[文書名] 國際聯盟總會に於ける松岡代表の演説(国際連盟総会に於ける松岡洋右代表の演説)
昭和八年二月二十四日
日本代表は旣に十九人委員會の作成せる報吿案に同意し難く從つて之を受諾し得ざる旨を總會に通吿した。報吿書全體を通じて感知し得る一つの顯著なる事實は、十九人委員會が、極東の實際的情勢と比類なき且つ戰慄すべき情勢の眞只中にある日本の困難なる立場と、日本をして從來の行動を執るの已むなきに至らしめた其の最終的目的とを認識しなかつたことである。
極東に於ける紛議の根本原因は、支那の無法律的國情と其の隣國への義務を承認せずして飽くまで自己の意志のみを行はんとする非望之である。支那は今日まで永い間獨立國としての國際義務を怠つて來て居り、日本は其の最も近い隣國として此の點で最も多大の損害を蒙つて來た。
而して滿洲のみが、昨年まで支那の名目のみの主權の下に支那本土と一種の接觸と聯絡を持つことにより支那の一部分として殘つて居たものである。滿洲が完全に支那の主權下に在つたと言ふ如きは實際的且つ歷史的事實に對する歪曲である。今や此の地方は支那より離れ、獨立國となつた。
滿洲をして法律及び秩序の國たらしめ、平和及び豐潤の地たらしめ、以て單に東部アジアのみならず、全世界の幸福たらしむることは日本の希望であり決意である。而して此の目的を達成する爲、日本は永年に亙つて支那と協力せんとする用意を有し、數年に亙つて此の協力を求めて來た。併し乍ら支那は我々の友情と援助を受け容れやうとせず、却つて常に日本に妨害を與へ、間斷なき紛爭を生ぜしめた。近年殊に國民黨及び國民政府による計晝的排外思想の助長が行はれ、以來此の對日反對は益々烈しくなり、我々が忍耐を示せば示す程此の反對は激化し、遂に我々の堪へ得べからざる點に迄達した。日本の讓步に對し支那亦讓步を以て我々を迎ふべきであるのに、支那は却つて我々の態度を軟弱と解釋し、遂には日本人の滿洲撤退を主張し、凡ての歷史的背景を無視し、恰も日本人には滿洲に在る理由なきが如く、日本を目して純然たる又單なる侵略國として非難し、日本は最早同地の開發に携るべからずと主張し始むるに至つた。
日本が認めて居る滿洲の重大性に就ては更めて詳說する必要を余は認めない。總會は最早同地方に於ける日本の經濟的政治的必要を知悉し居るべき筈である。然し余は、此の重大時機に於て今一度諸君の注意を喚起したい。卽ち日本は滿洲に於て二回の戰爭をなし、而も其の一つに於ては日本國民の存立を賭したのである。日本は最早戰爭を欲しない、國際平和は互讓を基礎としてのみ贏ち得られることは眞實である。然し乍ら何れの國もその存立の爲め到底讓步も妥協も不可能な死活問題を持つて居る。滿洲問題は卽ちそれである。同問題は日本國民にとつて實に生死に關する問題とされてゐるのである。
世界の諸國は永い間假想の下に支那を取扱つて來た、我々は遙か以前に聯盟規約第一條の聯盟國たるべき國、屬領及び植民地は「完全な自治國」たるべきを要することを規定して居ることに氣が附くべきであつた。支那は斯る國ではない、支那本土以外では支那の主權は久しい以前に消失してしまひ、又支那本土內でも之を統治するに足る權威と能力を有する組織ある政府は存在しなかつた。南京政府は今日、支那本土十八省の中僅かに四省に足りない地域の事務を執行するのみである。世界は斯の如き假想の支那を對𧰼として聯盟に對し條約の文面を維持することを要求した。斯る誤れる主義に危險が存在するのである。
日本が過去に於ても又將來に於ても、極東の平和及秩序並に進步の柱石たることは日本政府の堅き信念である。若し日本が滿洲國の獨立の維持を主張するとすれば、その現在の情勢では滿洲國の獨立のみが極東に於ける平和と秩序への唯一の保障を與へるものであるとの堅い信念によるものである。
現在の日支紛爭勃發以後に於てすら日本は和協の政策を持續した、從つて若し支那が其時に於て事態の實體を認識し協定に到達せんとする眞摯なる希望を以て日本との交涉を受諾したならば、大なる困難なくして協定を締結し得たであらう。然るに支那は此の方法を撰ばずして聯盟に訴へ、聯盟を構成する列國の干涉によつて日本の手足を縛せんとした。而して聯盟は紛爭中に含まれたる眞實の問題と極東の實際的情勢とを十分諒解せず、更に恐らく支那の眞の動機につき何等の疑を挿まずして支那を鼓舞激勵した。支那が聯盟に訴へたのは、諸君が聽かされる如く決して平和愛好と國際原則に忠實ならんとする精神を其の動機としてゐるものではない。他國より多くの軍人を有する國は平和の國民でない、國際誓約を慣習的に破つた國は國際原則を尊重する國民でない。
リットン報吿書の或る部分は其の性質に於て皮相的であり、屢問題の根柢を窮めることが出來なかつた。滿洲國の人民の大多數は支那の人民とは明確に相違してゐる。滿洲人口の大半は正しくは滿洲人と稱すべきものより成る、それは舊滿洲族の子孫並に昔の滿洲族と同化した支那民族並に蒙古人から成つてゐるのである。之等人民の大多數は未だ曾て支那に居住したこと無く、支那に對しリットン報吿書の記述してゐるが如き愛着は全然持つてゐないのである。此の點に關し報吿書は明瞭に誤謬に陷つてゐる。
十九人委員會の報吿書に關しては余は批判的見解を述べざるを得ないものである。我が國の滿洲に於ける善き事業は記錄に留る所である、我々は過去現在を通じ此の未開地域に於ける一大文化的安定的原動力である。若し十九人委員會にして我々が如何に滿洲人に利益を與へたるかを知り、且つ諒解してゐたならば、同委員會は其の見解を改め、斯る事業に好意的意見をなしたであらう。
次ぎにリットン調査委員會の提出した諸勸吿に轉じやう。此等の勸吿の充分なる意義は今我々の前に置かれた報吿書草案(十九人委員會)の中に於ては看過されて居るやうである。余は特にリットン報吿書第九章に包含されてゐる第十、卽ち最終の原則に言及するものである。右原則は左の通りである。
「支那の改造に關する國際的協力、支那に於ける現在の政治的不安定は日本との友好關係に對する障碍であり、且つ極東に於ける平和の維持が國際的關心事たる關係上世界の他の部分に對する危惧であると共に、敍上の條件は支那に强固な中央政府が確立されなければ實行することが出來ないから、滿足なる解決の最終的要件は故孫逸仙博士が提議した通り、支那の內部的改造に對する一時的の國際協力である。」
余は此の明確な警吿を愼重考慮せんことを聯盟に要請するものである。
余は聯盟が單に支那に對して專門委員會を派遣し、當惑した政府に對し衞生、敎育、鐵道、財政其の他の行政部門に關する忠言を提出することに依つて、支那を一變させることが出來るとの忠吿乃至希望に依つて誤られないことを要請するも、余は余の支那の同僚に對し一の決定的質問を提起せんとするものである。卽ち支那政府には究局迄突き詰めれば、結局支那に對して何等かの形式に於ける國際的管理を課せんとすることを豫定する勸吿を受諾する用意が果してあるのであるか。貴下は此の報吿書草案の表決を爲さんとする總會各代表の前に、此の點に關する貴國政府の立場を明確にせられるのであるか。
本報吿書を採擇する時は、支那側に對し彼等が一切の責任を許され、從つて依然として日本を蔑視し、而も何等の非難を受けずして濟むとの印𧰼を與へるであらう。更にそれは利害が密接に交錯してゐる日支兩國人の感情を更に惡化せしめるに過ぎないであらう。兩國民は友人たるべきものであり、其の共同の安寧の爲に相互に協力すべきものである。諸卿の前に置かれた報吿書の採擇により、總會は我々卽ち日本人と支那人との何れに對しても如上目標への道程に於て助力を與へるものではなく、且つ平和の大業にも資する所無く、支那に於ける受難の大衆の利益にも貢獻する所は無いのである。
報吿書草案は更に多少とも實效的な樣式に於て滿洲に支那の主權を確立することを期したものである。換言すれば報吿書草案は支那が從前未だ嘗て有してゐなかつた權力と勢力とを滿洲に導入せんと期するものである。我々は茲に靜思一番し、斯る事が果して理義に適つてゐるか否かを反問すべきではないか。更に報吿書は支那の煽動家の爲に新な途を拓き徒に事態を紛糾せしめ、斯くして新たなる恐らくは更に險惡なる破局を招來するに過ぎないであらう。
報吿書草案は滿洲全土にある程度の國際管理を確立せんとしてゐる、而も斯る管理は過去並現在を通じて滿洲に存在しなかつたのである。何を根據として此の企圖を敢てせんとするのであるか、余の解するに苦しむ所である。米國人はパナマ運河地帶に斯る管理を設定することに同意するであらうか。英國人は之をエヂプトに於て許容するであらうか。何れにせよ、諸卿は如何にして之を實行せんとするのであるか。諸君の政府の何れが、犧牲を伴ふこと確實な重大責任を執つて此の任に當らんとするのであるか。此の點に關し余は斷然日本國民が、余に取つて餘りに明白で說明の必要すら認めない理由に基き、滿洲に於ける一切の此の種の企圖に反對するであらうことを明言せんとするものである。
旣に述べた如く且つ旣に或る程度まで述べた理由に依り、日本が置かれてゐる現實の事情の下に於て、我々の前に置かれた報吿書草案に關し日本として他に選ぶべき道がないのである。聯盟は日本に對し他に何等の道をも殘してゐない、日本は卽座に且つ明確に「否」と答へぎるを得ない。紳士諸君、我々の希望は力の及ぶ限り支那を援助せんとするにある、之は我々が爲さねばならぬ義務である。此の聲明は此の際或は諸卿に對して逆說の如くに聞えるかも知れないが、而も之は眞實である。
而して我々は現在不幸にして滿洲國に關し意見を異にして居るのであるが、而も滿洲國の自立を助けんとしつゝある現在の我々の努力は、やがて後は支那を援助せんとする日本の願望と義務とを實現する契機となり、之によつて東亞を通じて平和の確立に成功するに至るべきことを余は確信する。
余は此の機關(聯盟)に對し、事實を認識し將來の理想を直視せんことを乞ふものである。余は諸卿に對し、諸卿が我々の言に基いて我々を取扱ひ且つ信賴せられんことを願ふものである。此の我々の要望を拒否することは大なる過誤となるであらう。余は諸卿に此の報吿を採擇せざらんことを要請するものである。
松岡代表宣言書
報吿書の採擇に續き松岡首席代表が朗讀した宣言全文左の如し
報吿書草案が今この總會によつて採擇されたことは、日本代表部並に日本政府にとり深く遺憾とするところである。日本は國際聯盟創立以來その一員である、一九一九年パリ會議の我が代表は聯盟規約の起草に參加した、我々は聯盟の一員として人類共同の一大目的の爲に世界の指導的國家と相協力して來たことを誇りとするものである、日本は外の同僚聯盟國と共に人類共同の然く永く抱懷されたる一大目的を達成するに努めて來たのである。余は同一の目的卽ち恒久平和の確立を見んとする希望が、總て我々の審議並に行動に際して我々の總てを動かしてゐることを疑はぬものであるが故に、今我々が當面しつつある情勢を深く遺憾とするものである。日本の政策が極東における平和を保障し、斯くして全世界を通じて平和の維持に貢獻せんとする純眞なる希望によつて根本的に鼓吹されてゐるものであることは周知の事實である。然しながら總會によつて採擇された報吿書を受諾することは爲し能はざるところであり、特に右報吿書に包含された勸吿が世界の此の部分(極東)に於ける平和を確保するものと思惟し得ないものであることを指摘せざるを得ない。之は日本の苦痛とするところである、日本政府は今や極東に於て平和を達成する樣式に關し、日本と他の聯盟國とが別個の見解を抱いて居るとの結論に達せさるを得ず。然して日本政府は日支紛爭に關し國際聯盟と協力せんとする其の努力の限界に達したことを感ぜざるを得ない。
然しながら日本政府は極東に於ける平和の確立並に他國との間に於ける親善良好關係の維持並に强化の爲には依然最善の努力を盡すであらう。余は日本政府が飽くまで人類の福祉に貢獻せんとする其の希望を固持し、世界平和に捧げられる事業に誠心誠意協力せんとする政策を持續すべきことを、こゝに付言する必要はあるまいと信ずる。