[内閣名] 第5代第2次伊藤博文内閣(明治25.8.8〜明治29.8.31)
[国会回次] (帝国)第5回(通常会)
[演説者] 陸奧宗光外務大臣
[演説種別] 外交方針演説
[衆議院演説年月日] 1893/12/29
[貴族院演説年月日]
[全文]
諸君、本大臣は今日維新以來政府が執り來つた所の外交上の方針の大要を宣言するために出席致したのであります(謹聽)本大臣は維新以來國家の大計、國是の基礎として採用された所の開國主義を以て如何に國家の進歩を促し來つたるか、如何に國民の幸福を増進し來りたるかを陳述し、併せて本日の議事日程に登つて居る議案及之に關係する所の同一の精神なる兩議案は如何に右の國是に關係を有するかを説明し、深く諸君の公平なる判斷を得んと欲するのであります。
{ここで議員と議長とのやりとりがあるが省略}
畏れながら 今上皇帝御即位の初に當り深く叡慮を惱まされ斷然開國の主義を以て國家の大計と定められたのでございます、而して當時廟堂に奉仕するの先輩諸氏も深く右の 叡旨を奉體し、爾來國歩幾多の艱難あるにも拘らず此大計此國是を奉體するの一點に至りましては未た曾て毫も躊躇致したことがござりませぬ、諸君、試に維新の初め 聖天子が煥發致されました所の 詔勅若くは政府が叡旨を奉じて布告致した所の法令に徴せられよ、凡そ從來我國家が經營し來つた所の大進歩若くは大改革は一に此開國の主義に基かぬものがないのでござります、維新の初め我國民中には尚攘夷鎖國的の氣象隆んなるの間に於て深く國家將來の大計を慮らせ給ひて、其時代の 詔勅には。
外國交際の儀は宇内の公法を以て之を取扱ふべく云々
又は
方今萬國の事情始めて分明に相成候上は廣く公平至當の御條約を以て海外諸國に御交際相立ち第一皇威彌よ振興候樣との 叡慮に候云々
又は「列國と對峙すへし」とか「開化の域に進み富強の基隨つて立てば列國と駢馳する難からざるべし」云々等の文字を含有せらるゝ 詔勅若は法令は一にして足らない、殊に夫の有名なる明治元年三月十四日に煥發せられました所に御誓文の第五項には
廣く智識を世界に求め大に 皇基を振起すべし
と詔らせ給ひ、此御誓文に對しては
朕躬を以て衆に先んじ天地神明に誓ひ大に此國是を定む
と仰せられ、當時總裁以下の奉答書には。
勅意宏遠誠に以て感銘に堪へす今日の急務永世の基礎此他に出つべからず臣等謹んで 叡旨を奉じ死を誓ひ黽勉從事希くは以て 宸襟を安んじ奉らむ
と誓ひたり、爾來國家に内外幾多の出來事もあつて其間には種々の失敗もありました、又種々の國難もありました、即ち其失敗其國難の由來する所を尋ねますれば政府の失錯もありましたらう(清水文二郎君「ありました」と呼ふ)其通り−−國民の誤解もありました(清水文二郎君「それはない」と呼ふ)併し茲に既往の得失を追究するも益もない、諸君、試に明治初年に現在したる所の日本帝國を以て今日に現在する所の日本帝國と比較して御覽なさい、其進歩の程度は如何に大なるや、其開化の効力は如何に著しきを知るに難からぬと思ひます、先づ經濟の點より言ひますれば、明治初年に於て内外交易の高と云ふものは、其金高三千萬圓に足らなかつたのが明治二十五年には殆ど一億六千有餘万圓になり、又陸には三千哩に近い鐵道が敷き列れられ、一万哩に近き電線を架け列べたり、又海には數百艘の西洋形の商船が内外の海面に浮んで居る、軍備の點より言へば將士訓練機械精鋭にして殆ど歐洲強國の軍隊にも讓らぬ常備兵が十五万も出來て居る、海軍も殆ど四十艘に近い軍艦が出來、將來尚ほ國計の許す限は之を増進せんと思ひます、若し之に加ふるに人文の自由を擴張し、制度文物を改良し、學術工藝の進歩したるものを以てすれば、實に枚擧に遑あらぬと思ひます、特に其一大特例として云ふべきものは立憲の政體茲に立ち、則ち今日、本大臣が諸君と國家須要の政務を論ずるに至るまでに進歩したるは亞細亞州中何れの國にありますか、斯の多く二十年來長足の進歩をなし來りたることは歐洲各國の人民或は政府が世界無比の國であると驚嘆をして居るが、我々は未だ之に滿足せず、尚ほ今日に幾倍するの改革及進歩をなさんとするの氣象あるは吾れ共に自負して餘りあることであらうと思ひます、是れ偏に 今上皇帝陛下が夙に國是を定められ、先輩諸氏が之を輔翼し奉つたると、我忠愛なる四千万同胞が國是大計に從ひ拮据勉勵致して今日の開化を致した結果ではありませぬか、以上言ふ所は本大臣が空論を誇張して諸君を眩惑するのではありませぬ、即ち諸君、之を事實に徴せられたれば、其事實を誣ひざることは御分りになるだらうと思ひます、さて前にも申しました所の先日より本日の議事日程に登つて居る所の議案並に是と同一の精神を以て居る所の二つの議案は其提出者は無論に多少に杞憂を抱かれ、所謂愛國の至情より發せられたるものたることは疑を容れぬ然れども不幸にして右の議案並に之を關係する議案の精神は上來述ぶる所の維新以來の國是に反對するものであります(「誤解々々」と呼ふ者あり)委しく言はゞ進んで取るの精神にあらずして、寧ろ退いて守るの氣象を顯はすものである、(鈴木萬次郎君「それは内閣だ」と呼ふ)斯の如く自ら屈し自ら退くの氣象を一と度人民に傳染しまするときは内外國民の心想を紊し、二十有餘年組織し來つたる所の進歩の氣象を沮喪せんとすることを恐るゝのである、茲に本大臣は今區々條目に就いて其得失を論ずるにあらずして、大體上斯の如き議案が本院の議場に提出されたことを哀しむものである、條約勵行と云ふ無論政府は從來條約に違背したるものを等閑に附し去つたことはない、併ながら現今の條約と云ふものは諸君も御承知の通り多くは安政年間より慶應年間に至るまでに締結され、又維新の初めに外交の道未だ今日の如く進歩せざる間に締結されたものが多いのである、故に僅に墨斯哥の條約を除くの外は一も完全のものはない、眞に我國今日進歩の程度に適應せざるものである、さりながら其現行條約にして未だ實行の効力を失はざる間は外交上諸般の取扱は之に依つて−−遵行せざるを得ぬのは無論のことである、唯前にも言ふ通り之を締結したる時代と今日とに於ては内外の時勢大に變換し、又我邦の進歩は著しく變換したるが故に、明に條約の條文に違背せざる限は弛張操縱其宜しきを得て、内外臣民の利便を圖るが外交上の必要の得策と信ずるのである、茲に我邦開港以來今日に至るまで外交上の進歩の歴史を單簡に説きますことも亦無用の業でないと思ふ、安政年間より王政復古に至りまするまでの間は幕府の事情に迫られて其外交手段として用ひたる所のものは外人遮斷を以て目的としたるもの如ゝし成丈外國に近かず外國人に觸れないと云ふ手段を取つた故に國權の彼に移るに論なく、國利の彼に占めらるゝに論なく、苟も外人と相觸れ相近かざるの道があれば之を採用することに怠らなかつた、彼の居留地制度の如き、遊歩規程の如き、無條約國人民の取扱の如きは此例であります、維新の初めに於ては外交上別に言ふべきなし、明治五六年の頃、即ち岩倉大使が歐洲より歸朝されたる前後より政府は既に失ひたる權利を回復せんとし又條約以外に放葉{前1文字ママ}して居つた權利を確めんとすることに就いては孜々汲々として務めたのである、其數例を此處に擧けることが必要であります、即ち此無條約國人の取扱ひである、幕府の時代には例の外國人遮斷主義に依つて成る丈近けないやうに人任せにすることが多い、故に無條約國人民を裁判管轄するには外國領事の干渉を許した取極めがある、然るに明治六年より政府は斷然無條約國民を裁判管轄することを以て、我が主權の下に屬したのであります、又幕府の頃より横濱を始め各居留地には外國人を以て組織したる取締役若くは委員と云ふものがありて、各居留地を取締して居つたのであります、是は明治十年より大阪神戸の居留地を除く外總て我政府に於て之を取締ることになつたのであります、一番甚だしき例を此處に擧げますれは幕府の時代には彼の鎖國攘夷の徒が甚だ盛なるがために、其横行の結果として英佛兩政府より横濱に若干の兵隊を上げて置いて、幕府は國費を以て此兵隊の居る兵營並に之に附屬する病院を維持せねばならぬと云ふまでに屈辱を受けたのである、維新後政府は數回の照會を重ね遂に此兵隊を撤去することになつたのであります、其他尚數例を擧げますが餘り長く言ふ必要がないと思ふ、それで外國人犯罪人引渡しのこと若くは領事裁判を施行することを怠つた國に對して、我が裁判權を適用することに關し、若くは外國人狩獵のこと等に關して我政府が國權を伸張したるの例は甚だ少なからないのであります、而して外國交際のことは其寛猛彼我共に均一ならんければならぬものである、故に政府は舊幕府の彼の外人の遮斷主義を變じて開國主義となしました以上には、其結果として多少外國人に自由を與へるの必要が生じたのであります、即ち夫の病氣保養若くは學術研究等のために我政府より旅券を渡して外國人に内地旅行を許すと云ふやうな自由が是であります、此外國人に内地旅行を許すに就いては無論外國人は多少の便利を得たに違ひないが、是がために我國民は何等の損害を生じたとも思はれませぬ、昨年中内地を旅行した所の外國人の數は凡そ九千人である、而して確な統計は無論此に得ませぬが、其筋に巧者なる人より聞くに、其外國人一人前が凡そ五百圓ばかりの旅費若くは小遣を使ふたらうと云ふことであります、然らば始ど四五百萬圓の金額は我國中の勞働者若くは製造者を知らず識らずの間に富まして居ると云ふことであります、そこで先づ夫等のことは措いて條約を勵行すると云ふ一事に就いて若し此條約を我に於て勵行するとすれば、彼に於て勵行するの虞なきを期せられませぬ、所がこゝに重要なる問題は日墨日清をのぞくのほかは我國の條約はいはいる一方に偏したる條約であります、一方に偏する條約と云ふものは彼國人にして我が國に在留する者のためには條約上許多の權利を確められて居るに拘らず、我國人の彼國に在留する者に就いては條約上殆ど何等の權利をも確められて居らぬと云つても宜しい、若し彼我共に條約を勵行したる曉には我國民の損害する所−−損失する所のものは彼國民の損失する所よりも大なることを恐れるのであります、况や此條約勵行と云ふことの精神を追究すれば到底近日世間に唱道する所の非内地雜居とか、少くも舊幕時代の外人遮斷主義に外ならぬのである、(「無禮なことを言ふな」と呼ふ者あり)到底維新以來國家の大計國是の基礎たる開國主義と反對するものである(「然らず然らず」と呼ふ者あり)(「汝が反對するのだ」と呼ぶ者あり)(「汝の如きは其目的を異にするから外國人が蔑視するのだ」と呼ふ者あり)故に條約勵行と云ふことを以て所謂國利民福を計ることになれば本大臣は却て反對の結果を生ずることを恐れる、{原文に、なし}然るに−−もう少し御聽き下さい、然るに條約勵行と云ふことを以て一の手段とし、例の條約改正を促さんとするの希望を懷く人がある(「有る/\」「大有りだ」と呼ふ者あり)(清水文次{前1文字ママ}郎君「しつかり言へ、分らない」と呼ふ)是等の冀望を懷く人は以爲らく、條約勵行をするならば外國人に澤山の不自由を與へるであらう、外國人に澤山の不自由を與へたならば其結果として彼より條約改正を促して來るであらうと想像するのであります、本大臣の考に於ては此現行條約なるものは前にも言つた通り一方に偏する條約であるものを、矢鱈千萬に勵行をした時に外國人に何程の不自由を感ずると云ふことを知らないのである、又多少の不自由を感ずることがあるとしても、それがために外國政府より條約改正を促し來るなどと云ふ想像は附かぬのである(此時早川龍介君「一寸・・・事外交に渉りますが餘り公會も如何と思ふ」と述ふ「否々」と呼ふ者あり「大公會」と呼ふ者あり)(笑聲起る)條約改正の目的を達せんとするには畢竟我國の進歩我が國の開化が眞に亞細亞洲中の特例なる文明強力の國であると云ふ實證を外國に知らしむるに在り、是が條約改正を達する大目的であります、而して右等の實證は今日迄幾分か知らしめたと云ふことは先程より述ぶる所の我政府が從來執來つたる所の開國主義を實際に行ふたる結果であります、條約改正の目的、否な外交上の目的は第四回の議會に於て總理大臣が宣言しました通り、凡そ國として受くべき權利を受け、凡そ國として盡すべき義務を完うすると云ふにあります、是が實際より言へば則ち此日本帝國が亞細亞洲中にありながら歐米各國より一種特別なる待遇を受けむと云ふ趣意である、既に外よりして一種特別なる待遇を受けむとするものは内にあつても一種特別なる政略を行ひ、其人民も一種特別なる氣象を現はさなければならぬのである、故に今日の外交の要務は自尊自重何人をも侮らず、何人をも怖れず(「然り」と呼ふ者あり)彼此互に相當の尊敬を盡して文明強國の侶伴に入らんとするのである(「其通り」「それに外ならぬ」と呼ふ者あり)諸君、近來の歴史、近來歐洲及亞細亞に關する歴史を御覽なさい、或一國が外交のことに關し其國の安危存亡の關る場合に於て、其人民中内心實に小膽臆病外國人を畏懼しながら外には傲慢の意志を現はし、區區小事に就いて外國人を輕侮するの形跡を存し、而して一朝事あるに當つては逡巡して自立することが出來ない(「逡巡したる者は誰か」「政府自らだ」と呼ふ者あり)何でも宜しいまあ御聽なさい、もうさう長くは申しませぬ(鈴木萬次郎君「一朝事あるに當つて逡巡したのは今の政府ではないか」と呼ふ)即ち一朝事あるに當つて逡巡して自立する能はず(「夫子自らだ」と呼ふ者あり)大に外交上の葛藤を生じ、一敗地に塗れて國辱を貽し國運を縮めたる例は鮮なからぬ(「政府自らなり」と呼ふ者あり)(「今の政府常に然り」と呼ふ者あり)然るに此外交の政略と云ふものは多くは其時代の國民の氣象に應ずるものである、曩にも申す通り幕府は鎖國攘夷と云ふ氣風に感染せられ、爲に其外交政略は事々物々外國人を遮斷する主義に外ならなかつたのであります、故に耐忍力あり、進取の氣象ある人民を有する國にあらずんば且つ大なる外交政略を執ることは出來ないのである、偖て最早大抵申盡し餘り長く時を取らぬを必要と思ひます、茲に最後に本大臣は政府を代表して言ふ、到底彼の條約勵行若くは其他之に附隨する所の議案は、維新以來の國是に反對し、政府は此國是を阻格するものに對しては之れを排斥するの責任あるが故に、苟も斯の如き議案の議場に提出せらるゝに當つては、之を論駁することに於て寸毫も假借せぬのであります、{原文に、なし}故に茲に政府が外交上の方針を宣べて以て諸君の反省を求むるのである。