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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 日本國魯西亞國通好條約(日露和親条約)

[場所] 下田
[年月日] 1855年2月7日
[出典] 舊條約彙纂,第一卷第二部,外務省條約局,521‐531頁.
[備考] 安政元年甲寅十二月廿一日
[全文]

安政元年甲寅十二月廿一日(西曆千八百五十五年第二月七日魯曆第一月廿六日)於下田調印

安政三年十一月十日(西曆千八百五十六年十二月七日魯曆十一月廿七日)於同所本書交換

日本國と魯西亞國と今より後懇切にして無事ならんことを欲して條約を定めんか爲め

魯西亞ゲイヅルは全權アヂュダント、ゼネラール、フィース、アドミラール、エフィミユス、プーチャチンを差越し日本大君は重臣筒井肥前守川路左衞門尉に任して左の條々を定む

 第一條

今より後兩國末永く眞實懇にして各其所領に於て互に保護し人命は勿論什物に於ても損害なかるへし

 第二條*1*

今より後日本國と魯西亞國との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「ヱトロプ」全島は日本に屬し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亞に属す「カラフト」島に至りては日本國と魯西亞國との間に於て界を分たす是まて仕來の通たるへし

 第三條

日本政府魯西亞船の爲に箱館下田*2*長崎の三港を開く今より後魯西亞船難破の修理を加へ薪水食料缺乏の品を給し石炭ある地に於ては又是を渡し金銀錢を以て報ひ若し金銀乏き時は品物にて償ふへし魯西亞の船難破にあらされは此港の外決して日本他港に至る事なし尤難破船に付諸費あらは右三港の內にて是を償ふへし

 第四條

難船漂民は兩國互に扶助を加へ漂民は許したる港に送るへし尤滯在中是を待つ事緩優なりと雖國の正法を守るへし

 第五條

魯西亞船下田箱館へ渡來の時金銀品物を以て入用の品物を辨する事を許す

 第六條

若止む事を得さる事ある時は魯西亞政府より箱館下田の內一港に官吏を差置へし

 第七條

若評定を待へき事あらは日本政府是を熟考し取計ふへし

 第八條

魯酉亞人の日本國に在る日本人の魯西亞國に在る是を待つ事緩優にして禁錮する事なし然れ共若し法を犯すものあらは是を取押へ處置するに各其本國の法度を以てすへし

 第九條

兩國近隣の故を以て日本國にて向後他國へ許す處の諸件は同時に魯西亞人にも差免すへし

右條約

魯西亞ケイヅルと

日本大君と又は別紙に記す如く取極め今より九箇月の後に至りて都合次第下田に於て取換すへし是に因りて兩國の全權互に名判致し條約中の事件是を守り雙方聊違變ある事なし

 安政元年十二月廿一日(魯曆千八百五十五年第一月廿六日)

  筒井肥前守 花押

  川路左衞門尉 花押

  エフィミユス、プーチャチン 手記

*1* (一)明治八年樺太千島兩島交換條約アリ(第六八〇頁參照)

*2* (二)下田ハ安政五年ノ條約ニ依リ神奈川開港後六ヶ月ニシテ鎖セリ

 日本國魯西亞國條約附錄

 安政元年甲寅十二月二十一日(西曆千八百五十五年第二月七日「魯曆第一月二十六日」)於下田調印

魯西亞國全權ゼネラール、アヂュタント、フイース、アトミラール、ヱフィミユス、プーチャチンと日本國委任の重臣筒井肥前守川路左衞門尉相定むる所の條約附錄

 第三條

魯西亞人下田箱館に於て市中近邊自由に俳徊することを許すと雖も下田は犬走島より日本里數七里箱館に於ては同五里を限とす尤寺社市店見物且旅店取建迄は定むる所の休息所に至ると雖も人家には招待なくして決て立入る事を許さす長崎に於ては追て他國の爲に取極る所に從ふへし且港每に埋葬所を取極め置へし

 第五條

日本にて役所を定め置品物渡方並魯西亞人持越たる金銀貨幣品物も其所に於て取扱ふへし魯西亞人市店にて撰みたる品は商人賣直段に應し船中持渡の品を以て辨すへし尤役所に於て日本役人取計へし

 第六條

魯西亞官吏は安政三年(西曆千八百五十六年)より定むへし尤官吏の家屋並地所等は日本政府の差圖に任せ家屋中自國の作法にて日を送るへし

 第九條

何事に依らす外民に許す所は魯西亞人にも談判なくして一同差許すへし

右附錄の事件條約本文同樣是を守りて違失なき爲兩國の全權名判する者也

 安政元寅年十二月二十一日魯曆千八百五十五年一月二十六日

  筒井肥前守 花押

  川路左衞門尉 花押

  ヱフィミユス、プーチャチン 手記