データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] JFKシンポジウム「ケネディ大統領のトーチ〜引き継がれるその遺産〜」における安倍総理スピーチ

[場所] 早稲田大学
[年月日] 2015年3月18日
[出典] 首相官邸
[備考] 
[全文]

 一昨日は、バン・キムン国連事務総長をお迎えし、国連発足70周年を記念するセミナーで、スピーチをさせて頂きました。その準備をしながら、思い出した話があります。

 ダグ・ハマーショルドは、第二代国連事務総長として、国連の基礎固めをした人ですが、前任者から 「たいまつを引き継ぐ」とき、「今からあなたが引き受けるのは、世界で最も不可能な仕事だ」と言われた話は、有名です。

 ところで、今日のこの私の仕事、ここでお話をするということくらい、「世界で最も不可能な仕事」はないのじゃないでしょうか。

 なんといっても、名声が世界にとどろく雄弁家、ビル・クリントン大統領から「たいまつを引き継いで」、そのあとで喋れと言うんですから。

 雄弁家だというだけではありません。また、ジャズ・ミュージシャンとして、即興演奏の名人でもある。

 ですから私は、ここにあります楽譜に忠実な演奏をします。

 クリントン大統領がジャズなら、私は、上手いか下手かは別ですが、クラシック、というわけです。時間も、大統領の半分で、お許しいただくことにしました。

 さて、皆さん、「勇気ある人々」という本があります。とくに若い学生の皆さん、日本語訳もありますから、一読をお勧めします。

 私達の主人公、JFKの本です。大統領として「たいまつを引き継ぐ」前、上院議員だったとき、同じ上院議員の先達8人を取り上げて、その人たちの勇気を描いた、そういう本です。

 勇気とは、著者自身の説明によると、"grace under pressure" ここがすばらしいと思います。

 JFKのレガシーとして、私達が記憶すべき、第一のこと、それは、重圧の中、屈することなく、気高さを貫いてみせたその指導力、それを支えたガッツです。

 とくに、キューバ・ミサイル危機のときケネディ大統領が下した孤独な決断のおかげで、世界は核戦争勃発の危機から救われ、私達人類はいまも、こうして暮らしています。

 grace under pressure。どんなに重圧があっても、正しいと信じる道を行く。孟子の表現として私がいつも使う言葉に、そっくりのものがありますが、JFKも、それこそが政治家にとっての勇気だと言いました。

 日本の私達は、若くてフレッシュな大統領に、リーダーシップの何たるかを見ました。それがいまでも、目に焼きついているのだと思います。

 耳に焼き付いているのは、JFKの声です。

 あの少し甲高く、よく通る声で、彼は言ったではありませんか。1962年の、9月です。

 われわれは、月へ行く。われわれは、60年代中に月へ行く。容易だから、ではない。困難だからこそ、挑戦するのだ、と。

 第2のレガシー、それは、夢を見る、その力を、世界中に示してくれたことでした。

 しかも約束どおり、米国は1969年に、人間を月へ送り込みました。

 当時私は、夢見る少年でした。もちろん私にも、そういう時期がありました、その時代と重なるだけではありません。

 東京オリンピックの開催を節目に、あのころは日本自体が、成長へひた走っていました。日本は、「できるさ」、「できるさ」と言って駆け上がる、あの「小さな機関車」の心境でした。

 夢を見る、その力で、JFKのアメリカは、世界中、多くの人々、国々を、引っ張ったのだと思います。

 日本が、GATTのフル・メンバーになったのが、1963年。IMFで一人前のメンバーになり、OECDに正式加盟したのは、翌年1964年です。同じ年、東京は、オリンピックを控えた直前、IMF・世銀の総会をホストしました。

 どれもこれも、戦後日本経済の復興と、自由で、民主的な陣営に、選んで入ったことの象徴です。

 これらはどれひとつとして、JFKの日本への深い理解を持つリーダーシップなしに、実現しなかった。それが、私達のともすれば忘れがちな現実です。

 ここに、とりわけ日本にとって重要な、JFKのレガシーがあります。東京オリンピックへと向けて、先進自由陣営の仲間入りをするに当たって、JFKのアメリカは、全面的に支持してくれました。

 リーダーシップ、夢を見る力。そして、差別をなくそうと戦った、その決断。

 それこそが、JFKの残した3つ目のレガシーです。

 今年は、モンゴメリー・バス・ボイコットから60年。リンドン・ジョンソン大統領が、公民権法に署名して、50年の節目を超えました。

 ちょうどその間に、大統領として、肌の色を理由とする差別をなくそうと立ち上がったのが、JFKでした。

 明らかな不正義を、自分達の力で、ときに、もがき、ときに苦しみながら、なんとか正そうとする姿。

 私達はみな、公民権運動に、矛盾と格闘するアメリカを見ました。

 夢を見る力だけで、アメリカは、世界に指導力を及ぼしたのではありません。差別をなくそうと、自分達自身を作り変える、その、まさにgrace under pressureでも、世界をリードしたのだと、そう思います。

 私は、これは、戦後のアメリカにしか、発揮することができなかったモラル・リーダーシップだと思います。そして世界が、いまなお必要としているものでもあると、信じて疑いません。

 JFKを語るなら、悲しいですけど、触れないわけにいかない場面があります。

 あれは翌年に控えた東京五輪のため、史上初めて、太平洋をまたいだテレビ同時中継の試験をした日のことです。

 米国が上げた衛星放送は、その名も「リレー」。同日、同時刻、遠いアメリカで、いま起きているその景色が、日本のお茶の間へ届くというので、たくさんの日本人が、テレビの前に集まりました。

 何が映るか、ドキドキしながらスイッチを押して、飛び込んできた映像こそ、ダラス、テキサス。あの、悲しむべき光景でした。

 ですからケネディ大使、あなたの家族を襲ったあのあまりにも悲しい出来事を、私たち日本人は、世界で、私たち日本人だけは、あなたがたと、リアルタイムで見て、目に、深く焼き付けたのです。

 国と、国の関わりあいには、いろんなレイヤーがあるでしょう。でもそのいちばん深い層、ハートと、ハートが繋がり、喜び、悲しみ、晴れの日、雨の日の気持ちを共有できることは、普通、稀です。

 その稀な関係を、アジアでは、米国は確かにこの日本において、打ち立てたのだということ。それをぜひ記憶して下さい。

 最後に、早稲田の諸君に申し上げます。

「都の西北、早稲田の森に」。

 みなさんの校歌は、ケネディ家で長く記憶されたことをご存知ですか。

 ロバート・ケネディ司法長官が、1962年の2月、日本に来ました。そしてまさにここ、大隈講堂で、学生たちとの討論に臨みました。

 当時の学生は、今日の皆さんのように、お行儀のいい人たちばかりではありません。

 野次や怒号で騒然として、話がまともにできません。

 それに業を煮やした応援団長が、ついに壇上へ上がりました。

 そして、音頭をとりました。

 すると、さすがは早稲田、右も、左もなくなって、講堂はそれから、早稲田、早稲田、早稲田。割れんばかりの大合唱になった。

 よほど印象深かったのか、そのあとロバート・ケネディは、ワセダ、ワセダのリフレインを口ずさんだと、そういう話でした。そうですよね、ケネディ大使?

 実はこれには、後日談があります。

 聴衆の中にいた一人の若者が、のち、ワシントンに行って、ものは試し、あのとき聞いていた一人ですといって面談を申し込んだら、なんと、司法長官との面会が実現したということがありました。

 この若者が、のちの、小渕恵三首相です。

 ところでグリネルとか、ケニヨンとか、アメリカ人なら皆知っている、中西部の宝石というべきリベラル・アーツ・カレッジがあります。

 それらの大学と、早稲田大学は、長年にわたって姉妹関係を育ててきた。

 それが基盤になって、留学生を送り出し、また受け入れて、キャンパスの国際化にかけては、日本の先頭を走っている。それは皆さん、もちろんご存知でしょう。

 でも同時に、中国へ行ってください。韓国へ行ってください。台湾へ行って、そして、ワセダと言ってください。

 「ああ、あの、ワセダ」。

 もしかすると皆さんが思っている以上に、ワセダはアジアで愛されています。

 理由は明らかで、早稲田のみなさんは、はるか明治の昔から、どんなときでも、一貫して、中国や、韓国や、台湾の学生を、喜んで受け入れ、高田馬場の市民たちと一緒になって、昼も、そしてここが大事なところですが、夜も、彼らをいつくしんできた歴史があるからでしょう。

 日本は、アジアの若者にとって、夢を見る場所、夢を形にする場所でなくてはならない。

 わたしは、これから先の日本を、中国や、韓国、アジアのたくさんの人たちと一緒になって、夢を見ることができる、そういう国にしていきたいと思います。

 クリントン大統領、ケネディ大使、JFKライブラリー財団の皆様、日本は、いまそんな、夢を見ています。

 米国と、日本と、夢を見る力を育て、それから差別をなくし、人権を重んじる決意をいよいよ堅固にして、これからの時代、一緒に、世界を少しずつでも、よい場所にしていこうではありませんか。

 それは、JFKが残してくれたレガシーに、正しく報いる道だと信じます。

 クリントン大統領、そして、ケネディ大使、鎌田総長、そして、今日は聴衆の中におられる早稲田のOBである福田元首相、早稲田大学の関係者の皆様、ご協力ありがとうございました。お礼を申し上げ、私のスピーチを締めさせていただきたいと思います。

 Thank you very much.