[文書名] 日本國米利堅合衆國和親條約附錄(日米和親条約附録)
安政元年(嘉永七年)五月二十二日(西曆千八百五十四年第六月十八日)下田ニ於テ調印(日、英文)
日本國え合衆國よりの使節提督ペルリと、日本大君の全權林大學頭井戶對馬守伊澤美作守都筑駿河守鵜殿民部少輔竹內淸太郎松崎滿太郎、兩國政府の爲、取極置候條約附錄、
第一ケ條
一下田鎭臺支配所の境を定めんか爲、關所を設くるは、其意の儘たるへし、然れとも亞墨利加人も、亦旣に約せし日本里數七里の境關所出入するに障ある事なし、但日本法度に悖る者あらは、番兵是を捕へ其船に送るへし、
第二ケ條
一此湊に來る商船捕鯨船*1*の爲、上陸場三ケ所定置し、其一は下田、其一は柹崎、其一は港內の中央にある小島の東南に當る澤邊に設くへし、合衆國の人民必日本官吏に對し叮嚀を盡すへし、
第三ケ條
一上陸の亞墨利加人、免許を請すして、武家町家に一切立寄へからす、但寺院市店見物は勝手たるへし、
第四ケ條
一徘徊の者休息所は、追て其爲旅店を設くるまて、下田了仙寺柹崎玉泉寺二箇寺を定置くへし、
第五ケ條
一柹崎玉泉寺境內に、亞墨利加人埋葬所を設け、麁略ある事なし、
第六ケ條
一神奈川にての條約に、箱館において、石炭を得へきとあれとも、其地にて渡し難き趣は、提督ペルリ承諾いたし、箱館にて石炭用意に及はさる樣、其政府に告へし、
第七ケ條
一向後兩國政府において公顯の告示に、蘭語譯司居合さる時の外は、漢文譯書を取用ふる事なし
第八ケ條
一港取締役壹人港內案內者三人定置くへし、
第九ケ條
一市店の品を撰求むるに、買主の名と品の價とを記し、御用所に送り、其價は同所にて日本官吏に辨し、品は官吏より渡すへし、
第十ケ條
一鳥獸遊獵は、都て日本において禁する所なれは、亞墨利加人も亦此制度に伏すへし、
第十一ケ條
一此度箱館の境日本里數五里を定置き、其他にての作法は、此條約第一ケ條に記す處の規則に傚ふへし、
第十二ケ條
一神奈川にての條約取極の書翰を差越し、是に答ふるには、日本君主に於て誰に委任あるとも、意の儘たるへし、
第十三ケ條
一茲に取極置く處の規定は、何事によらす、若神奈川にての條約に違ふ事あるとも、又是を變る事なし、
右條約附錄、エケレス語日本語に取認め、名判致し、是を蘭語に翻譯して、其書面合衆國と日本全權双方取替すもの也、
嘉永七年五月廿二日、下田に於て、
林大學頭 花押
井戶對馬守 花押
伊澤美作守 同
都筑駿河守 同
鵜殿民部少輔 同
竹內淸太郎 同
松崎滿太郎 同
「備考」 右條約ハ彼我共ニ其ノ效力ヲ認メタルモノナルガ安政二年正月五日(千八百五十五年二月二十一日)下田ニ於テ日本國米利堅合衆國和親條約批准交換ノ際米國側カ此ノ分チ忘レ來リ歸國ノ上改メテ提出スベキチ約シテ去リタルモノナリ尙大日本古文書幕末外國關係文書第九卷四四頁、四八頁、五二頁五二參照
*1*「鯨漁」一本