[文書名] 日本國大不列顛國約定(日英和親条約)
嘉永七年(安政元年)甲寅八月二十三日(西曆千八百五十四年第十月十四日)於長崎調印
安政二年乙卯八月二十九日(西曆千八百五十五年第十月九日)於同所本書交換
日本大君の命を請たる長崎奉行水野筑後守御目付永井岩之丞と東印度及ひ其近海の英國軍艦を指揮する第三等水師提督ナイト(爵名)ゼームス、スチルリングと同意約定する條々左の如し
第一條
長崎箱館の兩港を英國船修復淸水食料其外都て船中必需の貯品を供せん爲め開くへし
第二條
長崎は右のため今より開き箱館は水師提督當港を出帆の日より五十日後に開くへし尤も右兩港の法律規則は都て聽從すへし
第三條
暴風雨の爲に困難し或は不得止時のみは日本政府の免許を受けす前條に取極し港の外他港へ入津するを許すへし
第四條
日本の港に入津する英船は日本の法律に從ふへし船中の高官或は指揮官右法律を犯す時は其港を鎖し其以下の人々之を犯す時は其船の指揮官に引渡し罰を加ふへし
第五條
他の外國の船或は人民の爲に今開きたる港或は此後開くへき港に於ては英國の船並人民も其港に入津し且最も恩惠を加へらる〃國に與へらる〃利益は同樣之を受くへし然れ共日本と先前より交際を存する和蘭並支那に與ふる利益は常に此例に非さるへし
第六條
此約書確證の上本書は日本大君と英國女王の爲め今より十二箇月の中に長崎に於て取替すへし
第七條
此約書本書爲取替相濟たる上は日本に來る高官誰にても此約を變更する事なし
右證據として於長崎此書に手記調印する者也
嘉永七年甲寅八月二十三日
千八百五十四年十月十四日
水野筑後守 花押
永井岩之丞 花押
ゼームス、スチルリング 手記
〔備考〕大日本古文書幕末外國關係文書之七第四三九頁以下參照
約文
此度
大貌利太泥亞王國之軍船ウヰンセストル之惣督ヤーメス、スティルリンキに相會し、長崎奉行水野筑後守・御目付永井岩之丞
大日本帝國政府之命を請、薪水食料等船中必用之品を辨し、又は破船修理の爲、肥前の長崎と松前の箱館との兩港に、貌利太泥亞國之船を寄る事を差免す。
一長崎は今より其用を辨し兩箱館は此港退帆之日より五十日を經て船を寄へし。尤其地々々の法度に從ふへし。
一難風に逢、船損せすして右兩港之外え、猥に渡來不●{二と返り点}相成●{一と返り点}事。
一此後渡來之船、若日本之法度を犯す事あれは、右之兩港に來るを禁す。船中乘組之者、法を犯さは、其船將吃度其罪を糺さるへし。
一此度約する兩港の外、今より後外國え差免す事あらは、其國と同樣、貌利太泥亞船民をも可●{二と返り点}取扱●{一と返り点}事
一右之通決定之上は尙
大日本國帝と
大貌利太泥亞女王と承諾之旨、委任貴臣の書面、今より十二月中
に長崎におゐて取替可申事。
右之條件政府之命によりて定る上は、此後渡來之船將かはるとも、此約はかゆる事なし。
嘉永七甲寅年八月二十三日於●{二と返り点}長崎鎭府●{一と返り点}定●{レ点}之
水野筑後守 書判
永井岩之丞 書判
(長崎港暎咭唎船)