データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 日本國米利堅合衆國條約(日米下田条約,下田協定,下田協約,日米追加条約)

[場所] 下田
[年月日] 1857年6月17日
[出典] 舊條約彙纂,第一卷第一部,外務省條約局,9-12頁.
[備考] 安政四年巳五月二十六日
[全文]

安政四年巳五月廿六日(西曆千八百五十七年六月十七日)於下田調印(日、英、蘭文)

帝國日本に於て亞米利加合衆國人民の交を猶處置せん爲に全權下田奉行井上信濃守中村出羽守と合衆國のコンシュル、ゼネラール(官名)エキセルレンシー(敬稱)トウンセンド、ハルリスと各政府の全權を持て可否を評議し約定する條々左の如し

 第一條

日本國肥前長崎の港を亞米利加船の爲に開き其地に於て其船の破損を繕ひ薪水食料或は缼乏の品を給し石炭あらは又夫をも渡すヘし

 第二條

下田並箱館の港に來る亞米利加船必用の品日本に於て得難き分を辨せん爲に亞米利加人右の二港に在住せしめ且合衆國のワイス、コンシュルを箱館の港に置く事を免許す

 但此箇條は日本安政五午年六月中旬合衆國千八百五十八年七月四日より施すへし

 第三條

亞米利加人持來る所の貨幣を計算するには日本金壹分或は銀壹分を日本分銅の正きを以て金は金銀は銀と秤し亞米利加貨幣の量目を定め然して後吹替入費の爲六分丈の餘分を日本人に渡すへし

 第四條

日本人亞米利加人に對し法を犯す時は日本の法度を以て日本司人罰し亞米利加人日本人へ對し法を犯す時は亞米利加の法度を以てコンシュル、ゼネラール或はコンシュル(共に官名)罰すへし

 第五條

長崎下田箱館の港に於て亞米利加船の破損を繕ひ又は買ふ所の諸缼乏品代等は金或は銀の貨幣を以て償ふへし若し金銀共所持せさる時は品物を以て辨すへし

 第六條

合衆國のエキセルレンシー(敬稱)コンシュル、ゼネラール(官名)は七里境外に出へき權ある事を日本政府に於て辨知せり然りと雖も難船等切迫の場合にあらされは其權を用ふるを延す事を下田奉行望めり此に於てコンシュル、ゼネラール(官名)承諾せり

 第七條

商人より品物を直買にする事はエキセルレンシー(敬稱)コンシュル、ゼネラール(官名)並其館內に在る者*1*に限り差免し尤其用辮の爲に銀或は銅錢を渡す可し

 第八條

下田奉行はイギリス語を知らす合衆國のエキセルレンシー(敬稱)コンシュル、ゼネラール(官名)は日本語を知らす故に眞義は條々の蘭譯文を用ふ可し

 第九條

前箇條の內第二條は記す所の日より其餘は各約定せる日より行ふ可し

右の條々*2*日本安政四巳年五月二十六日亞米利加合衆國千八百五十七年六月十七日下田御用所に於て兩國の全權調印せしむるものなり

  井上信濃守 花押

  中村出羽守 花押

*1* (一)「其館內ニ在ル者」トハ「其家族」ヲ云フ

*2* (二)横文ニ據レハ「右ノ條々英語日本語蘭語ニテ四通ヲ書シ日本安政四巳年五月二十六日千八百五十七年六月十七日亞米利加合衆國獨立ノ八十一年下田御用所ニ於テ亞米利加合衆國ヒス、エキセルレンシー、コンシュル、ゼネラールハ英文ニ、ゼール、エキセルレンシー下田奉行ハ日本文ニ各調印セシムルモノナリ」トアリ