[文書名] 「アジアの価値観と民主主義」シンポジウムでの安倍総理の挨拶
平成28年1月19日、安倍総理は、都内で開催された「アジアの価値観と民主主義」シンポジウムに出席しました。
総理は、挨拶で次のように述べました。
「お集まりの皆様、新しい年の門出に当たって、アジアの価値観と、民主主義について考える集まりをもたれたことを、お慶び申し上げます。
新年にふさわしい、いかにも明るい話題です。アジアの未来に、民主主義が根づいていくことを、私は、一度たりとも、疑ったことがありません。
その道のりに、曲折があったにせよ、いまやアジアは、民主主義のチャンピオンになろうとしています。民主主義のもとで暮らす人口は、世界のどの地域より、すでにアジアが勝るのだとも伺いました。
思いますに、民主主義とは、完成品ではあり得ません。永遠に、未完の作です。行きつ、戻りつ、世代から世代へと、改善に、改善を重ねていくより、ほかにないものです。
それにはひとつ、絶対条件があります。他者に対し、開かれているということ、異なる意見、立場を、尊重しあうことです。
まさにここが、私たちの、楽観してよいところだと思います。
例えばここに、尊敬するスシロ・バンバン・ユドヨノ閣下がおられます。インドネシアを御覧ください。また、ビデオ・メッセージを寄せてくださった、やはり私にとって大切な友人の、ナレンドラ・モディ首相の国、インドを見てください。
たくさんの言葉、いくつもの宗教、急速な経済発展と、社会の巨大な変貌。インドネシアにしろ、インドにしろ、多様性に富む社会で、それぞれの国民が、民主主義を根づかせる努力を続けておられます。
偉大なスワーミー・ヴィヴェーカナンダが123年も前、シカゴ宗教会議で述べたように、寛容の精神こそは、インドや、インドネシアに、今日の姿をもたらしました。
私たちが、各々持つべきアジアの自画像とは、寛容を表す温かい色彩によってこそ、描かれるべきものでしょう。
ところで自由、民主主義、法の支配といった価値観は、人種や民族、国籍や宗教の壁に阻まれて、アジアやアフリカの人々にとって、20世紀も後半を迎える頃まで、本当の意味で『普遍的』なものとは言えませんでした。
思い出すのが、1964年の東京オリンピックです。
アジアでは初の五輪でした。そのことを、聖火リレーが訪れたアジア各国の人々は、自分のこととして喜んでくれました。私は10歳の子供でしたが、嬉しかったのをよく覚えています。
それから東京が、アフリカ新興独立国の多くが参加する初の五輪と聞いて、晴れがましく思った記憶もあります。開会式では『北ローデシア』国旗のもと行進した選手たちが、閉会式には、真新しいザンビアの旗を高らかに掲げていた。実に閉会式の当日、ザンビアは独立を果たしたのです。
この時から半世紀。オリンピック・パラリンピックは、ソウルと北京を経て、また東京に帰ってきます。
この間には、アジアのたくさんの国が、著しい経済発展を遂げました。やがてふたたび東京の空に灯る聖なる火は、地域が遂げた長足の進歩を象徴したものとなることでしょう。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、幾多の困難をくぐり抜け、アジアの多くの仲間たちが、民主主義を奉じ、人権と、法の支配を自分たち自身の信条としたことを、力強く確かめあう機会ともなるはずです。
そうです皆さん、アジアの成長と、着実な民主化と共に、私たちが言う普遍的価値は、世界のどの地域よりもたくさんの人々を包む価値、言葉の本当の意味で、普遍的価値となりました。こんな、喜ばしいことがほかにあるでしょうか。
しかもアジアの民主主義には、古来の刻印があります。先祖代々、私たちが大事にしてきた価値を、きちんと反映しています。
ミャンマーや、タイで見る仏様は、時に横臥して、実に寛いでいらっしゃる。
日本の仏様は、お国ぶりでしょうか、緊張して、立ったり、座ったりしておいでですが、誰もが思い出すその面立ちは、温容そのものであります。
『慈悲』を表すお顔だと、私たちは教わってきました。
子どもの頃、私は『医は仁術』だと聞かされましたが、『仁』という儒教の概念が、愛情、いたわりの心だということは、だいたい察しがつきました。
インドネシアやマレーシア、パキスタンの皆さんなら、イスラムの教えにも、慈悲や、仁と同じ道徳があると、きっとおっしゃるでしょう。日本にも、『和をもって尊しとする』伝統があります。
偉大なガンジーも、民主主義とは、強き者と同じ機会を、弱き者にこそ与える仕組みだ、と言っているではありませんか。
私たちが立つ地面の下を、古来流れ続けた水脈には、民主主義を育み、自由と人権を重んじさせる、寛容、慈悲といった、くめども尽きない養分があるのだと、私は思いを新たにしています。
インドにおける民主主義は、選挙の度に、その堅牢さを示すといいます。
つい3日前には、台湾が、同じ事実を教えてくれました。また、ミャンマーがこのほど実施した選挙も、日本から赴いた笹川陽平さんを始め、各国監視団をうならせる、公正ぶりだったと聞きました。
民主主義に完成はありません。それでも一歩ずつよくしていくものは、デュー・プロセス(手続的正当性)へのコミットメント、法の支配への忠誠だということは、疑いようのない真理です。
清廉な公務員、公平な警察と司法、シビリアン・コントロールに服す軍事組織を育てるものも、同じです。
手続を確かなものにし、法の支配を行き渡らせることがすべての土台だということを、私たち自身、長い時間をかけて学んできました。
公平公正で、透明な手続をつくって守るのも、法の支配を確固不抜にするのも、結局は人間のわざであります。人間一人、ひとりを、賢く、強くしていくところから、すべては始まります。
戦後の日本は、これを自覚するところに力点を置きました。
敗戦後、時を置かずにアジア諸国へ援助を始めてこの方、人づくりこそ国づくり、人づくりなくして国づくりなしの発想は、日本の対外援助を貫く思想となって、今日に至ります。きっと、頷いていただけることと思います。
ひと月と少し前、インドを訪問中だった私を、モディ首相はヴァラナシに連れて行ってくれました。夕暮れとともに始まる、荘厳な中にも華やかな、ガンガー・アアルティの儀式を、私はモディ首相と経験しました。
そこが聖なる場所と知っていた私を、いろいろな想念が襲いました。
水の流れを敬う気持ちは、私たち日本人には、説明抜きに理解できます。ガンジス川の浄化に、日本政府が長年力をお貸ししているのも、そのためだと申し添えましょう。
ヴァラナシはまた、輪廻の思想を、思い出させてくれます。そして輪廻の教えとは、やはり日本人が、古来大切にしてきたものでありました。人は生まれ、やがて死んで、何か別なものへ変わる。だからこそ、今を大切に生きよと、私たちはどこかで、そう思ってきました。
そのすぐ近くには、今回訪れることはできませんでしたが、ブッダが、弟子達に最初の教えを授けたゆかりの場所があります。
衆生のため、その幸福のために諸国を巡れと説いた教えは、遠く、日本に伝わり、経典として今に生きています。
母なる川のほとり、音楽と火の律動に身を任せながら、私は、東西の精神をつないだ歴史の底知れない深さに、眩惑される思いでした。
慈悲といい、仁といい、友愛、和といい、表現は違っても、アジアには民主主義を支え、自由と、人権を尊ぶ思想の地下茎が巡っているのだと思います。
いまやそこから美しい蓮の大輪が開き、いよいよ盛んな貿易、投資の結合とあいまって、アジアに平和と、繁栄をもたらそうとしています。これを喜ばないで、いったい何を喜ぶべきでしょうか。
新しい年の始まりに、アジアの新時代、自由、人権、民主主義を我が物とし、法の支配を尊ぶ時代が幕を開けるのを確かに感じながら、日本がその頼もしい一員で在り続ける決意を新たにして、私の閉会にあたっての御挨拶とさせていただきたいと思います。
御清聴、ありがとうございました。」