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日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 幣原大臣陳友仁會談錄(幣原大臣陳友仁会談録)

[場所] 
[年月日] 1931年7月28日
[出典] 日本外交年表竝主要文書下巻,外務省,172-180頁.
[備考] 
[全文]

(第一回)

來朝中ノ廣東政府外交部長陳友仁氏ノ求メニ依リ昭和六年七月二十八日幣原外務大臣之ト會見シタルカ其際先ツ陳氏ヨリ

從來日支兩國ハ「セミ、ホスティリティ」トモ云ウヘキ狀態ニ在リタル次第ナルカ兩國ハ速ニ右ノ如キ狀態ヲ脫シテ眞ノ友人トナルコトニ努力セサルヘカラスト思考ス今回ノ「ボイコット」ノ如キハ兩國ノ孰レニモ害アリテ何等益無シ自分トシテハ今少シク合理的ニ且ツ事實ニ卽シテ兩國關係ヲ律スル方法ヲ考究シ度所存ニテ例エハ滿洲問題ノ如キニ付テモ日本ノ同地方併合ト云ウカ如キハ承認シ得サルコト勿論ナルモ併合ニ至ラサル範圍ニテ日本カ同地方ニ存在スルコトハ現實ノ問題トシテ認メサルヘカラサルヘク今日之カ善惡乃至適法不適法ヲ論スル如キハソノ時期ニ非スト存ス又自分ハ朝鮮事件、萬寶山事件ノ如キ何等重キヲ置キオラス治外法權問題モ毫モ解決ヲ急ク必要ナシト思考シオレリ總シテ今少シク事實ニ直面シテ兩國ノ關係ヲ律セント欲ス實ハ廣東政府ニオイテハ來タル十月十日國民會議開催ノハスナル處ソノ際對日政策ノ根本方針ヲ決定シ置キ現存スル各種ノ具體的問題ハ追テ右根本方針ニ照シ解決方法ヲ講スル爲メ兩國ノ共同委員會ト云ウカ如キモノヲ開キ度意向ニテ委員會開催ノ際個々ノ問題ニ付一々國民會議乃至國民黨ノ干涉ヲ受クルニオイテハ到底圓滿ナル解決ヲ期シ難キニ付右ノ通リ豫メ國民會議ニオイテ根本方針ヲ明定セシメ全權委任ヲ取付ケ置カントスルモノナリ今日自分ハ貴大臣ト何等交涉又ハ討議ヲ爲ス意ナク專ラ右國民會議ニオケル根本方針決定ノ參考ニ資スルタメノ情報ヲ得ンコトヲ希望スル次第ナリ

ト述ヘタルヲモツテ幣原大臣ハ別紙英文ノ趣旨ヲ說示シタルニ陳氏ハ右ハ至極御尤モナルカ孰レニスルモ自分ハ今日本問題ニ付何等閣下ト論議スルノ意思ナク只蔣介石ノ運命ハ最早旦夕ニ迫リ吾人同志カ政局ノ責任ヲ負擔スルノ日モ遠カラサルヘキヲモツテソノ際據ルヘキ政策ヲ豫メ攻究シ置カンタメ必要ノ情報ヲ得ヘク渡日セル次第ナリ

トノ趣旨ヲ再應述フル所アリ幣原大臣ハ轉シテ共產黨ニ對スル所見ヲ訊シタルニ陳氏ハ

共產黨ノ內部ハ現在二派ニ分レ一ハ第三「インターナシオナル」卽チ露國ヨリノ指導ヲ仰キオリ他ハ國內的黨派トシテ國內ニ指導者ヲ求メオレルカ未タコレヲ得ス李立三ノ如キハコレカ首領ヲ夢ミオレルカ如シ江西省邊ノ共產軍ニモ右二派アルカ更ニ第三ノ分子トシテ純然タル土匪アリ江西ノ共產軍ハ昨年頃マテハ銃器一萬五千挺ヲ有スルニ過キサリシカ蔣介石ノ討伐開始以來却テ八萬乃至十萬挺ニ增加セリ是レカ術策ヲ弄シ雜色軍ヲ討伐ニ向ケ一石二鳥ヲ圖リシ處雜色軍ハ共匪ト合體シソノ勢力ヲ膨大セシメタル次第ナリ

ト述ヘ更ニ幣原大臣ヨリ然ラハ共產軍ハ貴方ニオイテモコレヲ抑壓ノ方針ヲ取ラントスルモノナリヤト訊シタルニ陳氏ハ

 固ヨリ然リ且之ニ成功ノ自身アリナオコノ關係ニテ一言シ度ハ吾人カ蔣介石ニ反對スルハ蔣ハ一人專制ニテ全支ヲ支配シ得ト考エオルモ一人專制ニハ長短所アリテ今日善政ヲ爲スモ明日惡政ナキヲ保シ難ク繼續性ナシ吾人ハ平凡ナランモ專制ヲ排シ團結ノ力ニヨラントシコノ點蔣ト相容レサルナリ

ト述ヘ次イテ漢口時代ニオケル自己ノ行動ノ辨解ニ及ヒ

 當時ノ狀勢ハ一度ハ共產黨ト連合スルコト賢明ニシテ又急激ニコレト分離スルコト好マシカラサリシ事情アリタリ然シ乍ラソノ後莫斯科ニ赴キ見タル結果、共產黨トノ一致困難ナルヲ發見シ今日ニテハ共產黨乃至露國ト何等關係ナク支那ヲコノ危險ヨリ救ワサルヘカラサルモノト思考シツツアリ

ト述ヘ更ニ今一回大臣ト會見シソノ際滿洲ニオケル日本ノ權益ニ關スル大臣ノ定義ヲ聞カムコトヲ希望スル旨述ヘタルヲモツテ大臣ハ定義ハ下シ難キモ個々ノ問題ニ付質問アラハオ答スヘシ要スルニ日本トシテハ滿洲ニ對シ支那領土權ヲ認メルト共ニ同地方ニオイテ日本ノ事業カ安全ニ行ワレ日本人カ平和ニ居住シ得ルコトニ重キヲ置ク次第ナリト答エ置キタリ最後ニ陳氏ハ日本ニ二重外交ナルモノアリヤト尋ネタルモツテ大臣ヨリ日本ノ外交政策ハ唯一ニシテ夫ハ政府ノ決定スル所ナリ他ニ陸軍トカ各方面ニ個人ノ考ハ存セシモ是等ハ何等政府ノ政策ト稱シ得ヘキモニアラスナオ右樣事態ハ他ノ文明國ニテモ見受クル所ニシテ日本ニ特殊ノコトニ非スト答エ置キタリ

(昭和六年七月二十九日谷亞細亞局長口述筆記)


(第二回)

昭和六年七月三十一日廣東政府外交部長陳友仁氏ハ再度幣原大臣ト會見シタルカ

先ス陳氏ハ今日ハ少シク具體的ニ大臣ノ御意見ヲ承リタシト前提シタル上唐突ニ

 日支兩國ノ前途ヲ慮ルニコノ際兩國ノ間ニ防守同盟ヲ結フ如キコトハ如何ノモノニヤ固ヨリコレモ自分等カ政局ノ責任ノ衝ニ當ルモノト假定シテノコトナリ

ト述ヘタルヲモツテ大臣ハ

 防守同盟カ軍事同盟ノ意味ナラハ自分ハコレヲ考慮シタルコトモナク又考慮スル用意モナシソノ世界輿論ニ及ホス反響ヲ顧慮スルヲモツテナリ、シカ シナ カラ右カ「アンタント、アミカル」又ハ「アンタント、コルデイアル」ノ意味ナラハ考慮ノ餘地ナキニ非サルヘシ

ト述ヘタルニ陳氏ハ

 固ヨリ後者ノ意味ナリ私見ニテハ本同盟ノ對𧰼ノ一トシテ共產黨問題ヲ考慮シ得ルモノト存スケタシ支那共產運動カモシ莫斯科ヨリ財政的援助ヲ受ケ又指導セラレ居ルモノトセハ支那ニ及ホス影響ハ極メテ重大ナリ、サレト單純ニ支那國內ニ指導ヲ得居ルモノトセハ是レ經濟的不滿ノ原因ニテ動ケルモノト見ルヘク吾人ハコノ不滿ノ狀態ニ對應スル相當ノ方法ヲ講スレハ足リサシテ憂慮ノ要ナシ反之第一ノ場合ニオイテハ同運動ハ日本ニ取リテモ脅威トナルヘキヲモツテ兩國協力シテ自衞ノ方法ヲ講スルコトヲ考エ得ラルヘシ勿論コノ場合協力ノ「フォーミユラ」ノ發見ニハ相當困難アルヘク如何ニ抽𧰼的ノ言葉ヲ用ウルモ莫斯科ヲ目標トスルコトトナリ同地ニオイテ面白カラサル反響ヲ生スル慮レアルカ右「フオーミユラ」決定ノ困難ハ別トシ趣旨ハ考慮シ得サルヘキヤ。

ト述ヘタルモツテ大臣ハ

 コノ點ハ全ク新シキ問題ナリ但シ自分ハ露國ノ運動ヲ左程恐レ居ラス支那人ト雖モ露國ナル外部ノ「インフルエンス」ニヨリ容易ニ支配サルルモノト思考セス現ニ先年「ボロジン」カ漢口ニ來リ自ラ街頭ニ立チテ民衆ヲ指導シ始メントセル際民衆ハ彼ハ果シテ何人ナリヤト極テ意外ノ感ヲモツテコレヲ目セル由ヲ聞知シタルカ自分ハ「ボロジン」カ表面ニ現レタトキカ彼ノ「ビギニング、オブ、ザ、エンド」ト考エコノ趣旨ヲ議會ニ述ヘタルコトモアリ或ハ自分ハ支那人ヲ信賴シ過キ居ルヤモ知ラサルモ如上理由ニテ貴說第一ノ場合モ左程憂慮シ居ラサル次第ナリ

ト述ヘタルニ陳氏ハ

 面白キ說ナリ自分カ莫斯科ニ赴キタル際相當地位ノ露人ヨリ同樣ノ說ヲ聞キタルカ不思議ナル一致ト謂ウヘシ尤モ自分ノ觀察セル所ニテハ現在ノ露國ハ自ラ意識スルト否トニ拘ワラス事實ニオイテソノ對外行動ノ帝國主義的ナルコト帝政時代ト何等異ル所ナク見受ケラレタリ

ト述ヘタルヲモツテ大臣ハ

 自分ノ平常不可解トスルハ支那カ滿洲ニツイテハ日本ノ侵略云々ヲ誇大ニ宣傳スルニ拘ラス外蒙古ニオイテハコレヲ露國ノ勢力ニ委セルママ何等聲ヲ揚ケ居ラサルコト是ニテ先年自分カ庫倫ニ日本領事ヲ出張セシメントセル際支那ニハ異議ナカリシモ露國カ拒ミタルタメ實行ニ至ラサリシコトアリ不思議ナル事態ト謂ウヘシ

ト述ヘタルニ陳氏ハ

 支那ノ組織サエ完全トナレハ蒙古人ヲ敎化シテ露國ノ勢力ヲ驅逐スルコト難カラサルヘシ

トノ意味ヲ述フル所アリタルカ更ニ大臣カ

 自分ノ在野時代支那ノ一要人來訪シテ日支關係ハ速カニ今日ノ如キ確執狀態ヲ脫スルコト急務ナルカ一般支那人ハ日本カ何等カ侵略ノ意圖アル如ク誤解シ居ル旨ヲ述ヘタルヲモツテ自分ハ兩國間ニ不侵略協定ヲ結ヒテハ如何ト謂エルコトアリ

ト述ヘ更ニ右樣方法ニテ果シテ支那人ノ誤解ヲ一掃シ得ヘキヤト半ハ獨リ語ノ如ク謂イタルニ陳氏ハ逸早ク夫ハ例エハ露國ト土耳古ソノ他邊彊諸國トノ間ニ協定ノ如キモノナルヘシト言ヲ狹ミ相當注意ヲ拂エルモノノ如クナリシカ更ニ進ンテ

 次ニ滿洲ニオケル日本ノ權益ニ付具體的ニ承リ得スヤ

ト述ヘタルヲモツテ大臣ハ別紙英文ノ趣旨ヲ說示シタルニ陳氏ハ

 善ク諒解セリ日本政府ノ意向モ判明シ愉快ニ堪エスコレニテ廣東ニモ報吿シ得ル次第ナリ

ト述ヘタルヲモツテ大臣ハ

 上述セル所ハ自分ノ考エニテ同僚ト協議セル結果ニ非サルヲモツテ日本政府ノ意向ト謂ウ次第ニ非ス目下ハ同僚ト協議スルニ適當ノ時機トモ思考セス

ト述ヘタルニ陳氏ハ大臣カ辭任セラルレハ如何ニナル次第ナリヤト反問シ大臣カ辭任スルモ變更ナキ如キ種類ノ言明ヲナスコトハ困難ナリト答エタルニ陳氏ハ孰レニスルモ誤解ヲ避クルタメ自分ノ了解セル所ヲ書面ニ認メ八月三日(月曜日)閲覽ヲ願度シト述ヘタルヲモツテ大臣ハコレヲ承諾シ置キタリ

(昭和六年七月三十一日 谷亞細亞局長口述筆記)


(第三回)

昭和六年八月三日幣原大臣ハ廣東政府外交部長陳友仁氏ノ第三回來訪ヲ受ケタルカ其際先ツ陳氏ハ是迄ノ自分ト大臣トノ會談ヲ取纒メ見タリトテ草稿ヲ讀ミ上ケタルニ要旨左ノ如シ

第一、日支兩國ハ不愉快ナル「セミ・ホスティテリテイ」ノ狀態ヲ一掃スル必要アリ

第二、日支兩國ハ親善ノ原則ニ依リ進マサルヘカラス

第三、廣東政府カ列國ノ承認ヲ得ルニ至ラハ如上ノ目的ノ爲メ兩國間ニ協定ヲ造ルコトトシ其ノ形式ハ同盟ニテモ「アンタント・コーディアル」ニテモ可ナルカ右協定ニハ(イ)不侵略主義及(ロ)日本ノ對支殊ニ對滿政策ヲ明定スヘク右對滿政策ハ何等侵略的ノモノニ非サルト同時ニ日本ノ「モラル・クレイム」ヲ含ム又日本ノ權益ハ大部分條約ニ根據ヲ有シ且全部カ歷史的背景ニ依リ支持セラレ居リ右歷史的背景トシテハ第一、露支同盟密約第二、露國ノ侵略ノ歷史第三、露國カ小村侯ノ滿洲ハ日本ノ勢力範圍外ナリトノ言明ニ滿足セスシテコレヲ積極的ニ露國ノ勢力範圍內ナリト主張セル經緯等ヲ擧ケ得ヘシ

 尙右協定成立ノ上ハ國民黨コレヲ批准スルコトトス。

次イテ陳氏ハ本草稿ハ更ニ大臣ノ「オブザベイシォン」ヲ求ムル爲メ書キ改メ送付スヘキ旨附言セル上

 之ニテ自分ノ使命ハ終了セシ次第ナレハ茲ニ一應今回渡日ニ至レル內情ヲ開陳センニ實ハ自分等ハ支那ハ之ヲ現狀ノ儘放置シ置カンカ文明國ノ列ニ伍スルマテニ恐ラク數十年ヲ要スヘク早キニ臨ンテ對日關係ヲ調整シ日本ノ友好的援助ヲ得テ國情ノ改善ヲ圖ルコト肝要ニシテ之カ爲メニハ從來ノ對日政策ヲ根本的ニ改メ兩國間ノ「ピン・プリッキング・ポリシィ」ヲ廢シ眞ノ協力ヲ圖ルノ必要アルコトニ氣付キタル次第ナルカ尤モ日本側ニ於テ田中大將ノ如キ人物カ局ニ當リ居ル際ナラハ右樣政策轉換ノ氣モ起ラサル譯ナルモ貴大臣ノ御方針ハ汪精衞モ自分モ充分之ヲ研究シタル結果閣下カ局ニ當ラルル限リ協調ノ基礎ヲ得ラルヘキコトヲ確信スルニ至リ今回ノ自分ノ渡日トナリシナリ

ト述ヘタル上話頭ヲ泰平組合ノ對廣東政府武器供給契約問題ニ轉シ

 本件ニ付テハ最近行違イヲ生シ廣東ノ一部ニテハ「イリテイト」シ居ルモノノ如ク自分ハ本問題論議ノ意圖ナキモ一應經緯ヲ承知シ度始メ陸軍ハ輸出ヲ許可セルニ拘ワラス外務省ハ之ヲ取消セリトノコトナルカ之ハ廣東側ノ友好的態度ヲ裏切ルモノト謂ウノ外ナシ

ト述ヘタルヲ以テ大臣ハ

 淡泊ニ申サンニ第一事實問題トシテ本件ハ關係日本商人ニ於テ貴方トノ契約以前何等自分等ニ協議セルコトナク僅カニ輸出間際ニ至リ國民政府ニ供給スルモノトシテ外務省ニ持出サレタリ然ルニ外務省ニテハ久シク南京政府ヨリ武器ノ注文ナカリシ際トテ奇異ノ感ヲ抱キ爲念南京ニ問合セタルニ注文ノ事實ナシトノコトニテ卽チ商人ハ外務省ヲ欺キタル譯ナルカ陸軍カ許可セリト謂ウモ事實ニ非ス要スルニ充分ニ打合ナカリシ爲行違イカ發生セル次第ナリ第二ニ法律問題トシテ先年公使團ノ禁輸協定廢止後國民政府ハ法律ヲ發布シテ武器輸入ニハ同政府ノ許可ヲ要件トシ居ル處日本ノ立場ハ其ノ承認セル政府ノ法律ハ條約ニ違反セサル限リ之ヲ認メサルヘカラスト云ウニ在リ自國民カ南京政府ノ法律ヲ無視スル行爲ヲ「アプルーブ」シ得ス事實上ハ廣東ニモ政府存在シ居ルモ南京政府ニ對スル承認カ取消サレ居ラサル以上右ハ止ムヲ得サル所ナリ第三ニ政府問題トシテ日本ハ支那ノ內亂ヲ助長スル如キ行動ヲ爲シ得サル處前述ノ如ク南京ヨリハ注文ナキニ拘ワラス此際廣東ニ供給スルコトハ內亂助長トナリ如何ニスルモ從來聲明シアル政策ニ背反スル結果トナル次第ナリ叙上ノ日本側ノ困難ハ諒知アリタシ

ト述ヘタルニ陳氏ハ

 南京政府ノ法律ト謂ワレタルモ斯ルモノハ存在セス一方廣東政府ハ旣ニ組織アル形體ヲ成シ事實上ノ政府ノ資格ヲ有シ居ルニ付此點ヲ認メラレ度元來武器ハ歐洲ヨリモ供給ヲ仰キ居ルモ緊急ノ場合ニハ日本ニ依賴スルノ外ナク日本政府トシテモ大目ニ見ラルルコトヲ豫期シ居タル次第ナリ

ト謂エルヲ以テ大臣ハ是以上本問題ニ深入リスルヲ避ケ英國ノ如キハ如何ニ居ルヤヲ尋ネタルニ陳氏ハ

 香港ニハ廣東政府ノ「エージェント」トシテ Cohen ナル加奈陀籍猶太人アリテ同政府ノ爲通關ノ便宜ヲ圖リ居レルカ英國ハ「バルセロナ」條約ニ依リ武器ノ香港渡シハ差支ナシトノ見解ヲ棌リ入レリ

ト述ヘタリ (昭和六年八月四日谷亞細亞局長口述筆記)

附言 八月五日陳友仁氏暇乞ノ爲幣原大臣ヲ來訪ノ際本會談錄冒頭言及ノ要錄トシテ別紙甲號ヲ提示シタルニ對シ大臣ハ一二微細ノ修正ヲ施シ返付セラレタルカ別紙乙號是ナリ


 昭和六年七月二十八日幣原外務大臣の陳友仁氏に說示せる要領(譯文)

吾人ハ總テ我カ對支關係ハ「共存共榮」ノ主義ニ則ラントスルモノナルコトヲ各種ノ機會ニ反復言明シタリ兩國ハ互ニ好ムト好マサルトニ拘ハラス永久ニ隣邦タルノ關係ヲ免ルル能ハス孰レノ一方モ他方ヲ併呑スルヲ得サルモノニシテ若シ兩國ニシテ相侵スカ如キコトアランカ結局共倒レトナリ徒ラニ無情ナル傍觀者ヲ利スルニ終ルヘシ兩國ハソノ地理的隣邦タル關係カ絕對ニ變更シ得サルモノトセハ更ニ一步ヲ進メ友好互助ノ隣邦トシテ提携シ平和ト協調トノ裡ニ「共ニ存セシ共ニ榮ユル」ノ方法ヲ發見スルヲ得策トセサルカ我カ對外方針ノ形成ニ付多少トモ責任ヲ有スル者ニシテ中國領土ノ何レカノ部分ニ對シ何等侵略的計畫ヲ夢想スルカ如キモノナキハ余ノ絕對ニ確信スル所ナリ蓋シ斯ノ如キ計畫ニシテ萬一實現可許ナリトスルモ其ノ我國自身ノ將來ニ及ホス害惡ハ之カ利益ヨリモ遙ニ大ナルモノアルヘシ中國政界指導者中往々ニシテ吾人カ侵略主義或ハ帝國主義ヲ奉スルモノナルカノ如キ非難ヲ爲スモノテアルモ苟モ吾人ノ行動ヲ精細ニ硏究シ且ツ充分ニ了解スルニ於テハ必スヤ是等非難ノ荒唐無稽ナルヲ明瞭ニ看取スルナラム他面國家ノ生存權ハ中國カ之ヲ有スルト同樣日本亦之ヲ有ス而シテ現ニ吾人カ滿洲地方ニ於テ享有スル權益ノ或ルモノハ我カ國民的生活ト緊密不可離ノ關係ニ在リ日本ノ政府トシテ如何ニ中國ニ對シ寛大ナル態度ヲ執ルトモ是等權益ハ到底抛棄シ得ラルヘキモノニ非ス將又吾人カ是等權益ヲ繼續享有スルコトハ毫モ中國存立又ハ繁榮ニ危險ヲ及ホササルノミナラス中國ノ秩序アル發逹及ビ物質的福祉對シ現實ニ貢獻シ來レリ

最近二十年間ニ於テ滿洲ハ各般ノ建設事業共ニ急速ノ進步ヲ示シ全中國中最モ繁榮セル土地タルニ至レリ今ヤ中國勞働者ハ內亂ノ巷ヲ逃レ生活ノ資ヲ求ムル爲メ山東其他ヨリ同地方ニ移住スルモノ連年數十萬ヲ以テ算ス斯ノ如キ顯著ナル發逹カ在滿日本人ノ存在及活動ニ依ルモノ尠カラサルハ公平ナル觀察者ノ等シク認ムル所ナルヘシ事態叙上ノ如クナルニ拘ラス中國ノ或ル方面ニ於テハ滿洲ニ於ケル我カ旣存權益ヲ根抵ヨリ破壞セムトスル煽動的言動ニ耽リツツアルヤノ報道アリ之カ爲メ日本國民ノ感情興奮スルハ固ヨリ當然ノ事理ニシテ苟モ實際的政治眼ヲ以テスレハ斯種策動ノ徒勞ニ歸スヘキコト一見明瞭ナルヘシ要スルニ日本國民ハ其ノ黨派及主義ノ如何ヲ問ハス自國生存權ノ必要條件ト認ムル權益ニ付テハ現下如何ナル事情ニ迫ラルルトトモ之ヲ抛棄セサル確定的決意ヲ有スルモノナリ

吾人ハ從來多大ノ關心ヲ以テ中國和平統一ノ確立ヲ翹望シ來レリ蓋シ同國ニ於ケル內亂ノ頻發カ我カ對支貿易ノ正常ナル發逹ヲ麻痺セシメタルハ勿論、殊ニ吾人ノ憂慮スル所ハ凡ソ中國內ニ於テ日本ノ承認セル政府ト相拮抗シ該政府ノ權力ヲ絕對的ニ否認スル强大ナル反對勢力存在スル限リ兩國關係上永續的重要性アル建設的政策ヲ實行スルニ重大ナル困難ヲ免レサルコトナリ吾人ノ新ニ執ラントスル行動ハ如何ニ善意ニ出テタルモノト雖モ動モスレハ何等カ中國ノ內政ヲ左右セムトスル企圖ナルヤニ誤解セラレ吾人ノ態度ハ如何ニ公平ナリト雖中國政局ニ於テ相抗爭セル二派ノ孰レカ一方ニヨリ攻擊ノ的トセラルルコトヲ例トス

吾人ハ旣ニ中國ニ對スル我方ノ意向ヲ明確ニ天下ニ宣明シ來レリ卽チ不侵略、相互的權利尊重共同利益ノ增進卽チ一言ニシテ之ヲ蔽ヘハ、「共存共榮」コソ我カ對支關係調整上終始一貫吾人ノ念頭ニ存スル指導的方針ナリ然レ共國際親善ハ相互的ナルヲ要件トス一方ヨリ友情ノ手ヲ差シ延フルモ他方カ之ニ應シ欣然其ノ手ヲ執ルニ非サレハ何等親善ニ資スルモノニ非ス近年行ハレタル日支間重要交涉ハ多クハ中國ニ於ケル日本ノ旣得地位ヲ抛棄スルノ問題ニ關スルモノニシテ就中山東問題並中國關稅及治外法權問題ノ商議ニ於テ然リ是等總テノ機會ニ於テ吾人ノ公正且友好的ナル對支政策ハ充分明瞭トナリタルモノト信ス、中國ニ於テハ吾人ノ政策ヲ以テ何等カ我弱點ヲ示スモノト解スルヤ余ハ中國國民カ能ク事ノ眞相ヲ洞察セムコトヲ望ム


 昭和六年七月三十一日幣原外務大臣の陳友仁氏に說示せる要領(譯文)

滿洲ニ於ケル我カ權益ハ頗ル多岐多樣ニ亙リ直截簡明ナル定義ヲ下シ難キモ是等權益ノ大部分ハ條約ニ根據ヲ有シ居リ又何レモ多年ノ意義深キ歷史ノ所產ナラサルハ無シ千八百九十六年ニ淸國ハ露國トノ間ニ特ニ日本ヲ對𧰼トセル秘密同盟條約ヲ締結シタルカ同條約ノ有效期間ハ滿十五個年ニシテ日露戰爭ハ其ノ期間內ニ發生セルモノナリ同條約締結セラルルヤ直ニ露國ハ滿洲ニ於ケル侵略政策ノ實行ニ著手シタルカ明治三十七八年戰役ノ勃發ニ至ル迄ノ日露交涉ノ記錄ハ當時露國カ實際上滿洲ヲ以テ自國領土ノ不可分的一部ト目シ居リタルコトヲ明確ニ證スルモノナリ斯クノ如キ露國政府ノ威壓的活動ニ對シ淸國ハ全ク無力ニシテ一言ノ抗議ヲモ提出シタルコトナシ此ノ事態ニシテ自然ノ推移ニ放置セラレタラムニハ滿洲ハ疾クニ淸國領土中ヨリ喪失セラレタルコト疑ヲ容レス淸國ヲシテ此ノ廣大ナル沃地ヲ保持セシメタル所以ノモノハ實ニ日本ノ武力干涉ニ外ナラス吾人ハ淸國ノ日露戰爭ニ對スル嚴正中立ノ宣言ニ信賴シ終始同國領土保全ノ方針ニ忠実ナリシ次第ナルカ若シ當時露淸秘密同盟ノ條項ニシテ曝露セラレ居リタランニハ日本ハ上述領土保全ノ方針ヲ一變シテ個別ノ政策ヲ執ルニ十分理由アルコトヲ認メラレタルナルヘシ

日露戰爭ノ終結以來滿洲ハ建設的事業ノ凡有ル方面ニ於テ驚クヘキ進展ヲ示シ支那ノ他地方ニ曾テ見サル程度ノ平和ト繁榮トヲ得タリ斯ノ如キ東北諸省ノ發展カ少クトモ一部分ハ日本ノ同地方ニ於ケル企業及ヒ投資ノ結果ナルハ我國民ノ確信スル所ナリ吾人ハ未タ曾テ滿洲ニ對スル中國ノ領土權ヲ爭イタルコト無シ吾人ハ同地方ニ對スル中國ノ領土權ヲ明白ニ承認シ且之ヲ領土權タル凡有ル意味ニ於テ尊重セントスルモノナリ要スルニ吾人ハ同地方ノ領土權ヲ要求スルモノニ非ス然レ共吾人ハ日本國民カ內地人タルト鮮人タルトヲ問ワス相互的親睦及ヒ協力ノ基礎ノ上ニ滿洲ニ居住シ商、工、農業ニ從事シ其ノ他一般ニ同地方ノ經濟的開發ニ參加シ得ル如キ狀況ノ確立セラレンコトヲ期待スルモノニシテ之ヲ以テ少クトモ道義的ニ吾人ノ有スル當然ノ要求ナリト思惟ス

次ニ滿洲ノ鐵道問題ニ付吾人ハ中國側ノ如何ナル鐵道計畫モ南滿洲鐵道ノ存立及ヒ運行ニ對スル脅威ヲ企圖スルモノニ非サル限リ之ニ干涉セントスルカ如キ意圖ナシ日淸兩國代表者ノ調印セル千九百五年北京會議議定書ハ南滿洲鐵道ト並行シ又ハ同鐵道ニ有害ナル鐵道ヲ敷設セサルヘキ旨ノ中國政府ノ保障ヲ包含シ居レリ何レニスルモ中國ニシテ日本ノ南滿鐵道所有及ヒ經營ニ同意セル以上苟モ該鐵道ヲ無價値ナラシメントスル如キ線路ノ建設ヲ計畫スルコトヲ得サルハ信義ノ觀念上自明ノ理ト謂ウヘシ吾人ハ本問題ニ付テモ「共存共榮」ノ主義ニ據ラントスルモノニシテ我方トシテハ中國カ我方累次ノ抗議ヲ無視シ建設シタル旣成競爭線ノ撤去ヲ要求セントスルモノニ非サルモ一方日華鐵道系統間ニ無益ナル競爭ヲ豫防スルニ足ルヘキ運賃率及ヒ運輸連絡ヲ取極ムルノ要アルコトヲ主張スルモノナリ吾人ハ兩國鐵道當局カ友好的協力ノ共通ノ基礎ヲ發見シ以テ双方ノ永續的利益ニ資スルノ可能ナルヘキヲ信ス


 千九百三十一年七月二十八日及び同三十一日陳友仁幣原男爵間意見交換の要領(譯文)

一、過去四半世紀間ヲ通シ日華兩國ノ間ニ存在セル不滿足ナル關係ヲ終了セシムルコト兩國ノ爲メ利益ナリ

二、兩國關係ハ之ヲ眞ノ親善ノ基礎ノ上ニ置カサルヘカラス右ハ廣東政府カ支那ノ承認セラレタル政府トナリタル暁同政府ト日本政府トノ間ニ締結セラルヘキ協約又ハ條約ニ依リ形成セラルル同盟又ハ協商ノ形式ヲ取リ得ヘシ

三、該締約ニハ極東ニ於ケル平和ノ必要及ヒ其ノ維持保全ヲ明定スヘク而シテ一般ニ挿入セラルル形式的ノ普通ノ條款ノ外不侵略條款及ヒ日支兩國間ニ係爭中又ハ未解決ナル總テノ問題及ヒ事項殊ニ滿洲ニ關スルモノノ解決ニ關スル規定ヲ設クヘキモノトス

四、滿洲ニ關シ日本ハ支那ノ主權ヲ明白ニ承認シ同地方ニ對シ全然領土的ニ侵略ノ意圖ナキコトヲ宣明ス然レ共日本ハ滿洲ニ於テ幾多ノ權益ヲ有シ居リ右權益ハ大部分條約ニヨリ附與セラレタルモノニシテ且何レモ多年ニ亙ル歷史ノ成果ナリ南滿洲鐵道ハ其ノ一例ニシテ同鐵道ノ經營及ヒ運行ハ同鐵道ノ破滅ヲ企圖スル如キ支那側鐵道ノ敷設ニ依リ阻害セラルヘキモノニ非ス一方日本ハ從來其ノ敷設ニ對シ抗議來レル支那側鐵道ト雖モ若シ無益ナル破滅的競爭ヲ防止スヘキ運賃及ヒ聯絡ニ關スル取極ニシテ成立スルニ於テハ之ヲ旣成事實トシテ容認スヘシ更ニ日本ハ滿洲ニ於イテ自國民カ內地人タルト朝鮮人タルトヲ問ハス安穏ニ居住シテ商、工、農ノ平和的職業ニ從事シ得ル如キ狀態ノ確立センコトヲ少ク共道德的ニ要求シ得ヘキモノトス而シテ此ノ道德的要求權三個ノ考慮ニ根據ス卽チ第一ニ滿洲ハ日本國民ノ血ト財トノ犠牲ナカリセハ今日露國ノ領土タルヘシカリシコト之ニシテ右ハ明治三十七八年ノ日露戰爭ニ至ル交涉ノ經緯ニ照セハ明カナリ當時露國ハ滿洲ヲ露西亞帝國ノ一部トシテ取扱イ日本カ滿洲ニ對シ何等ノ利害關係ナキコトヲ宣言スヘキコトヲ提議シタル場合ニオイテスラ在滿日本領事ニオイテ露國ノ認可狀ヲ受クヘキモノナルコトヲ主張セル程ナリキ第二ニ日露戰爭中日本ハ支那ヲ中立國トシ又滿洲ヲ槪シテ中立地帶トシテ認メ且ツ其ノ取扱ヲ爲シタル次第ニシテ戰爭終結ニ當リ滿洲ハ依然支那領土タルヲ喪ハサリキ然レトモ若シ當時日本ニシテ支那カ露國ノ秘密同盟國タリシ事實ヲ知悉シ居リタランニハ恐ラクハ滿洲ニ關シ別異ノ解決方法講セラレ居リシナルヘク右事情ハ日露開戰ノ場合支那ハ露國ノ同盟國タルヘシトノ秘密同盟條約ノ要領ヲ暴露セル華府會議ニオケル顧維釣氏ノ陳述ニ依リ明ニセラレタル次第ナリ第三ニ滿洲ハ支那ニオイテ恐ラク最モ繁榮セル土地ト認メラルル處日本トシテハ右ハ同地ニオケル日本ノ企業及ヒ投資ニ因ルノ大ナルコトヲ主張シ得ルモノナリ

五、日支兩國間ノ締結カ有效ナル爲ニハ支那側ニオケル一種ノ國民的承認ヲ經サルヘカラス此ノ點ニ關シ陳友仁氏ハ右ハ國民黨ナル機關ヲ通シ實現シ得ヘキ旨ヲ述ヘタリ又同氏ハ支那側ニ於テハ斯ル締約ハ全國大會ニ於テ國民黨ニ附議シ其ノ承認ヲ得タル後ニ於テノミ批准セラルヘキモノナルコトヲ表明セリ