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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 日米安全保障条約60周年記念レセプション(安倍総理挨拶)

[場所] 
[年月日] 2020年1月19日
[出典] 外務省
[備考] 
[全文]

 メアリー・ジーン・アイゼンハワーさん、メリル・アイゼンハワー・アトウォーターさん、そして御来賓の皆様。

 本日、日米安全保障条約調印60周年のよき日を迎えました。

 メアリーさん、私たちの祖父は、ゴルフで友情を育てました。1957年の6月、所はベセスダの、バーニング・ツリー・ゴルフクラブです。

 戦争が終わって、まだ12年しか経っていませんでした。日本の首相はワシントンまではるばるやって来て、一体どんなゴルフをするのかと、大勢の記者たち始め、みんな興味津々だったと、後に祖父は、私にそう話しました。

 最初の一打に、日本の名誉が懸かっている。そう思うと、手に汗がにじんだそうです。ところが、それまでのゴルフ人生で最も緊張して放った一打は、生涯最高のショットになったと、祖父は自慢げに、私に話しました。

 どよめいた観衆は、次の瞬間、盛大に拍手をした。アメリカ人はフェアだとも思ったそうであります。

 岸信介は、日本の首相として、アメリカの大統領とゴルフをした最初の人物でした。2番目はと言いますと、私でありました。

 私はもう4回、トランプ大統領とゴルフを共にしました。これも日米同盟深化の証拠であろうと、口にはいたしません、心ではそう思っているわけであります。スコアは、国家機密にしておくという約束になっております。

 ともあれ、アイゼンハワー、そして岸の二人がバーニング・ツリーで培った友情は、2年半の熟成を経て、新しい安保条約となって実を結ぶのであります。

 1960年1月19日、午後2時40分、大統領と首相を始めたくさんの人々が埋めたホワイトハウスのイースト・ルームで、調印式は始まりました。

 先立つランチで乾杯に立った時、こんな集まりは、本当ならゴルフ・コースでやるともっと成果が上がるんだと言って首相の頬を緩めさせた大統領は、調印式に臨むと、真剣にこう切り出します。この条約は、不滅である。

 そのとおりでした。いまや、日米安保条約は、いつの時代にも増して不滅の柱。アジアと、インド・太平洋、世界の平和を守り、繁栄を保証する不動の柱です。

 同盟強化の努力を日夜続けた人々に、深い感謝を捧(ささ)げます。

 アジアの平和に身命を賭した、無数の、無名の、アメリカ人兵士たちに。地震と津波が日本を襲った時に、被害者と涙を共にしてくれた米軍の将卒に。歴代自衛隊員を含む、同盟の充実に労を惜しまなかった、日米全てのアンサング・ヒーローズ、名も無き英雄たちに。

 彼らの払った努力と犠牲が、我々を平和にし、繁栄させました。同盟をつなぐ信頼を、不抜にしたのです。

 歴史の、配剤の妙でしょう。調印から遡ること一世紀の1860年。日本が初めて送り出した外交団は、所も同じイースト・ルームで、時のブキャナン大統領に会い、信任状を渡しています。日米関係の、始まりでした。

 それから100年。岸首相は、アイゼンハワー大統領とあいともに、世紀の節目に立ち会いました。これから始まる新たな100年、両国に、更なる信頼と協力あれと、岸は挨拶で念じています。

 今、当時の祖父と同じ年齢に達した私は、同じ誓いを捧げようと思います。

 私たちは、日米を、互いに守り合う関係に高めました。日米同盟に一層の力を与えました。これからは、宇宙、サイバースペースの安全、平和を守る柱として、同盟を充実させる責任が私たちにはあります。

 60年、100年先まで、自由と、民主主義、人権、法の支配を守る柱、世界を支える柱として、日米同盟を堅牢(けんろう)に守り、強くしていこうではありませんか。

 100年先を望み見た指導者たちが命を与えた日米同盟は、その始まりから、希望の同盟でした。私たちが歩むべき道は、ただ一筋。希望の同盟の、その希望の光を、もっと輝かせることです。ありがとうございました。