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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 巴里斯約定(パリ約定)

[場所] パリ
[年月日] 1864年6月20日
[出典] 舊條約彙纂,第一卷第一部,外務省條約局,895‐898頁.
[備考] 元治元年甲子五月十七日
[全文]

元治元年甲子五月十七日(西暦千八百六十四年第六月二十日)*於巴里斯調印

*一說元治元(前6文字右横に傍線あり)年五月二十二日(西曆千八百六十四年六月二十五日)ニ作ル

佛國外務執政と日本の使節との間に左の約定を決定せり

佛國皇帝陛下日本大君と雙方の信任を證顯して兩國の間に存在する友愛及ひ貿易の交通を堅固にせん事を欲し雙方協議の上特別の取極を以て千八百六十二年以來兩政府の間に起たる難事を治正せん事を決せり

故に佛國皇帝陛下の外務執政ドルワン、ド、リュイース閣下と大君殿下の使節として正しく此事件に任せられたる池田筑後守河津伊豆守河田相模守閣下等と次の箇條を同意決定せり

 第一條

千八百六十三年七月中長州に於て佛國海軍の「キヤンセン」艦に向ひ發砲に及ひし一件の償として大君の使節閣下日本へ歸着の後三箇月後に日本政府江戶に在留せる佛國皇帝陛下の公使へ墨斯哥銀十四萬弗の償金を拂はん事を約せり但し內十萬弗は政府自ら拂ふへく四萬弗は長州の官員より拂ふへし

 第二條

大君の使節閣下日本へ歸着の後三箇月の內に日本政府下の關海峡を過んと欲する佛國船の遭遇する妨害を除かしめん事を約せり而て止を得さる時は兵力を用ひ又時宜に寄り拂國海軍分隊指揮官と一致して常に此通行をして妨なき樣爲し置ん事を約せり

 第三條

佛蘭西と日本との貿易交通をして次第に盛大ならしめんか爲め千八百五十八年十月九日江戶に於て兩國の間に取結ひし條約行はるゝ期限の間は佛商人或は佛旗を建て輸入する品物の爲に大君殿下の政府より最後に外國交易に許し與へられたる減稅表目を推用すへし

夫故に此條約を精密に守る間は茶の包裝に用る左の物品をは運上所に於て無稅にて通すへし卽ち葉鉛、鉛蝋、敷物、籐、畫に用る油、藍、硫酸、石灰、平鍋、籠

又日本運上所にては左の物品輸入の時只其價の五分稅を取立へし酒、酒精物、白砂糖、銕、銕葉、器械、器械の部分、麻の織物、時計、懐中時計、及ひ鎖り、硝子器、藥、而て硝子、及鏡、陶器、飾玉物、化粧の香具、石鹼、兵器、小刀の類、書籍、紙、彫刻物、畫には六分の稅を取立ヘし

 第四條

右の約定は千八百五十六年十月九日佛蘭西と日本の間に取結たる條約の犯すへからさる部分の一と見做し雙方主君の本書交換を要せす直に實行すへし

右を證する爲に上に記名せる諸全權此約定書に記名し且其印を鈐する者也

 千八百六十四年六月二十日巴里斯に於て原書二通に認む

  池田筑後守 花押

  河津伊豆守 花押

  河田相模守 花押

  ドルワン、ド、リュイス 手記

「備考」此ノ約定ハ世ニ「巴里ノ廢約」ト稱スルモノニシテ效力ヲ生ズルニ至ラザリキ尙當時ノ事情ニ付テハ井野邊茂雄著幕末史槩說第八節鎖港談判使ノ派遣第五四五頁參照