データベース『世界と日本』(代表:田中明彦)
日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

[文書名] 日英東京會談現地軍代表武藤少將聲明(日英東京会談現地軍代表武藤少将声明)

[場所] 
[年月日] 1939年8月14日
[出典] 日本外交年表竝主要文書下巻,外務省,335-340頁.
[備考] 
[全文]

武藤代表聲明 我々現地軍代表ハ七月七日着京以來、全國民ノ熱烈ナル後援ノ下ニ萬全ヲ盡シテ天津問題ノ解決交涉ニ當ツタカ、英國側ノ誠意アル回答ヲ得ス荏苒滯京スルノ不可ナルヲ信シ今日現地ニ引揚ケルコトニ決意シタ。

抑モ今次ノ會談ハ天津租界カ政治的ニ軍事的ニ將又經濟的ニ、北支治安攪亂ノ淵叢ヲナストノ數次ノ警吿、交涉ニモ拘ラス何等反省ノ色ナク、其ノ儘放任セハ愈々禍害增大スル緊迫セル事態ニ鑑ミ、北支軍最高指揮官ハ軍隊ヲ以テ同地域ヲ隔絕シテ實害ヲ減殺セントシタモノテアル。卽チ軍事行動ノ一部テアツテ、其ノ目的ハ絕對テアル。從ツテ英國側ノ意圖スル天津租界ノ隔絕ヲ解除センカ爲メニハ、天津租界ヲシテ現地軍ノ認メテ少クモ治安維持上、無害地域タラシメルコトカ先決要件テアル。此ノ我方ノ要求ハ絕對テアツテ、然モ公正妥當、何等苛酷ノモノテナイコトハ旣ニ周知ノ通リテアル。

然ルニ英國側ハ此ノ絕對的要求ヲ相對的妥協ニヨリ解決シ得ルカノ如ク誤認シテイル。斯クシテ二面外交ヲ弄シ遷延ヲ策シ第三國ノ介入ヲ企圖スル等ノ所謂英國傳統ノ外交術策ニ沒頭シテイル。現地軍ノ目的ハ簡明テアリ主張ハ率直テアル。而モ說クヘキコトハ說キ盡シタ。我々現地第一線ニ勤務スルモノハ戰友カ炎熱ノ下營々治安工作ノ成果ヲ收メ居ル時悠々滯京スルコトヲ許サナイ。我々ハ「クレーギー」大使以下英國側代表カ相當ナ極東認識ヲ有シ、終始熱意ヲ以テ問題解決ニ努力セラレアルヲ知リ、武人トシテ其ノ苦衷ヲ察スルニ吝カテナイ。然レトモ英本國ノ態度カ依然トシテ「カー」大使以下在支機關ノ過誤乃至誇張サレタル報吿ニ基キ、歪曲セラレタル極東認識ニ呪縛セラレアルヲ寧ロ英國ノ爲メ惜シムモノテアル。

我々ハ英國側ノ希望ニヨル東京會談ノ敎場ニ於テ、天津租界問題ノ圓滿ナル解決及ヒ其ノ後ニ來タル相互ノ理解ト明朗ナル成果ニヨリ、將來英國ノ執ルヘキ極東政策ノ正シキ方向ヲ現實ニ敎ヘントシタカ、英國ハ我方ノ親切ヲ解セス寧ロ鐵血ノ敎壇ヲ欲シアルカノ感ヲ我々ニ抱カシメル。果シテ英國カソレヲ欲スルナラハ確カニ迅速ナル解決ノ一手段テアラウ。英國首相チエンバレン氏ハ區々タル在支權益ノ毀損ニ關シテ「忍フヘカラサル侮辱」或ハ「極度ノ憤慨」ナト最大限ノ言辭ヲ以テ英國民ニ呼ヒカケラレルカ、英國ノ直接、間接ナル援蔣政策ニヨリ犧牲トナツタ幾多忠勇ナル戰友ノ英靈ニ對シ我等ハ如何ナル言葉ヲ以テ慰ムヘキカ。又英國ノ長期抗戰支援ノ結果、塗炭ノ苦楚ヲ嘗メツツアル支那幾億ノ民衆ハ其ノ怨恨ヲ如何ニシテ表白スヘキカ。流石文字ノ國支那ニ於テサヘ其ノ言葉ナク、僅カニ反英ノ二字ニ辛ウシテ其ノ欝憤ヲ晴ラシテヰルカノヤウテアル。

我々ハ英國ニ對シ、權益ヲ擁護セントセハ先ツ現狀ヲ認識スルコト、反英運動ニ關スル抗議ヲ提示スル前、過去現在ニ於ケル自己ノ行爲ヲ反省批判スルコトノ二點ヲ勸吿シタイ。

英國ニシテ虛心坦懷我等ノ勸吿ヲ容認センカ日英關係ノ調整ハ其ノ日ニ成リ、況ンヤ今次會談ヲヤテアル。若シ英國ニシテ尙ホ過去ノ甘夢ヲ追究スルノ愚ヲ敢ヘテスルナラハ、其ノ結果ハ英國自ラ刈リ取ルノ覺悟ヲ要スル。

我々カ再ヒ此ノ飛行場ニ降リ立ツ時アリトセハ、ソハ英國カ飜然其ノ態度ヲ改ムル時テアル。現地今後ノ事態ハ必スヤ英國ヲシテ其ノ欲スルト否トニ拘ラス認識ヲ是正セシメ、其ノ執ルヘキ正シキ方途ヲ敎ヘルテアラウコトヲ確信スル。