歴史的な流れの中において、別に今沖縄で問題になっていることばかりに目を向けるわけではなく、もちろん改善すべきことはどんどん改善しなければなりませんけれども、ただそれだけで終わるのではなくて、沖縄のよいところ、すばらしいところ、こういったところにも、もっともっと目を向けながら、それを守り、育て、広げる、それが日本という文化、日本という在り方がより豊かな、より高次なものになっていくような、そのような期待を持っていることをお伝えしたく、私はあえて、「沖縄問題」という言葉を使わず「沖縄の在り方」、そう言わせていただいてきました。

 今日ここにお集まりの、夢を抱き、明るい未来を見詰めて、これからの時代を乗り越えていこうとする若い皆さんの行動力に対し、私は改めてこの場を借りて、心から敬意を表したいと思います。歴史を振り返るとき、いつの時代でも、青年の大胆な発想と行動力が日本の発展を推し進めてまいりました。そのようなことを考えるとき、皆様方個々人が、真剣かつ誠実に、沖縄を通じて日本の将来を見据え、沖縄県、ひいてはこの国に真の豊かさをもたらそうとなさっていることは、私としても非常に心強く感じ、また、敬服するところであります。「変革の時代」にあって、本当に時代を動かすのは常に若者の熱意と行動力であります。これからまさに、そうした動き、そうした流れが、沖縄から、全国に発信されていくであろうことを予感せずにはいられません。

 沖縄の誇る美しい自然、歴史と伝統に培われ、今も躍動する独自の文化、そうした環境、風土とともにある、広がり、包容を持ったやさしい気風、これはある意味では本土にはない、あるいは本土に失われつつある文化と言えるかもしれません。そして、こうした文化を大切にしながら、経済を発展させ、産業を振興させ、それらが調和していく、これは、これからの二十一世紀を考える場合に大変重要なことではないでしょうか。そういった意味から、沖縄の文化が日本の発展の原動力の一つとなってくれることを、そして、沖縄を、日本を豊かなものにしていく。そのような気持で、皆さんとともに、これからの沖縄について、十分に議論をし、一緒に考えていきたいと願っています。

 なぜなら、今、本当に一時間近く申し上げてまいりましたように、二十一世紀の沖縄の在り方を考えること、それは、ただ単に沖縄だけの問題ではなく、二十一世紀の日本社会そのものの在り方をも示唆するものだと、私は思うからです。

 これまで、随分長い間、いろいろな機会を通じて多くの沖縄の方々とお目にかかってきました。そうした方々との接触の中でいつも感じること、それは、沖縄の皆さんの笑顔がすばらしいということです。沖縄の方々が心から笑みをこぼされたとき、その笑顔というものは、本当に人の心を感動させるすばらしいものだと私は思います。

 そして私が自らに言い聞かせていること、それは、沖縄の方々が、その笑顔を失わないで済むような、沖縄の方々の笑みを絶やすようなことにはならないように、仕事をしていこうということであります。そんな思いを聞いていただくために、今日私はこうしてやってきました。

 いろいろ申し上げてきました中で、十分意を尽くせたとは言えないと思いますし、納得いただけない点も多々あるだろうと思います。しかし、少なくとも、これからも今までと同じように、沖縄の在り方について考え、取り組んでいくことを皆さんが許してくれれば、私にとってそれ以上の幸せはありません。お互いによりよいふるさと、そのふるさとを通じ、この日本という国の明日をよりよいものにしていく、そのための皆様のご協力、お力沿えを心から願いながら、こうした機会を与えていただいた方々に今一度お礼を申し上げ、私の今日の役割を終わりたいと思います。

 今日は本当にありがとうございました。