データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 復古大号令{原文の号は号のへんに𠂰のつくり}(王政復古の大号令)

[場所] 
[年月日] 1867年12月9日
[出典] 太成官 詔勅録 内部 自文久二年至明治五年 一.
[備考] 慶應3年12月9日、本文中の*1*三職人體は、吉川弘文館編集部編『近代史必携』より引用
[全文]

徳川内府從前御委任太政返上将軍職辭退之兩條今般斷然被

聞召候抑癸丑以来未曾有之國難

先帝頻年被悩

宸襟候御次第衆庶之所知候依之被決

叡慮

王政復古国威挽回ノ御基被為立候間自今攝關幕府等廢廃絶即今先假ニ総裁議定参與ノ三職ヲ被置萬機可被為行諸事神武創業之ノ始ニ原ツキ、縉紳武辨堂上地下ノ無別至當ノ公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊

叡念ニ付各勉勵𦾔来驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ盡忠報國ノ誠ヲ以テ可致奉 公候事

一 内覽 勅問御人數國事御用掛議奏武家傳奏守護職所司代總テ被廢絶候事、

一 三職人體 姓名畧ス *1*

一 太政官始追々可被為興候間其㫖可心得候事

一 朝廷禮式追々御改正可被為在候得共先攝籙門流ノ儀被止候事

一 𦾔弊御一洗ニ付言語ノ道被洞開候間見込ノ向ハ不拘貴賤無忌憚可致獻言且人材登庸第一ノ御急務ニ候故心當ノ仁有之候ハ早々可有言上候事

一 近年物價格別騰貴如何共不可為勢冨者ハ益冨ヲ累ネ貧者ハ益窘急ニ至候趣畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者之大寳百事御一新之折柄旁被惱

宸衷候智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼可申出候事

一 和宮御方先年關東ヘ降嫁被為在候得共其後将軍薨去且

先帝攘夷成功ノ

叡願ヨリ被為許候處始終奸吏ノ詐謀ニ出無御詮ノ上ハ旁一日モ早ク御還京被為促度近日御迎公卿被差立候事

右之通御確定以一紙被 仰出候事

{*1* 三職人體は以下の通り

 総裁 有栖川帥宮(熾仁親王)

 議定 仁和寺宮(純仁親王) 山階宮(晃親王)

  中山前大納言(忠能) 正親町三条前大納言(実愛)

  中御門中納言(経之)

  尾張大納言(徳川慶勝) 越前宰相(松平慶永)

  安芸少将(浅野茂勲) 土佐前少将(山内豊信) 薩摩少将(島津茂久)

 参与 大原宰相(重徳) 万里小路右大臣宰相(博房)

  長谷三位(信篤) 岩倉前中将(具視)

  橋本少将(実梁)

  尾藩三人 越藩三人

  芸藩三人 土藩三人}